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考察コンテンツの基礎づくり・その1「数えよう」

考察 考え方・書き方

 「こういうコンテンツが読みたい」という文章を書く気はないし、「自分はこういうつもりでコンテンツ作ってる」というのはすでに書いたので、久々に「自分がコンテンツを作るときのやり方」について書いてみるの巻。ただし考察限定です。

 ぼくの考察の作り方については、10年も前に「あんよ流・考察の書き方」としてまとめています。そこで示した考え方や作品に向き合う態度などは、今でもぼくが考察を書くさいの大前提となっているため、とくに付け加えることはありません。

 ただ、もう少し基礎的な作業としてぼくが実際に何をやっているのか、そこからどんな発想が生まれてくるのかについて、2回くらいで述べてみようかと思います。それは表現力や論理的構成力といった訓練を通じて伸ばす必要のあるもの(あるいはセンスで決まってしまうもの)とは異なり、おそらくほとんどの人が現在の能力でこなせるはずの作業です。

 

 というわけで初回のテーマは、「数えよう」です。

 

 ぼくのいくつかの考察の価値は、他のファンが誰もまともに数えようとしなかった作品内事象をきっちり数えてリスト化・数値化するという、この一点のみで成り立っています。数えることのメリットは、例えば次のものなど。

(a)誰か頭のいい人が面白いことを読み取ってくれそうなデータを提供できる。

(b)自分や世間の先入観が正しいかどうかを実際の数値でチェックできる。

(c)登場人物や状況の実態・変化を数値で可視化できる。

(d)さらにそこから、隠れた登場人物の成長や事態の構造・推移を浮かび上がらせられる。

  具体例にそって見ていきましょう。

 

 

1.「『シスター・プリンセス』キャラクターコレクション一歩手前」

 

 執筆公開は2004年ですが、最初のデータ収集は2002年5月。つまりアニメ版シスプリ考察よりも前なので、ネット上でのぼくの考察作業はこれが第一歩ということになります。

 どんな作業をしたかというと、シスプリのキャラコレ全12巻の中でそれぞれの妹が兄を呼んでいる(可憐なら「お兄ちゃん」)回数を調べたものです。なぜそんなことをやろうとしたかは、よく覚えてません。ぼくは漫画作品なら主要人物の登場コマ数とか数えたがる人間なので、同じように衝動にかられていたはずです。ただ、その前後でキャラコレテキストの行数やハートマークなども数えてたので、それらのデータや相互比較によって各妹の特徴(つまり作者による12人の一人称テキストの書き分けポイント)が明らかになるのではないか、と期待していたのでしょう。

 この、たんに数えただけのデータをいくつか提示しておいたところ、友人が統計処理とグラフ化を行ってくれたおかげで、分析っぽい基盤ができてきました。これが上の(a)にあたります。データを分析する頭がなくとも、数えることさえできればファンダムにとって面白い考察の足がかりになることは可能なのです。

 また、当初の予想では、兄が登場しない話よりも登場する話(とくにデートやお泊り話)のほうが兄を呼ぶ回数は多いと考えていましたが、実際に調べてみると兄不在時の可憐(第1巻第4話)が兄を呼ぶ回数がべらぼうに多いと判明しました。おかげで可憐についての認識を正すことができたわけでして、これが上の(b)にあたります。

 

 

2.「アニメ版『シスター・プリンセス』初期の危機とその超克 ~第3話の2つの表を手がかりに~」

 

 ぼくの考察の記念すべき1本目です。

 ここではまず、作品中に描かれた「当番表」と「<お兄ちゃんと一緒>表」をもとに、それぞれにおける各妹の担当回数を数えました。当時、ネット上でこの作業をしていたファンはいなかった(ただし同人誌ではすでにあり)ので、誰でも参照できるデータを提示するというだけでも価値がありました。ただし本考察ではぼく自身、このデータを2つの分析に用いています。

 1つは、妹達の当番回数からそれぞれの年齢設定を読み取るというものです。シスプリの妹達の年齢は公式設定がなく原作やゲームでも上下関係が様々なのですが、このアニメ版第1作での隠された設定をつかむことによって、その後の共同生活における年齢相応の役割分担などを首尾一貫して読み取るための手がかりが得られました。そして、この当番回数が年齢に応じて決められているということから、妹達が兄と新たに始める共同生活の義務をできるだけ公平に分かち持とうとしているのだと結論づけました。

 もう1つは、妹達が兄を独占できる時間が決して公平に分けられていないという事実の指摘です。眞深の分がすべて四葉に回されたため、四葉だけが得してるのですね。表を見て妹達の名を数えるだけで、このことを明らかにできたわけです。

 これらは、データから兄妹たちの共同生活の実態とその特徴を明確化したということであり、上の(C)にあたります。ところがこの2つの分析を合わせてみると……というのは次回のテーマなのでここでは省略しますが、その部分がつまり(d)にあたります。

 

 

3.アニメ『ガールズ&パンツァー』にみる後継者育成と戦車道の諸相 アンツィオ高校篇 

 

 たとえ表や図などで作品中に描かれていなくても、数えることで気づくことはたくさんあります。そしてその発見が作品愛をさらに深めることも、いっぱいあります。

 このアンツィオ考察の終わり近くでは、副隊長ペパロニが隊長アンチョビを「ドゥーチェ」と呼ぶときと「姐さん」と呼ぶときを数えています。隊員たちが「ドゥーチェ」と連呼する場面が印象的な一方、ペパロニは両方の呼び方をしていたので、ふと(2つの呼び方を何らかの理由で使い分けてるかも?)と気になり、確認してみたのですね。

 すると、回数は2:4で「姐さん」呼ばわりのほうが多いと分かりました。また、ここでそれぞれの台詞や状況を比べてみたところ、ペパロニが直情的な場面で「姐さん」呼ばわりが出てきやすいのではないかと見当をつけました。逆に言えば、彼女が副隊長として冷静になろうとするとき「ドゥーチェ」呼ばわりなのではないか。

