「面白さ」に向き合って

 「面白さ」の覇権争いといったものが、ちょいと話題になってましたが。

 

 先日ぼくが記した「同調圧力」への対応も、つまるところ自分が好きな作品をめぐる解釈・受容態度についての衝突と言えます。この作品は、こう受け止めたほうが面白い、少なくとも自分にとっては面白い。同じような人がいるかもしれないので、届くことを期待して語ります。というわけですが、それは一面において伝達のみを求めていながら、実際には同意者からの反応を得ることによって集団形成を目論んでもいます。そして集団というものは必ず力を帯び、周囲の圧力から自衛するためと言いながら自らが圧力を周囲に及ぼしていく。そういうものでしょう。

 そもそもこういう話題に乗るか乗らないかの判断でさえ、ネットのある狭い世界の中での政治的力学とからんでいますし、ぼくがこの話題を論じている他所様のサイトにリンクをはらないのも、一定の距離を保ちたいというぼくのその手の判断に基づいています。だから、そういう要素について考え始めるときりがないし、考えたところでその影響から免れられるわけでもないけど、一応は自重・自嘲するための視点としてなるべく維持しておきたいな、という塩梅。

 

 そしてその一方、ぼく自身にとっての「面白さ」がこの10年で、あるいはサイト開設後の15年でどれほど変化したかを顧みると、……細かいとこはさておき、さほど変わってないように感じます。

 もう少し具体的に述べると、例えば漫画やアニメの絵柄の好みは変化しているかもしれない。変化というか、新たに好きになった作品の影響で範囲が広がってきているはず。でも、物語の展開や人物造形の好みは、たぶんほとんど変化してないし、幅も広がっていない。そこのところに目を向ければ、ぼくは時代の流れに適応する力が弱いのだと思います。もう固まっちゃったらその安定をあんまり崩したくないと感じるのが元々の性格なうえ、加齢の効果も上乗せされてますます自分の変化を受け入れ難くなってきています。

 感受性の柔らかさを失うのはやはり寂しいことなのですが、しかし逆に、それはそれでまぁいいかな、と思えるときもあります。例えば自分の過去の文章を読んで、今なお面白がれるときとか。書いた内容や表現は忘れてしまっていても、あらためて読めば「ああ、こんなこと書いてたのかー」の次に「けっこう面白いねこれ」と顎に手をやるわけです。自画自賛を言葉にするというのは品性の疑われる行為ですが、どのみちたいした品性の持ち主ではないので問題なし。当時の日記を読むとその時々の話題選びや意見表明に違和感を抱くこともありますけど、根本的な趣味判断や人間理解の点ではそんなに大きく変化してはいないと感じられるということ。これは、ぼくがまるで成長していないという証であるとともに、自分の中にぶれない軸があると信じられる根拠でもあるのです。

 

 もっとも、ぼくの文章が取り上げている作品が忘れ去られてしまえば、そこに寄生しているにすぎないぼくの文章もついでに消えてしまうものでしょう。それはそれで本望です。あるいはもしかするとぼくの文章が、誰かにとってその作品を覚えているための・思い出すための・もう一度みてみるためのきっかけになるかもしれません。そんなことが起きたなら、ぼくは好きな作品へのわずかばかりの恩返しができたことになるわけで、じつにありがたい話です。

 ともあれ、元のサイトを続けられるかぎりは過去の自分のコンテンツを(表現の微修正などはあるにせよ)1つも消すことなく残していくつもりです。時代の変化や自分の移ろいを映し出しながらも、そこに何か変わらないもの・変われないものが潜んでいるのだと信じて。

「ガルパンはいいぞ」に対する個人的態度

 「ガルパンはいいぞ」は同調圧力かどうかについて、ぼくの経験のみに基いて述べます。

 

 劇場版公開後、あちこちでこの一言感想を目撃しました。「あちこちで」というのは、例えばぼくがついったーでフォローしている方々がご自身で呟いたとか、日参してるサイトで語られてたとか、ではありません。まとめサイトなどでいろんな人達の呟きが転載されてたり、ついったーのRTで流れたり、そういうので何度も目にする機会があったということです。