 この仮説にたってペパロニの他の言動を再確認していくと、試合中の彼女の意識の揺れ(つまり(d))が浮かび上がってくるとともに、優花里に語った軽口が隊長への愛慕の念を秘めたものだったことに気づかされたのです(つまり(c))。

 もちろんこれは、ぼくがそう見たからそう見えるたぐいの解釈かもしれません。しかし、ペパロニの台詞に現れる隊長呼称を数えるという単純作業の結果として、ぼくはその前よりもはるかに深くペパロニやアンツィオの面々を好きになることができました。

 

 

4.「『ハートキャッチプリキュア』堪忍袋の緒が切れるまで」

 

 台詞に登場する特徴的な言い回しなどを網羅するという作業については、この考察が極北でしょうか。キュアブロッサムの「私、堪忍袋の緒が切れました!」という決め台詞に注目して、各話の犠牲者の悩み・敵幹部による批判や非難・プリキュアによる反論をリスト化したのがこれです。

 ただし、当初ぼくは(とりあえずリストを作ってみるか)という軽い意図で、録画をチェックし表に並べるだけで済ませていました。ところが、この表だけこしらえた段階で公開したところ、キュアブロッサムを揶揄する反応がいっぱい届いたのですね。ぼくのまとめ方がまずかったせいなんですけど、そういう反応や敵幹部への賛同などは、ブロッサムの態度をよしとするぼくの本意にまったく反します。データ表現の不備によって世間の誤解を招いたという意味で、これは(a)と(b)の明らかな失敗例でした。

 そこで慌てて自分の主張をはっきり示すため、前後に考察スタイルの文章をどっさり加筆したものが現在のものです。加筆箇所ではデータ分析を行っていますが、その視点はプリキュアと敵幹部の価値観の対比にあり、これに基いて両者の意見対立をいくつかの類型にまとめています。この類型化と対比の結果、犠牲者に対する敵幹部の批判・非難は視聴が思うほどの正当性がないことが明らかとなり((c)と(d))、これによってぼくは自ら招いた作品への誤解を自ら解いたわけです。

 

 

5.「『ベイビー・プリンセス』公式日記における姉妹の相互言及」

 

 先の4.と同じく特定の言い回しなどを取り上げたもののうち、それを数値化して分析した考察といえばこれが随一。べびプリ公式日記の中で19人の姉妹それぞれが、自分の担当回に他の姉妹の名を綴っている回数を調べたものです。

 これは冒頭に書いてあるとおり、大好きな長男にあてた日記なのにそこでわざわざ他の姉妹の名を出すというのは、よほどその姉妹に対して関係が深いことの表れではないか、という仮説に基いています。(なんでそんなこと思いついたのかについては、また後日。)

  さて、実際に1年分の日記をもとに回数を数えリスト化したところ、他の姉妹の名前を出す回数が多い者・少ない者や、他の姉妹に名前を出される回数の多い者・少ない者がいることが分かりました((a)としての生データ化)。ただし各人の日記担当回数にはわりと差がありますので、その数値をもとにして、「回数の多い・少ない」という「言及数・被言及数」を「頻度の高い・低い」という「言及度」に変換してみました。

 すると、たんに回数をみただけでは分からない姉妹それぞれの傾向が浮かび上がってきたのです(自分にとっての(b))。これによって姉妹をタイプ分類しつつ、この枠組みを用いて各人の日記内容を読み返すことで、類型と個性とを組み合わせた各人のより深い理解ができるようになりました(つまり(c))。

 さらにぼくはこのアプローチを翌年の日記でも用いることで、長男が家族の一員に加わった1年目の姉妹の態度と、だいぶ馴染んできた2年目の姉妹の態度とを比較し、そこに様々な変化を確認することができました。(d)にあたる収穫です。

 

 

 以上いくつかのサンプルをもとにして、「数える」というじつに簡単な作業によってどういうことができるのかを確認してきました。数えて意味があるのかどうか分からないこともあるでしょうが、当初の予想や仮説が外れたとしても、それは「データ的に根拠がない」という事実を明らかにできたということなので、決して無意味ではないのです。同じような言説がふわふわ現れて耳目を集めたときに、そのデータを示してきっちり否定できます。

 もちろん「データを公開するだけではパクられて終わりだ」とか「せっかく手間暇かけて調べたのにもったいない」と思われるのであれば、自分なりの分析を付してもよし。ぼくもだいたい自前の考察を行ってるわけですし。

 ですが、もしも皆様の好きな作品のファンダムがパクリや安易な揶揄・非難を生まないと信頼できるものであるならば、あるいは特定の他者にデータをうまく活用してもらえるという確証があるならば。その作品について数え調べた生データをそのまま公開することも、十分に価値あるものだと思います。そのデータは自分の手をいったん離れたのち、やがて他の人々の手を通じて作品をより豊かに味わうための道具に鍛えられて、再び戻ってきてくれるのですから。そしてまた、逆に他の人が調べてくれたデータを用いるときには、当然の敬意を払いルールを守ってしかるべきです。

 そうやって作品理解や作品愛を互いに拡大深化させていく最初のきっかけは、(こんなの数えて意味あるのかな……?)と思いながらも調べてしまったあなたのデータにあるのかもしれませんよ。

自作コンテンツの評価を検索結果にみてみる

その他 考察

 サイト・ブログでのお金稼ぎなどをやらない理由については、以前書きましたが。

 

kurubushianyo.hatenadiary.jp

 

kurubushianyo.hatenadiary.jp

 

 自分の好きな作品について全力こめた考察などのコンテンツを、どれくらい読んでいただけてるのかについては、やはり気になります。それはアクセス数を増やしたいという気持ちよりも、自分が作品に見出した独特のよさ・面白さを多くの方々に知っていただくことで、「なるほど、また観て・読んでみたくなった」と再び作品に触れる機会にしてもらえれば、という思いからです。もちろん、ぼくの解釈を受け入れてほしい、という欲求も同時にあるわけですけれど。

 実際のアクセス数は調べてないんですが、とりあえずの指標として用いてるのが、「(作品名)考察」または「(作品名) 考察」でぐぐったときにぼくの考察コンテンツ(puni.net/~anyo/etc内、ここで一覧)がどの位置に出てくるか。例えば、次のようにです(2016年5月現在)。

 

 「シスプリ考察」で1位。

 「涼宮ハルヒ考察」で5位。

  (「ハルヒ考察」7位、「憂鬱考察」4位、「長門有希考察」「消失考察」1位)

 「べびプリ考察」で2位以内。

 「ハートキャッチプリキュア考察」で10位。

 「ガルパン考察」で2位。

  (「聖グロ考察」1位、「サンダース考察」7位、

   「アンツィオ考察」1位、「プラウダ考察」1位)

 

 だいたい検索結果1ページ目に入ってますかね、と胸を張ってみるの巻。もっとも検索上位だからといって内容の質についての評価も高いとは限りませんが、ひとまず検索後に読んでもらいやすいうえに、引き続き参照・言及してもいただけてるのかな、と勝手に考えています。ありがたいことです。

 自分の全力を注いで完成させたコンテンツが、こうして検索され参照されることでネット上にそれなりの地歩を固めているのだとすれば、少なくともぼくの趣味に関わる場ではアクセス数稼ぎのためのいいかげんなコンテンツに負けていない。これはそのようなファンダムを担われている皆様のおかげでして、またまたありがたいことです。自分の書きたいことや自分にとって面白いことを書きながら、それらを読んでいただけることへの信頼。楽しんでくださることへの感謝。ここしばらく話題となっているネット界の風潮を、笑顔でスルーする力が湧いてきます。

 

 その一方で「ネギま考察」や「アニマス考察」での検索だと、ぼくのはずーっと下のほうにしか出てきません。いずれも作品完結時まで書き続けてませんので、これは当然の結果でしょう。また、ハルヒ考察についても最初の憂鬱考察は公開後しばらくトップでしたけど今や上位からほぼ消えてますので、他所様のより新しいコンテンツに注目が集まるとこちらの位置が自然に下がっていくんだろうな、と想像します。逆に言えば、シスプリハルヒについては今後それほど目立ったコンテンツは登場しにくいでしょうから、現在の位置をこのまま維持できそうな塩梅。

 いや、そんなことに安堵するよりもむしろ、作品再開してファンダムが湧き上がって新規コンテンツが溢れかえるほうがずっと嬉しいんですけどね。そのときはぼくもまた何か書きたくなるはずで。

 

 最近のヒットといえば、ガルパンのとくにアンツィオ考察。ついったーでも時々、読むとペパロニがもっと好きになる・泣いてしまったなどのご感想を頂戴してます。ぼくも大好きですペパロニ。声を担当されてる大地葉さんのガルパン愛が(もともとTVシリーズ以来の作品ファンだったとのお話)、ペパロニというキャラクターによってさらに増幅されほとばしり出てるようにも感じてます。考察にも書きましたけど、「アンチョビ姐さーん! 姐さーん!」とか、もう泣く。皆も泣け。

 これも以前書いたとおり、ぼくは考察作業を通じて自分の作品愛を深めることを目的のひとつにしてますので、その考察を読んでいただくということは、『ハートキャッチプリキュア』(これも大好きな作品)風に言えば「くらえこの愛」なわけです。

 

 いま取り組んでるのは、ガルパン黒森峰考察。この考察シリーズはもちろん大洗女子が最後に控えてますので、あと2篇でいちおう完結ですね。

 あと以前からずっと抱えてるのが、まず『ローゼンメイデン』考察。真紅のあの台詞「だって 闘うことって 生きるってことでしょう?」の具体的なありようを、真紅たちやジュン・めぐそれぞれの闘いかたに見出すというもの。これは昔の日記で台詞登場時点の感想・予感を書きましたが、作品完結後しばらく経ちますし腰を据えてやってみたいところです。

 次に、『とらドラ!』考察。これはアニメ化されたタイミングでぼくが原作を読んで感想を綴ってたとき、ついったーで要望をいただいだんですが、当時ぼくも注目してた「『「食』への執着」という観点から全編読みなおすというものです。こちらはまったく手付かずですが、往時の勢いが戻ればハートキャッチ考察の形式で各描写の分類と解釈を行うことになるでしょう。

 実際これらは絵に描いた餅ですし、それより遥か以前より未完成のままなコンテンツも少なくないので、どこまでも気分次第ではありますが。ぼちぼち進めてまいります。

考察紹介のお礼

その他 考察

 『駄文にゅうす』様(5/11)、プラウダ考察を紹介いただきありがとうございました。

 こうしてお礼を書くのはアニメ版シスプリ考察の頃を思い出してなんか懐かしい……。いや、『駄文にゅうす』様にはガルパン考察も聖グロ篇からずっと紹介いただいてるわけでして、失礼いたしました&感謝申し上げます。

 自分のテキストを取り上げていただいたからというわけじゃないですが、かつてのニュースサイトの多くが閉鎖しニュースパクリサイトが横行する現在、「ニュースは鮮度より品質で勝負 『駄文にゅうす』のネタ探し術」をあらためて読みなおすと、技術のみならず考え方や作法についても学ぶことが多いです。

 

 参考になるテキストといえば、今世紀初頭の抜きえろげレビュー界を代表するサイトのひとつ『エロゲカウントダウン』内の「エロゲカウントダウンの作り方」を、ぼくはいまでも何かの作品の感想を書くとき参考にしてます。一方、そこで学んだはずの配慮事項にほとんど背を向けて、もうひとつのスタイルをひねりだしたのが考察形式。軽いタッチで作品愛を語るのであれば感想、作品内描写をどっぷり解釈することを通して作品愛を深めるのであれば考察、という使い分けをしてきてます。

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ガルパンプラウダ考察を公開しました

アニメ 考察

 というわけで、「アニメ『ガールズ&パンツァー』にみる後継者育成と戦車道の諸相・その4 ~プラウダ高校篇~」を公開しました。元となった日記はこちらですが、相変わらずほとんど原形をとどめていません。前回アンツィオ考察からほぼ1年ぶりという、ずいぶん苦労しての完成となりましたが、そのぶん文章量がとんでもないことになっております。ぼくの考察単体では最長かも。何はともあれ、皆様どうぞご笑覧くださいませ。