 まずこの時点で、ぼくにとっての身近な方々からの同調圧力はなかった、と言えます。だってほとんど誰も「ガルパンはいいぞ」って書かないんだもん。逆にまた、これを言ってはならないというような圧力も感じませんでした。どちらの側にせよ同調圧力を自覚的・無自覚的にかけてくる人がそばにいないというのはありがたいことです。もっとも、ぼく自身がそういう人を避けている結果でもありますし、むしろぼくが周囲に圧を加えている可能性は残ります。

 

 とはいえ、あれだけ「ガルパンはいいぞ」が流行し、とくに(1)この単純な感想に批判的な呟きを流す(2)劇場版を観てくる、と呟く(3)鑑賞後に「ガルパンはいいぞ」と呟く、という3段オチのパターンが繰り返されると、その新味のなさに飽くとともに、なんとなく「世間」の同調圧力めいたものを感じなくもありませんでした。べつに特定の誰かがそう強制しているわけじゃないんですが、「この一言でわかるよね」「わかるー」という身振り・クリシェとして広がりつつあるな、という印象をもったのです。

 この一言が、例えば作品の劇場版やテレビシリーズについて多様な感想・意見をもったファン達がその相違を超えてつながるための挨拶として機能しているのであれば、それはそれで結構なことだと思います。また、劇場版をまだ観ていない人達にネタバレしないため、あえてシンプルな一言だけで感想を伝えていたのであれば、これもまた温かい配慮と言えましょう。たとえそうでなくとも、個人の感想はその人が素直に感じたままの言葉である以上、他人によって優劣をつけられるものではありません。さらにファン発のキャッチコピーとしても、かなり有効だったのではないでしょうか。

 しかし、ぼくが受けた印象ではこれらに加えて、劇場版を全肯定する以外の態度を認めないような雰囲気が作られつつあるのかな、という漠たる危惧がそこにありました。思い込みかもしれませんが、これはちょっと怖い。内輪意識というよりもその安易な思考停止の見せかけが。

 もちろん、よいところを具体的に示してくれる人も決して少なくなかったことは事実です。劇場版の感想をネタバレ込みで綴られてるサイトをぼくも鑑賞後にいくつか拝見しましたが、そのほとんどは完全な賞賛であり、批判的な感想の持ち主はぼくの見た範囲内でお一人だけでした。ではぼくはといえば、すでに感想を公開しているとおり、鑑賞時に少なからず不満を抱いたのです。

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 これを書くとき、普段以上に気をつかったように覚えています。「ガルパンはいいぞ」勢から短絡的な反発を受けないように、という想像上の多数派に対する警戒心。書き出しがえらい慎重なのはそのせいですね。へいへいびびってるよ自分。

 しかしたとえ腰が引けてるとしても、劇場版を鑑賞して感じた引っかかりはごまかさずに言葉にしないと気がすまないたちですので、これはどうなの・ああしてほしかったという意見はそのまんま書きました。「ガルパンはいいぞ」の連鎖が一部の受け手にとってあたかも同調圧力のように感じられるとしても、それを理由に自分の正直な気持ちを表現することをためらってしまうならば、そこに本当の同調圧力が生まれてしまうからです。つまり、ぼくが自らを被害者に仕立てることで、印象にすぎなかった同調圧力を実在化させてしまうと同時に、ぼくが沈黙するというその行為によって同調圧力に加担してしまう、というわけです。それに今までぼくはネット上で好きな作品に向き合うときに嘘をつかないという姿勢を貫いてきましたので、これを枉げるわけにはいかないのです。

 だからぼくは自分の感想を綴りましたし、これを読まれた方が「じつは私も別の感想を抱いてて」と今まで黙っていた言葉を紡ぎだすきっかけにでもなれば、それはそれで結構なことだと思います。どちらが多数派になるかという勢力争いのためではなく、多様な意見を安心して語り合い聴き合うことのできるファンダムこそがファンにとっても作品にとっても健全だと信じるからです。もちろんそれはお互いへの批判を否定するものではありませんし、仲間の意見に同調することを排除するものでもありません。

 

 というわけで、劇場版感想はそのように綴り、またその一方でテレビシリーズの各校考察は順次進めるという具合に、ぼくは作品への感想・解釈をそれぞれ表現してきています。劇場版についても考察形式でやがて語ることになるでしょう。ただ、それだけでは「ガルパンはいいぞ」の過剰な流行に対するぼくのむずむずした感覚を消化しきれないな、と予感したため、先日は黒森峰考察の基礎づくりのついでとしてこのフレーズをちょいと揶揄しました。