「探していた風景」を三たび聴く

音楽 漫画

 fhána佐藤純一さん作曲によるTVアニメ『長門有希ちゃんの消失』キャラクターソング「探していた風景」(畑亜貴作詞・酒井陽一編曲、『Character Song Series "in Love" case1 Nagato Yuki』 Lantis 2015年 に収録)を聴きました。また、この曲を聴くのとあわせて、漫画作品『長門有希ちゃんの消失』(ぷよ作 角川書店 単行本2010年より第9巻まで刊行中)を第8巻まで読みました。

 

 ぼくは自分の好きな作品の二次創作ものにはほとんど無関心なたちです。原作至上主義というか原作者至上主義というか、とにかく本来の作者による原作こそが唯一絶対であり。たとえ二次創作がどれほど面白くまた原作への理解を深めてくれようとも、原作へのぼく自身の関わり方に横から干渉してくるものとして警戒し、よほどのことがないかぎり手を出しません。この抵抗感はファンによる同人誌にも商業作品にも同じように抱くもので、それゆえ当然『長門有希ちゃんの消失』も読まず、そのアニメ化作品も観ずにきたわけです。そんなぼくが、このアニメ作品に関わるキャラソンCDを購入し、さらにその収録曲を聴くために漫画作品の単行本を揃えたという異例の行為に及んだのは、佐藤純一さんが長門有希のキャラソンを作曲されたと知ったからでした。

 好きな作品にまつわる歌曲であろうともその作詞家・作曲家の名を意識しないぼくですので、この方をそれまで追いかけてきたわけでは(失礼ながら)ありません。ただ、2010年にぼくが谷川流涼宮ハルヒの消失』(角川書店 2004年、以下『消失』)についての考察(接触篇発動篇)を執筆公開したとき、佐藤純一さんはTwitterにて好意的に言及してくださったのですね(直リンは控えます)。ハルヒシリーズの熱烈なファンである佐藤さんが劇場版『消失』を何度も観賞され、さらにネット上の感想・考察などを探されていて、その1つとしてぼくの考察も読んでいただけたということです。そのpostには当時のぼくがお礼を申し上げたところお返事を頂戴しまして、その節はありがとうございました。

 ところが先日のネット巡回中に偶然、佐藤純一さんがじつにハルヒシリーズやとくに長門有希に深いこだわりを持っておられることをようやく知り、またこの作曲家さんがあのときの方だと今更になって気づき、しかもごく最近『長門有希ちゃんの消失』の曲を手がけられたと分かりました。ここで興味がぐんと湧いてきたのですね。正直なところ、ぼくの考察がごくわずかでも作品受容に影響を及ぼしたかもしれない作曲家の方がどんな曲を書かれたのだろうか、という下衆な関心もぼくの中に間違いなくありました。また一方では、あのとき好意的なお言葉を頂戴したことへの感謝としてCDを購入しよう、という気持ちもありました。いやーあの考察、すんごい力を注いで書いたわりにはほとんど話題になりませんでしたからね。内心しょんぼりしてたぼくが、佐藤さんたちからあのときいただいた言葉にどれだけ励まされたかという。

 そんなこんなの思惑もありながら、ぼくは佐藤さんの曲を求めてCDを注文したわけですが、曲そのものを鑑賞するだけでなく漫画作品も読んだうえで味わいたいな、と考えて、単行本を第4巻まで一緒に購入することにしました。アニメ版のキャラソンですから本来そちらを視聴するのが筋ですが、ちょっと懐具合があれなので。

 

 さて、それでもまずは漫画単行本を読まないうちにと、いきなりCDを聴いてみたわけですが。

 この時点でぼくは若干の事前情報をもとに、本漫画作品がいわば”『消失』長門有希キョンをも操作対象に含めてしまった世界”を描いてるっぽい、というイメージを持っていました。そのうえで初めて聴いた「探していた風景」の印象は。

 恐怖。でした。え、なにこれこわい。

 先に述べたとおりぼくは原作至上主義者ですから、『消失』世界はきちんと消失しないといけないのですよ。それが作品世界における唯一無二の展開。そしてまた、原作小説の長門有希自身が、一方でその止むにやまざる欲求を世界改変へと暴走させながら、もう一方でそのような自分を何とか抑制しようとぎりぎりまで試みつつ最終的な決定権をキョンに委ねたはずでした。(その悲劇的な姿とキョンによる部分的救済を、ぼくは考察で描き出したつもりです。)

 ところが、この曲の長門はメタプレイヤー的な相貌がいっさいなく、ひたすら乙女。しかも『消失』のあの内気で無口な乙女どころではなく、意外なほど多弁。もちろん内心の独白だとしても、ここまではっきりと恋心を表現できてしまう長門は、もはや『消失』の長門ですらない。誰だ。君は。

 このときぼくが抱いた恐怖とはつまり、『消失』のキョンが教室で朝倉涼子に抱いたものと似ています。何かまったく異質なものがここにいる。かつて殺意をキョンに向けた朝倉に対して、ここにいる長門はそのような存在否定ではなく、キョン改変というかたちでの存在否定の結果なのではないか。長門、お前そこまでやっちまったのか……。正直、慄然としたのです。

  もっとも、漫画単行本を読まない時点でそのような解釈はやや勇み足。じつはキョンはあのときエンターキー以外を押すことを選び、その最終的決定を自覚的に担ったうえでキョンはこの長門と付き合っているのかもしれませんから。そうであるなら、キョンに受け入れてもらえた(メタ的にもですが、この長門にとってはあくまで個人的に)ことによって、眼鏡長門がずんずんと乙女ぢからを開放していったとすれば、この曲での描かれ方も納得いくものとなります。

 

 さて、では漫画単行本を開いてみると。

 ……ああ、これはこれで面白い。えへへかわいい。とくに妹ちゃんが。長門がんばれ。そしてこの朝倉には頭下がる。最初は第4巻まで購入したんですが、すぐに第5巻以降も注文しちゃいました。でも最新刊の第9巻だけ未入手なので、いま飢えてます。

 途中あちこちで、あれぇこの作品世界はいったい

  1.『消失』の中でキョンがその改変世界を選んだ結果なのか、

  2.『消失』を越えてキョンの人格・記憶まで操作してしまった結果なのか、

  3.『消失』と登場人物設定を流用しつつオリジナル恋愛物語に仕立ててるのか、

どれなんだ? と悩むことになりましたが、1.はそもそもキョンが朝倉をすんなり受け入れてる時点であり得ないとして、だんだんに3.で落ち着きました。その最大の理由としては、ハルヒが違いすぎる。つまり、物分りが良すぎる。原作小説でもハルヒは社会的に意外と物分りが良いんですけど、唯一キョンをめぐってはわけわからなくなるのがハルヒですから。たとえ長門の恋心に気づいてこれに配慮したのだとしても、『消失』のハルヒなりにもうちょっとこじれていいはずです。

 そう理解したとたん、ぼくの恐怖心はみるみるうちに溶け去っていきました。なぁんだ、よかった。これは純然たる二次創作なんだ、原作小説の世界とははっきり別の世界での話なんだ。あの連中は今までどおりあのまんま。こっちはこっちで独自の組み換えをして恋愛ものを描いてる。そのように両者を切り離すことができたとき、ぼくは安心してこの漫画作品に浸れるようになったのです。それはまた、原作の長門キョンの人格改変にまで手を染めたのではなかった、ということへの安堵感によるものでもありました。長門は自分を保てた。よかった。本当によく頑張った。ではこの漫画作品の長門は自分を保てなかったのかというと、こちらの長門はもはや情報統合思念体のインターフェースでさえなさそうですので、その問い自体が成り立ちません。そこでぼくは布団に寝転がってページを繰り、ああこの子はやくキョンとくっつくといいなー、と温かく見守る作業に勤しむのでした。

 そんなラブコメにニヨニヨした後、再び「探していた風景」を聴いてみたところ。ああ、これはなんと幸せな……まさしく「小さな幸せ」をもたらしてくれた「出会いの奇跡」をこっそりどきどきしながら歌った、可愛らしく微笑ましい恋する乙女の……

 え。涙が。なんで。

 ……そうか、これが……この風景が、『消失』の長門も求めてやまなかったものなのか。必死に求めてなお、届かなかったものなのか。

 この届かなさは二重の意味をもっています。まず、世界改変を成し遂げようとする長門が、改変後の世界で手にしたかった自分とキョンとの関係に対する、届かなさ。次に、改変世界内の長門が、都合よく改変されたはずのその世界にいるにもかかわらず望んで得られなかったという、届かなさ。長門の不器用さ、ためらい、自己存在への疑問、キョンというかけがえない他者への相互に矛盾する思い。そういったものが彼女自身に二重の挫折を与えたのが『消失』だったとするならば、この曲を歌う長門はまさしく夢の姿であり、遥か彼方にある。この「小さな幸せ」を掴むために『消失』の長門がどれほど取り返しのつかぬ犠牲を払おうとしたかを想像すると気が遠くなるけど、でも、だからといってここで歌う長門が、こうやって歌えるようになるために奮い起こした勇気や、乗り越えようとした不安は、『消失』の長門よりもちっぽけだなんて言えやしない。どちらの長門もそれぞれに精一杯に全力なのであって、どちらが楽とか上とかいうものではない。

 でも『消失』の長門は、こうなることができなかったのです。

 ああ。この歌詞が、この旋律が、胸にぐうう。

 

 同じ曲を聴いているのに、こんなに印象が、喚起される感情が変わるものなんでしょうか。前もっての予想も多少あったんですけど、ここまで極端だとは思いませんでした。そしてその感情は、元の作品それぞれに対するぼくの解釈にも影響していったわけでして、こういう相互作用を自覚的に記すのは初めてのことです。

 ……いや待てよ、ぼくは「曲」を聴いたと書いてはいるけど、実際には歌詞とともに「歌」を聴いている。このCDには off vocal の「探していた風景」も収録されてるから、そちらで「曲」だけを聴いたならまた違ったイメージを抱くのだろうか。そう考えて曲だけを聴いてみましたところ、

 あ。これは、もしや。『消失』の後の長門でもありはすまいか。

 音楽についての知識を一切持ち合わせないので徒手空拳で語るほかないのですが、出だしは有希という名の由来となった雪のイメージ。これは同時に、『消失』ラストでその名の意味をあらためて自分のものとしたことを思い出させます。するとこの出だしは長門の誕生と再生とを重ねて表現しており、つまりそこから続くメロディは『消失』後の彼女の足取りを描くことになります。

  その足取りというと、ぼくの『消失』考察発動篇では「おわりに」の箇所で駆け足にまとめているにすぎませんが、例えば次のあれやこれや。

 キョンの来室に、かけてないのに「まるで眼鏡を押さえるような仕草」をした長門。(谷川流涼宮ハルヒの動揺角川書店 2005年 p.118)

 自分に惚れた男子が現れたと聞いて、キョンを見上げる長門。(同 p.119)

 その結末についてキョンに問われ、答える長門。(同 p.186)

 キョンの電話でのお願いに、「若干長めの沈黙」を返す長門。(谷川流涼宮ハルヒの動揺角川書店 2005年 p.262)

 その帰結として「逆立ちした氷柱のように佇む」長門。(同 p.284)

 驚くほどの気の回しようをみせた長門。(同 p.421)

 キョンにディスプレイを見せまいとする長門。(谷川流涼宮ハルヒの憤慨角川書店 2006年 p.74)

  一仕事終えて「無言でシュークリームを食べている」長門。(同 p.280)

 そんな『消失』以降の長門の姿を、キョンハルヒSOS団の仲間たち、そしてそれを取り巻く者たちとともにいる長門の姿を、この曲は思い出させてくれます。歌詞が重なるはずの部分では、やや寂しげでためらいがちな、だけど開けゆくいまこのときをキョンたちと少しずつ歩んでいこうとする長門の、「ユニーク」な姿を。間奏の部分では、朴念仁なキョンへの溜息まじりな不満と、だけどそんな二人の間だけにあるすれ違いがちな親密さへの信頼を。文庫本をお持ちの方はそれぞれの場面を読み返してみてください、重なるんですよ。長門がいる"風景"に、この曲が。