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 これで個人的にはすっきりしましたし、あとはぼくの近辺で「ガルパンはいいぞ」の声が聞こえたら、その声そのものは否定せずに「どのへんがよかったの」と尋ねることにします。だって具体的な話を聞けば、ぼくの気づかない作品の魅力を教えてもらえるかもしれないじゃないですか。そしてぼくはぼくで、自らの言葉で語り続けるつもりです。流行りの言い回しが消えた10年後も20年後も、自分の全力を投じた文章が作品の素晴らしさとぼくの作品愛を伝えてくれるように、と。

ガルパン考察関連で読んだ本(追記あり)

 (追記20160623:それぞれの本にコメントをつけました。)

 

 黒森峰考察に向けて作品内描写や台詞の書き起こしなどを進めてるわけですが。

 これまで公開してきたガルパン考察では元作品を基盤としながら、各校がモチーフとしている国々の軍事のみならず政治・歴史や文化風土などのネタも盛り込んできました。兵器やドクトリンなどの軍事面についてはぼくより詳しい人がたくさんいますし、何よりぼくの考察は各校戦車道の理念・実態とそのもとでの後継者育成という文化伝達的な観点から取り組むものですので、なるだけ「イギリス的」「アメリカ的」といった雰囲気の全体像が浮かび上がるようにしたかったのです。

 この努力が実を結んでいるかはさておき、個々の考察を書くにあたりそれらのネタを得るために読み返したり、新たに読んだりした本はいくらかあります。また、過去に読みかじった本の印象が無自覚なままに文章に影響を及ぼしていることもあるでしょう。ここでは、ぼくが直接そのつもりで読んだ・読みなおした本のいくつかを紹介させていただきます。なお、それぞれの本の内容が正しいかどうか・ぼくの理解が適切かどうかは、ここでは問題にしません。また、考察にけっきょく何一つ反映されていないものも含まれていますが、ぼくのオススメの本ではあります。

 

1.聖グロ考察

 J. S. ミル『女性の解放』 大内兵衛・大内節子訳 岩波文庫 1957年

    19世紀を代表する自由主義思想家による、徹底的な反・女性差別論。

    当時のイギリス社会における実態や男性のありがちな言い分も一望できる。

 E.H.カー『危機の二十年 1919-1939』 井上茂訳 岩波文庫 1996年

    国際政治研究の古典。国際連盟の理念がどのような現実を生んだのか。

    強豪校の責務とその課題を考えるために。

 リデル・ハート『戦略論 間接的アプローチ』 森沢亀鶴訳 原書房 1986年

    大戦期に活躍した軍事評論家の有名な著書。

    相手を動かす戦略の重要性、ダージリンの手際。

 J.F.C.フラー『フラー 制限戦争指導論』 中村好寿訳 原書房 2009年

    第一次大戦のイギリス軍人、機甲戦の唱導者による近現代戦争史論。

    ほんとは機甲戦の著書を読みたかったけど入手できず。

 ジョージ・オーウェル『[新装版]オーウェル評論集』全4巻

     川端康雄編 井上摩耶子他訳 平凡社ライブラリー 2009年

    『1984年』作者によるイギリス社会・文化についての内側からの批評集。

    イギリス的なものを考えるときのヒント。

 モンテスキュー『法の精神』全3巻 野田良之他訳 岩波文庫 1989年

    諸国の社会・文化と法制度・政治体制の関係を論じた有名すぎる古典。

    各校の校風・教育理念と戦車道の結びつきを考える発想の、遠い源流。

 

2.サンダース考察

 ジョン・デューイ『公衆とその諸問題 現代政治の基礎』

     阿部齊訳 ちくま学芸文庫 2014年

    20世紀アメリカの思想的巨人による、民主主義社会の危機分析と提案。

    サンダースの理念と実態のずれを考えるための手がかり。

 チャールス・ホワイティング『猛将パットン “ガソリンある限り前進せよ”』

     田辺一雄訳 サンケイ新聞社出版局 1972年

    昔懐かし赤背表紙、第二次世界大戦ブックスの1冊。

    ケイの気質や指揮統率能力を考えるさいの部分的モデルのひとつ。

 アントニー・ビーヴァー『ノルマンディー上陸作戦』上下巻

     平賀秀明訳 白水社 2011年

    いろいろ読んできたノルマンディものの最新作のひとつ。

    機甲部隊の指揮官や隊員たちの実態をとりあえず確認。

 アルバート・C・ウェデマイヤー『第二次大戦に勝者なし』上下巻

     妹尾作太男訳 講談社学術文庫 1997年

    国家戦略レベルでの戦争指導についての反省的分析。

    全国におけるサンダースの役割を考えるための素材、にはできず。

 ジョン・W・ダワー『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』

     猿谷要監修 斎藤元一訳 平凡社ライブラリー 2001年

    戦争が強化する差別意識とその表現の研究。

    他校に対するサンダース校風の二面性を考えるヒント。

 

3.アンツィオ考察

 エミリオ・ロッシ『戦場の一年』 柴野均訳 白水社 2001年

    第一次大戦時イタリア陸軍とくに将校団のひどすぎる実態を描いた小説。

    アンツィオ校風・戦車道の問題点を考えるさいの手がかり。

 ノルベルト・ボッビオ『イタリア・イデオロギー

     馬場康雄・押場靖志訳 未来社 1993年

    20世紀の代表的研究者によるイタリア近現代政治思想史の概括。

    ドゥーチェ呼称を考える素材だが、1930年代はあえてモデルに選ばず。

 P.マルヴェッツィ G.ピレッリ編『イタリア抵抗運動の遺書』

     河島英昭他訳 冨山房 1983年

    第二次大戦期イタリアで処刑された国内レジスタンスの遺書集。

    駄目で考えなしという通俗イメージへのカウンターとして。

 エドモンド・デ・アミーチス『クオーレ』

     和田忠彦訳 平凡社ライブラリー 2007年

    『母をたずねて三千里』原作も含む19世紀イタリアの愛国心育成小話集。

    民衆・子供の感性や習俗、またそれらの理想モデルを知るために。

 藤澤房俊『「クォーレ」の時代 近代イタリアの子供と国家』

     ちくま学芸文庫 1998年

    こちらは歴史研究書。実態や背景を理解するための手引き。

    図版もたくさん収められおり、協同的なもののイメージづくりに助かる。

 マキアヴェッリ君主論』 河島英昭訳 岩波文庫 1998年

    イタリアルネサンスを象徴するあまりにも有名な統治論。

    集団を率いることの意味や指導者の資質を考えるための基礎。

 

4.プラウダ考察

 マルクス エンゲルス共産主義宣言』 大内兵衛向坂逸郎訳 岩波文庫 1951年

    これまた有名すぎるマルクス共産主義思想の古典。

    プラウダ教育理念と外界への批判について考えるための第一の素材。

 猪木正道『増補 共産主義の系譜 マルクスから現代まで』 角川文庫 1984年

    マルクスの思想的背景から中ソ対立期にわたる共産主義思想史の概説書。

    プラウダ戦車道の理念・実態上の矛盾を思いついたのはほとんどこの本から。

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』

     三浦みどり訳 岩波現代文庫 2016年

    ノーベル文学賞受賞作家による第二次大戦ソ連軍元女性兵士インタビュー集。

    戦争中のソ連女性についてイメージするための手がかり。隊員像からは遠い。

 ジェフリー・ロバーツ『スターリンの将軍ジューコフ

     松島芳彦訳 白水社 2013年

    第二次大戦期ソ連陸軍指導者についての、ロシア文書館資料による最新研究。

    スターリンや部下との関係をプラウダ隊内に薄っすらと重ねつつ反面教師に。

 アレクサンドル・チェヤーノフ『農民ユートピア国旅行記』

     和田春樹・和田あき子訳 平凡社ライブラリー 2013年

    ソ連の農業経営学者が共産主義支配世界の生活を描くもう一つの『1984年』。

    学園艦という半独立的な生産・消費共同体を考えるさいの参照用、のつもり。

 ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』

     木村浩訳 新潮文庫 1963年

    あのすさまじい『収容所群島』著者であるソ連作家の代表的短編小説。

    強制労働のイメージ源だが、カチューシャもノンナもここまですまい、と。

 『ソルジェニーツィン短編集』 木村浩編訳 岩波文庫 1987年

    同じ作家の短編小説集。ソ連のどうにもなりがたい社会生活の一幕を活写。

     学校生徒の純粋な熱意と官僚主義の葛藤を描く「公共のために」に注目。

 