 長門は求めてやまなかったものを得られなかった、と書いたけど、求めたとおりのものではないにせよ、ちゃんと彼女は得ていた。それを守り育ててきていた。思えば『消失』ラストでキョンから与えてもらったあの救済こそが、その後の長門を力強く支えていったわけであり、ぼくも自分の考察でそのことを指摘していたにもかかわらず、あたかも何も獲得できなかった可哀想なヒロインのように一面化してしまってた。そうじゃないですよね、長門有希という少女はそんなもので片付かない。

 この歌の歌詞は漫画作品の長門有希のために詠まれてるので、原作小説の長門有希には当たり前のことながらちょっと強すぎるのですね。だけど、曲はそうではない。詞と曲があわさって編曲されて「小さな幸せ」を歌い上げた一方で、その曲だけを切り離すとそれは原作小説の長門有希をも包み込む。この曲はどちらの長門有希にも顔を向けて結びつけている、つまり……長門有希像にとっての「インターフェース」である。

 

 ぼくはこの歌を聴くことで様々な感情を抱き、またそこに映しだされた長門像を受け止めかねて揺らいだりもしました。でも、そんななかでぼくは長門を理解したつもりになっていた自分に気づかされました。そしてこの曲を聴くことで、『長門有希ちゃんの消失』という作品が原作からの逸脱かどうかとかにこだわることなく、また原作小説の長門との相違にとらわれすぎることなく、そこに描かれた長門有希の独特の愛らしさに惹かれながら、原作小説の長門が『消失』後に見せてくれたひそやかな魅力をあらためて再認識することができました。

 そう、この漫画作品の長門有希は、小説原作の長門有希とは改変世界の内外において別人であり、

 

「でも、わたしはここにいる」(『陰謀』 p.119)

 

 たしかに、この曲のなかにいる。そしてこの曲を、この歌を捧げられた長門有希も、たしかに漫画作品という「ここ」にいる。世界が異なるように歌詞は違っていても、同じ旋律がお互いのなかに流れている。別々だけどつながっていて、そのようにハルヒシリーズの世界もまた豊かに広がっている。アニメ版の『長門有希ちゃんの消失』もおそらく、新たな何かを与えてくれるはず。

 

 こんなふうにしてぼくは、この素敵な二次創作漫画も小説原作もともに享受することが、しかもいっそうどっぷりとできるようになったのでした。つまりこの曲はぼくの妙な先入観やわだかまりを作品愛の増大によって”消失”させてくれたわけで、むろん当初ぼくが抱いてた身勝手な思惑などとっくにどこかへ吹き飛んでます。いやぁ音楽というのはこういう力も持っているんですね。

 素晴らしい曲を聴かせてくださった佐藤純一さんに、一人のリスナーとして、そして同じ作品を愛するファンとして、感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

ここからは、ぼくたちの手で

漫画

 小山田いく先生逝去との報、3月25日に。ああ。ああああ。

 

 小山田作品にぼくが初めて出会ったのは、記憶のかぎりでは読み切り漫画『12月の唯』です。これは週刊少年チャンピオンの新人まんが賞に応募・佳作入選された作品だったそうです。この雑誌でぼくが馴染んでいた『ふたりと5人』のような丸っこいタッチの登場人物たちが、しかしギャグ漫画というより情緒あふれるストーリー漫画の世界でいきいきと動いていました。同誌連載の『ゆうひが丘の総理大臣』のように、コメディシーンではギャグタッチを、シリアスシーンでは写実的・少女漫画的タッチを、と使い分けている作品がよく見られたこの時代に、どんな場面でも登場人物のタッチを大きく変えずにギャグもシリアスも貫いて“たしかにそこに生きている”彼らを描いた小山田作品は、後から見れば画期的だったのかもしれません。まぁ漫画史に不明なぼくの言うことですからそれはともかくも、ここで出会った独特な空気に、ぼくは先生の初連載作品である『すくらっぷ・ブック』でどっぷりと浸ることになります。

 

 『すくらっぷ・ブック』。ぼくが自分の小遣いで単行本全巻揃えた、しかも刊行日に行きつけの本屋へ駆けつけて入手した、初めての漫画作品がおそらくこれでした。長野県小諸市のとある中学校を舞台にした、約2年にわたる生徒たちの成長の日々を描いた長編です。柏木晴・市野清文・坂口光明・青木理美・迎麻紀・日生香苗・小宮山雅一郎・五島かがり、ああ今でもこうやって名前を思い出せる彼らの日常。週刊少年チャンピオンを立ち読みするとき、まっさきにこの作品を開いていたものです。勉強とか恋愛とか友情とか挫折とか別離とか進路とか卒業とか、学園もの・ジュヴナイルものの主題をおおよそ描き切っており、このとき小学生だったぼくは中学生の彼らの姿に大いに憧れて、やがて自分もこんな学校生活を満喫するんだ、と期待してたものでした(その期待はきれいに裏切られるわけですが)。また、学園ストーリー漫画として登場人物たちがちゃんと成長し・卒業とともにこの空間が終わってしまうことを初めて実感したのもこの作品であり、雑誌で最終回へ向かう数話を読む頃にはもう寂しくてたまりませんでした。

 作品の内容についてもっと詳しく語りたいところなのですが、あの当時から現在に至るまで、ぼくは感想めいた文章を一度も満足に書けずにいます。その理由の一つは、ぼくが何を書こうとも、元作品の描写の美しさや楽しさや統一性にまったく及ばないからです。もちろんファンの未熟な文章とプロの作品を比較すること自体がおこがましいのですけれど、語りたいことはすでに作品の中にこれ以上もなく描き出されていて、そこに何もつけくわえることがない、というのがぼくの率直な思いでした。それくらいこの作品はひとつの物語とそれを包む世界とをぼくの前に提示してくれていて、寝るときに単行本を1、2冊、布団の中に持ち込んではページをめくり、晴ボンたちの賑やかな日々を何十回となく読み返していたのです。