 てな感じで並べてみましたが、ほんと考察に反映されてないものが多いですね……。それでもアイディアの源となり助かったこともあるわけで、文庫・新書や古本など廉価な本にも豊かな素材が詰まっているのだなとあらためて感じます。古典と呼ばれる作品も少なくないので当然といえばそれまでですが。若い頃に一度読んだきりで20年ぶりに開いた本もあったりしまして、過去の乱読・積ん読古書店めぐりがこうやって力添えしてくれるとは、としみじみ言い訳。勉強や仕事に使えなくても、趣味にすぐさま役立たなくても、いつかどこかで……くらいの気持ちで楽しめる読書を続けたいものですし、アニメ・漫画作品を鑑賞することも固めの本を読むこともそれぞれへの興味や理解を深めあえる間柄であるようにしたいものです。

 ただし実際に考察を書くにあたっては、参考図書の内容に引きずられてしまうこともあるので毎度反省しています。せっかく読んだのだから・お金を払って買ったのだから、もっと考察に反映させなければもったいない、とついつい思っちゃうんですね。プラウダ考察でも当初、引用しすぎで頭でっかちになってしまい、後ですべて削除しました。泣いてないんだからね。

ガルパン戦車道における危機的状況と搭乗員の安全について

 ガルパン考察シリーズはようやく対戦校ラストの黒森峰篇に着手しかけたところですが、黒森峰ならびにこれと分かちがたく結びついている西住流について述べるさい、どうしても正面から向き合わねばならない問題があります。それは、みほが実家と黒森峰を出る原因となった昨年度戦車道高校大会決勝戦のあの場面、3号戦車が川に流されるのを見たみほがすぐさまフラッグ車から降りて救出に向かったという行動の是非についてです。

 この行動を人命救助のため不可欠なものだったと評価するならば、西住流・しほの下した判断は不適切であり、次女に対するあの仕打ちはあまりにも無体なものと非難されてしかるべきでしょう。人命よりも試合勝利や家名を重んじたというわけで、いわゆる「毒母」と呼ばれるゆえんです。

 一方、もしも人命救助の必要はなかったとすれば、みほは咄嗟の判断を誤ってフラッグ車と護衛車輌の指揮をほったらかしたことになり、しほの厳しい態度はむしろ当然のものと言えるでしょう。(救助された隊員たちがみほに感謝するのは個人の感情としてよく分かる話であり、ここで問題にしているのは試合勝利という目標から見たみほの状況判断についてのみです。)

 この問題を考えるさいに、例えばしほの「冷酷さ」「家元としての義務感」やみほの「仲間思い」「甘さ」を議論したところで、水掛け論に陥るほかありません。それらは登場人物の性格についての評価であり、視聴者それぞれの主観や好みによって分かれるからです。

 そのような主観的判断からこの問題を解き放つためには、次のことについて作品内描写から検討する必要があります。すなわち、

 戦車道で用いる戦車と搭乗員は、水没にどこまで耐えられるのか

です。もしも戦車と搭乗員が水没しても十分に(少なくとも荒天時の川の激流にもまれている状態で救出されるまでの間)耐えられるのであれば、みほの行動は試合勝利という目標から見て軽率だったことになります。逆に耐えられないのであれば、しほの言動はきわめて由々しきものと非難されるでしょう。

 さらにこのことと絡めて、戦車の被弾・転倒・火災発生などの危機的状況についても、同様に作品内描写における事実をあらためて確認整理するつもりです。というのは、ガルパンに対する批判の中には、「砲弾や機銃弾が飛び交うあの試合中に誰も死者や重傷者が出ないのはあまりにも非現実的でご都合主義すぎる」というきわめて真っ当な意見があるからです。これに向き合うための基盤として、作品世界における隊員への安全配慮についての描写をまずは確認しておく必要があります。

 もちろん、現実のガンダムが歩くとその衝撃でパイロットは死ぬと言われるように、作品を成り立たせるためのウソというものはどんな作品にも見られるものですし、戦車という現実世界の兵器を用いたためにそのウソが見過ごしにくくなってしまっているという捉え方もできます。ぼくがここで行うのは、その意味ではきわめて野暮な作業にほかなりません。