 

 そんなぼくにも、『すくらっぷ・ブック』についてもっと深く味わいたいという欲求がなかったわけではありません。とはいえ同好の士を探すほどの行動力は生まれてこのかた持ちあわせていませんので、感想執筆や絵の模写などといったファンダムの王道にはさっぱり向かわずに、一人でコツコツ分析の真似事をする方向へと向かいました。

 それは例えば、全登場人物の各話ごとの登場コマ数を調べること。たしか1話で100以上のコマに描かれたのは、第1話の晴ボンだけのはずです。数え間違いがないように何度も何度もチェックして、ノートに一覧表を作成していました。ほかにも人間関係の構造変化図めいたものを試みてみたり、名言集を編んでみたり、ともかくデータ分析っぽいことを思いつくままにやってみていたわけです。そこで何が得られたかというと、実際のところほとんど何もなかったのですが、少なくとも手間暇かけた作業に没入しながら、自分がこの作品にどれだけ愛情を抱いているかを確認することはできたのだと思います。

 巧みな言葉で表現できないし、絵で描くこともできない自分の作品愛を、どうやって具体化すればいいのか。『すくらっぷ・ブック』は一人のファンである幼いぼくをこの問題に目覚めさせました。そしてこの問いに自分なりの答えを見つけることができたとき、ぼくは晴ボンたちの年齢どころか正木先生よりも上の年齢になってしまっていました。好きなゲーム作品への、叙情とネタを取りませた感想の書き方。シスプリ原作の妹たちの言葉に登場するハートマークや兄呼称を数え、そこから各妹の特質を発見すること。日常はいつか終りを迎えるからこそかけがえないこと。詩的にではなくあくまでも野暮な論考調で、登場人物の内面や相互関係についての描写をできるだけすくい取りながらその具体性のなかで作品の全体像を語り直し、自分の作品愛をさらに掘り下げていこうとする考察スタイル。現在のぼくの感受性から作品享受のありかた、そしてファンとしての表現方法に至るまで、『すくらっぷ・ブック』はそれら一切の源を与えてくれていたのです。

 他にも、例えば『究極超人あ~る』の連載途中で「この作品も、いつかは『すくらっぷ・ブック』のように最終回を迎えてしまうんだな」と寂しさを覚えましたし、『魔法先生ネギま!』の出席簿を見れば「ああ、『すくらっぷ・ブック』第3巻のあの2話の表紙だ」と連想しましたし、日常生活においても虹を見れば「ビフロストの橋」、霜が降りれば「フロストフラワー・ポエトリー」、雪解けの頃には「雪解雫の行進曲」、三角定規を見れば「気はおかしくてきなこもち」といった具合に、四季折々と学校の中で思い出すことが多々ありました。土砂などを運ぶときには「ふっぱっぱ ふっぱっぱ のーみそふっぱっぱー」とつい口ずさむわけですよ。

 さらに同時期に月刊少年チャンピオンで連載された『星のローカス』のおかげで、工業高専へのかっこいいイメージが強化されたほか、星座やギリシャ神話への興味を植え付けられたりもし。おかまにおわれてこんやもひとりなき。その後こじれた思春期を迎えたぼくは、週刊連載第2作『ぶるうピーター』の完結ののち、小山田作品を買い揃えることをやめました。学校生活の平凡さに慣れきったぼくにとって小山田作品の登場人物はすでに憧れの対象になりがたく、また彼らの感情表出がいかにも漫画的に強すぎるように思えていたのです。しかし今から見れば、知的に背伸びして大人に見られたいという思春期まっさかりのぼくは、まさに小山田作品で描かれていた若者たちの自意識とその不安をようやくわがものとして理解できるところまで接近していたのでしょう。だからこそぼくは作品を通して自らを省みることの恥ずかしさに耐えられなかったのかもしれません。

 

 ああ、いまこうやって綴っているこの文章ですら、おそらく小山田作品に込められた情感やその表現をぼくが学んだ結果と言えます。もちろん他のたくさんの表現者の方々からも多大な影響を受けてきたとはいえ、ぼくにとって『すくらっぷ・ブック』は自分の趣味人生を方向づけた、あるいはこういってよければ決定的に呪縛した、大恩ある作品だったのです。ファンとしては途中で離れてしまった以上、あの頃をあまり美化しすぎてもいけないのですけれど。それでも、心からそう思います。

 小山田いく先生、素晴らしい作品を読ませていただき、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

 

 なお、『すくらっぷ・ブック』連載時の週刊少年チャンピオンには、ぼくに多大な影響を及ぼしたもう2つの作品が掲載されていました。ひとつはとり・みきの初連載作品『るんるんカンパニー』で、小山田いくvsとり・みきの漫画内抗争は当時の名物でした。そしてもうひとつは内山亜紀『あんどろトリオ』。これら3作品からぼくは叙情性・コメディ・ロリコンをそれぞれ学びとったわけであり、その後の自分をみるにつけなんという運命的な出会いだったのかとあらためて衝撃を覚えます。

地味にコンテンツを作り続けることの幸せ

その他 考え方・書き方

 最近話題となっていたメディアクリエイターなるものについて。ウェブでコンテンツを作りたいとか、コンテンツが主役とかいう言葉を読むと、いったいどんなコンテンツを作ってくれるんだろう、と想像したくなります。コンテンツというのは、定義としては「意味あるまとまりを与えられた情報のかたまり」みたいなものだとして、では具体的にどういう意味をもちどういう中身のあるかたまりを作ってくれるのかな、と期待するわけです。一応は。

 

 そう感じるぼくも、サイトを立ち上げたときからずっと自前の(ただし商業作品ファンダムにおける二次産物としての)コンテンツの作成・発信に努めてきた、という自覚を持ってます。その具体的なかたちは、好きなアニメ作品などについてのSS・パロディなどの二次創作、ゲーム感想、そして作品考察など。今ではこの考察がぼくのサイトの主要コンテンツになってますけど、ホームページの並びが示すとおり考察は開設当初「その他」扱いだったんですよね。