 なお、本調査は、最近この日記で述べてきた考察コンテンツの基礎の作り方について、その最新の実践例(主に「数えよう」に対応)を示すものでもあります。

 

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1.水

 

 まずは水について。テレビシリーズならびに劇場版を通じて、戦車が外界の水(雨雪を除く)と関わった場面は次のとおりです。

 

第1話 みほ回想:川に流される3号戦車、水をかきわけるみほ

第2話 大洗女子学園艦内の戦車捜索

      38(t):森の中にハッチ開いたまま放置
      3号突撃砲:池の中にハッチ閉じた状態で水没
    4号を車長ハッチから覗き込んだみほの台詞

        「車内の水抜きをして、錆取りをしないと。

         古い塗装を剥がして、グリスアップもしなきゃ」
    洗車後の桃の台詞「あとの整備は、自動車部の部員に今晩中にやらせる」

第3話 訓練中のM3が浅瀬を渡る

第7話 みほ回想:水没する3号に泳いで接近し、

         車体左の脱出用ハッチ(履帯の内側)を開けようとする

    訓練中の38(t)が渡河のさい操縦手バイザーから水がたえず漏れる

    ルノーB1bis:池の中に半水没状態

第11話 M3が渡河中にエンジン停止し横転しかかる

劇場版 KV2が完全に海没した状態から浜辺へ上がる

    知波単戦車群がアヒルカバーを被りプールの中に車体を隠す
    知波単戦車群が陸上移動中、アヒルカバーのせいもあってか玉田の叫び

        「玉田、息が詰まって体がもたないであります!」

   アンチョビが「一度も成功してない」「T型定規作戦」を命令、

         カルロ・ベローチェが石跳びの要領でプール水面を渡る
   ルノーB1bisがパーシング後面を砲撃して池に落とす

         そど子の台詞「安心して、浅瀬だから」

 

  以上の描写をもとに、戦車の水密性と搭乗員の安全性について検討しましょう。

 テレビシリーズでは、大洗女子学園艦内に遺棄されていた戦車を発見回収する光景が何度も登場しました。例えば第2話、発見時にはハッチが開いたままだった38(t)や、ハッチは閉じているものの完全に水没していた3号突撃砲などがありますが、いずれも桃が言うとおり自動車部員の手によりたった一晩で整備され、無事に稼働しています。

 学園艦が海上を航行しているため、屋外の戦車は水没していなくとも雨雪のみならず毎日の潮風にさらされていることになります。にもかかわらず、みほという経験者があんなに表情をこわばらせながらも「水抜き」や「錆取り」程度の整備しか必要と判断していないというのは、注目に値します。もちろん「錆取り」「グリスアップ」を徹底して行うためには全部バラすことになるんでしょうけど、それでも錆つきすぎた部品の交換などは考慮に入れなくてすんでいるわけです。実際みほたちが洗車するだけで、4号戦車はずいぶん綺麗になっているように見えます。

 つまり、戦車道で用いる戦車は、カーボンカーティング以外にも多くの面で謎の先端技術を取り入れており、また各部のパッケージ化などもなされているようです。この技術水準からすると、やろうと思えば完璧な水密性も実現可能と推測されます。

  ところが、第7話では38(t)の渡河中に、操縦手バイザーから川の水がどんどん漏れてきています。一気にだばぁと流れこむ感じではありませんので、砲塔てっぺんまで水に浸かったとしてもしばらくは車内の空気を保てると思われますが、それでも開口部がもう1箇所あればさらに激しく漏水するのではないかと懸念されます。(もしも軍用車輌の能力に合わせて戦車道の車輌にも水密性に差を設けているのだとすれば、車種によっては水が漏れまくりとなるでしょう。)

 これらを合わせて考えると、戦車道の戦車はおおよそ一時的な水没に耐えられるだけの水密性をもっているが、長時間の水没の場合には車内へ大量に漏水することを覚悟しなければならない、となります。とくに、全てのハッチを閉じられなかったり、監視用スリットなどを(自動的に閉鎖する機能があるとしても)砲撃・銃撃によって破損していたりすれば、確実に危険です。

 

 みほの回想では、川の濁流に滑り落ちた3号戦車は全てのハッチを閉じていたように見えます。しかし、それまでの試合中にスリットなどを破損していた可能性はありますし、直前の至近弾による被害のほども(白旗こそ上がっていないものの)みほの視点からははっきり分かりません。また、荒天の川の濁流に呑まれて沈む戦車を、試合終了後まで待ってから捜索し引き上げるのでは、ずいぶんな時間がかかってしまいます。みほが万一を想定してただちに救出に向かったというのも、うなずける話です。

 しかしまた、そのような事態発生を考慮して救護班の準備や各車の緊急連絡機能・酸素維持装置の搭載なども行われているんでしょうから、既存の安全対策を信頼して試合に専念するのがみほの務めだったと批判されればそれもたしかに正論です。通信機器をとおして3号戦車搭乗員の悲鳴を聞いていたみほが、仲間たちの恐慌を放置して試合に専念できたかといえば難しそうですが、それは感情の問題にすぎません。

 なお、川に飛び込み3号戦車に泳ぎ着いたみほは、車体左の脱出用ハッチ(履帯の内側)に手をかけて開けようとしています。これは、上面ハッチを開けてしまうと水がどっと流れ込んでしまうための冷静な対応なのかもしれません。しかし、外に出ても濁流にもまれてかえって危ないので、救出まで車内にとどまれるのであればそうするべきだった、という批判も十分考えられます。

 

 このような水没の危険性については、劇場版でも表現されていました。池ポチャしたパーシングの搭乗員に向かってそど子が「安心して、浅瀬だから」と声をかける場面です。いま車内への漏水が激しくても、浅瀬だからすぐに脱出できる・救出され得る、という意味でしょう。

 一方、冒頭のエキシビジョンマッチでは、なんとKV2が完全に海没した状態から浜辺へ上がる姿が描かれています。 何が恐ろしいかといって、あんな短い距離であんなに深く沈む(KV2の砲塔てっぺんまで浸る)場所に、あんな重たいKV2を潜ませておくという鬼の所業です。現に浜辺に出たあとバランスを崩してつんのめってしまうわけですが、これを海の中でやらかしたらどうなっていたことか。

 しかし、長時間にわたって海に沈んでいたのにKV2の車内にはほとんど漏水していないとすれば、それはプラウダでそのように完全な水密性を与えていたからではないでしょうか。カチューシャのKV2贔屓のおかげかどうかは分かりませんが、少なくともこの車輌については海の中で横転してもしばらく問題ないだけの安全管理がなされていると考えられます。

 あるいは、プラウダではシベリアやプリピャチなど湖沼・湿地帯でも行動できるよう、すべての車輌に完全な水密性を維持しているのかもしれません。もしそうだとすると、昨年度決勝戦で黒森峰の3号戦車が川に落ちたにもかかわらずその救出のため試合を停止せずに攻撃を続けたのは、相手チームの隊員への安全配慮をわざと無視したのではなさそうです。つまり、プラウダの車輌なら川の濁流に呑まれた程度では隊員の生命に何の問題もないので、まさか黒森峰ではそうじゃないとは気づかなかっただけではないか、というわけです。

 

  以上のとおり、みほのあの行動が適切だったかどうかは、水と関わる場面を検討してもはっきりとした結論が出てきません。そこで視点を移すために、水関連以外の危機的状況を確認したうえで、この問題に再び戻ってくることにします。

 

 

2.被弾・転倒・火災

 

 まずは被弾について見てみましょう。戦車道の試合・訓練ではお互いの戦車を砲撃・銃撃するわけで、被弾は当たり前に発生します。このとき、戦車はヤークトティーガーの128mm砲弾やカール自走臼砲の600mm砲弾を直撃されても壊れない(おそらくはカルロ・ベローチェでさえ)だけの装甲強度を保証されているようです。また、被弾時に発生する衝撃波や内装粉砕によって車内の搭乗員が死傷することもないほど、いわゆるカーボンコーテングなどの装備は優れているはずです。

 しかし、第12話でマウスの下に潜り込んだヘッツァーは、マウスの重量と履帯駆動によってしだいにダメージを受けていきます。

  柚子「車内はコーティングで守られてるんじゃあ……!?」
  杏 「マウスは例外なのかもねー?」
 事実、ヘッツァー車内には内装の破片が降り注いでいます。すると、マウス程度の重量の一部にさえ短時間しか耐えられない戦車が、600mm砲弾の直撃に耐えられるのだろうか、という疑念が浮かびます。これについては作品内描写では説明できませんが、砲撃しているんだから耐えられる前提なのだろう、ととりあえずしておきます。