 開設した頃といえば、サイトを開いたとお知らせする前にいくつかのゲーム感想を書き上げておき、閲覧者に日記以外の読み物も楽しんでいただけるように配慮した覚えがあります。うちに来るとこういうものが読めますよ、という自己紹介でもあり、「せっかくここに来ていただいたのだから、おもてなしをしなくては」という意識の表れでもありました。テキストサイト時代のあの雰囲気のなかで、うち独自の味をまずは一口試してもらい、それが気に入ったらまた足を運んでいただきたい、というわけです。(そういうある程度の分量のあるコンテンツをまとめようとすると、ブログなどでは文字数や形式の制約があって不便です。そこで、ぼくは今でもテキストサイト時代のままに、ページをそれぞれ切り出して書き綴っています。)

 それから間もなくアニメ版シスプリの考察を書き始めたところ、ありがたいことに多くの反響を頂戴できたため、その後のコンテンツ作成の方向性がだいたい決定することとなりました。とはいえ考察一辺倒でもなく、その考察作業中に得た作品の解釈視点や二次創作のヒントなどを活かしてパロディ(アニメシリーズ妄想)やSSをこしらえたりと、コンテンツ同士をつなげて広げていく楽しみにも目覚めました。

 

 いま「楽しみ」と書きましたが、最初のアニプリ考察以来、ぼくはずっと「好きな作品について考えぬくこと」や「それについてじっくり書くこと」を楽しんできています。誰かに褒めてもらうことやアクセスを集めることもそれぞれ喜べることですけれど、何よりもまずこのコンテンツ作成過程そのものを楽しいと感じられるおかげで、ぼくは(休み休みしながら)今まで続けてこれました。

 そして、この考察というコンテンツを書き始める前と後を比べてみると、ぼくはその対象作品や登場人物や彼らの関わりあいというものを、もっと好きになることができてます。作品世界とそこに生きる人々の姿をもっと深く理解できたように思えて、作品享受に奥行きが出てきますし、登場人物をいっそう愛しく感じられるのです。この、対象作品に対する理解や愛好の深化は、ぼくのコンテンツ作成における第1の目標となっています。この目標をぶれずに置いたおかげか、ぼくのコンテンツはあくまで元の作品に対する二次的な内容にすぎないにもかかわらず、いろんな閲覧者の方から価値創出的(作品の新たな側面を浮かび上がらせるという意味で)との評価をいただいてきました。ほんと、身に余る光栄。

 しかもこの理解の深化は、コンテンツを積み重ねていくとそのぶん応用可能性を持ち始めるのですね。例えば、アニプリ考察で得た解釈視点のいくつかは、ハルヒネギまなど別作品の考察のさいにずいぶん役立ちました。また、現在書き続けているガルパン考察では戦車道の女子教育的意義や後進育成といった観点を掲げてますが、これらは「学校教育なんだから戦車道も当然そのための価値をもつはずだし、先輩後輩間での伝統の継承があるはず」という常識的判断に基づいています。この、一見異常な作品内描写も真正面から向き合ってみると意外な面白さや合理性・作品内原則を発見できるというのは、アニメ版シスプリでさんざん経験したことでした。

 もっとも、これは反面として、ぼくの作品解釈視点がパターン化・固定化するという危うさも持っています。ある程度やむを得ないことですけれど、なるべくそれを避けるために、ぼくは作品内描写をしっかり観る・聴くように心がけてます。きれいに整ったわかりやすい図式に、作品を無理矢理はめこまないように。作品内描写の細部を大切に、と。

 

 こういう考察執筆の意欲は、閲覧者の方々からの反応にも大きく支えられています。褒められたり賛同の声をいただいたりすれば「ああ、こう考えるのはぼくだけではなかった」と安心しますし、批判の言葉を頂戴すれば「なるほど修正しよう」とか「これは検討に値する批判だから反論を加筆しよう」となりますし、こいつ馬鹿だwと言われれば「わーいそのとおりー」と小躍りします。

  ただ、以前も書きましたがとびぬけて嬉しい反応といえば、ぼくのコンテンツを契機にその対象作品をもう一度観てみよう・読んでみようとされる方や、初めてその作品に手を伸ばしてみようとされる方の存在です。いやー。ほんと幸せ。ぼく自身その作品のことが好きで好きでたまらずに二次コンテンツを作り出しているわけですよ。そんなぼくのコンテンツを媒介として、誰かが作品に興味を抱いたり、作品愛を深めなおしてくれたりする。間接的に、作品への恩返しができる。この嬉しさったらもうたまらんですね。脳内麻薬がどばどば漏れだす感じ。

 正直、この快楽を知ってしまったらもう他所様のコンテンツのパクリなんてする気になりません。あるいはコストパフォーマンスからすれば(パクリは論外として)、ぼくのような長文を綴ってごくわずかな新規ファンを獲得するよりも、簡潔で印象的な宣伝ひとつで多くのアクセスや新規ファンを得るほうが効率的なのでしょう。それはそれで意味がある。でも、ぼくは自分のやり方しかできないし、こっちのほうがやりがいがあって楽しい。

 要するに、ぼくは「ガルパンはいいぞ」の根拠を何万字もかけて説明するタイプの人間なのです。実際すでに10万字書いた。でもシスプリのときは90万字を越えてた(吐血)。そして自分のその不器用さ愚直さを作品と閲覧者に向けて用いていくことは、持ち主であるぼくにしかできないんですよね。結局のところ、ここにぼくのなけなしのクリエイター魂があるのかもしれません。

 

 自分の作品解釈力が深まること、その作品の素晴らしさにもっと気づけてもっと好きになれること、閲覧者の方々が作品に触れる機会となった結果その人達が作品をもっと好きになり、そのうえぼくの気づかない新たな作品の姿を教えてくれること。これをぼくは、作品を中心とする相互贈与の循環として捉えてますが、その循環にわずかでも寄与できることが、作品ファンにとってのぼくの至福のときなのです。絵を描く人、感動を呟く人、批評する人、二次創作する人、それぞれがそれぞれの得意なやり方で迸らせた作品愛のかたちをありがたく拝見しながら、ぼくは自分のスタイルで今後も(休み休み)続けていこうと思います。