 むしろ問題なのは、ハッチの外に体を出している搭乗員が砲撃・銃撃で死傷しないのか、です。(監督は制作開始時点から声優に登場人物が死傷するような作品ではないと明言していたそうですが、そのような作品外論理に依拠するとご都合主義という非難を招くだけですので、ここでは無視します。)実際に戦車道による死者・重傷者は現れませんでしたが、軽傷・眼鏡破損などは毎度描かれています。ケガをしないわけではないとすると、それでも生身の人間に向けて砲撃する場面が次のとおり複数確認できます。ただし、これは西住姉妹ならびに愛里寿に向けての砲撃を除いたものです(多すぎるので)。

 

第4話 38(t)が急に割り込み砲撃した時・その直後に4号が急発進し砲撃した時、

      ダージリンはハッチを開けて上体を出したまま

第6話 89式の車外に典子が出て砲塔にぶら下がったまま逃走する背後から、

      アリサのM4A1が砲撃

第9話 被包囲下の大洗女子による一点突破攻撃時、

    カチューシャは慌ててハッチを閉める前に砲撃を浴びる

劇場版 西隊長がハッチから身を乗り出したまま突撃するも被弾し、

      砲塔の中に体を戻されハッチ閉鎖の直後に横転・白旗

    福田がハッチから上体を出したままマチルダの砲撃を受ける
    華と優香里がハッチから上体出している時に砲撃を受ける
    みほvsダージリン&カチューシャの場面でカチューシャが上体を出したまま

     (ただしチャーチルの盾となった時は砲塔の中に身を沈めている)

    アサガオ中隊が攻撃を受けた時、ケイが全身を、西・梓が上体を出していた

     (その後も知波単車長の多くはハッチ開けたまま)

    タンポポ中隊が攻撃を受けた時、ダージリンが上体を出していた

    カチューシャ・カエサルがハッチから上体を出している時にカール砲撃着弾

    まほ同様エリカも上体を出したままパーシングの砲撃を受ける

    退却時にカチューシャがハッチから上体を出したまま砲撃を受ける
    カチューシャがハッチから上体を出している時にカール砲撃再着弾、

      「見てごらんなさい、私には当たらないわよ!」と腕を振り上げる

    アンチョビが上体を出したままカールの砲撃を受ける

    ミッコが操縦手防御版を開けたままパーシングの砲撃を受ける

    東門付近でケイが上体を出したままパーシングの砲撃を受ける 

     ウェスタンゾーンでカチューシャが上体を出したまま三式の盾となる

    典子と知波単車長が上体を出したままセンチュリオンの砲撃を受ける    

 

 車長がハッチから上体 を出している時に砲撃を受けて被弾する場合がほとんどですが、中には第6話のように車長の全身が外に出て砲塔後部にぶら下がっているところを、しかもその後部に向けて砲撃されている場面もあります。これはおそらく誰が見ても砲弾の命中あるいは跳弾による人体への被害を予想できる光景であり、いくらみほが「めったに当たるものじゃない」(第4話)と述べたとしても、その「めった」な事態ではないのかと言いたくなります。

 これについては、砲弾・銃弾が人体に当たらないような機械的コントロールがなされているのだ、という想定で対応可能なのかもしれません。しかし、問題は砲弾・銃弾だけにとどまらないのです。上のリストでは挙げていませんが、第1話冒頭の親善試合場面では、聖グロの砲撃を浴びる4号戦車には命中しなかった砲弾によって粉砕された岩の破片が降り注いでおり、上体を出しているみほはこちらも注意すべき状況です。

 同じ問題は、劇場版でカールの砲撃を受けるカチューシャにも当てはまります。「私には当たらない」というより人体には直撃しないようにコントロールされているのだとしても、着弾による衝撃波や粉砕された地表の飛散などはどうなっているのでしょうか。

 つまり戦車道では、砲撃・銃撃による間接的な被害の可能性がつねに存在しているのであり、こちらはほぼコントロールできないと思われるのです。西住姉妹以外の車長のほとんどが交戦時にハッチを閉めているのは指揮統率のためだけでなく、このこともあっての安全策なのではないでしょうか。

 

 この制御困難な危機的状況には戦車の転倒も含まれそうですが、作品内ではどれほど激しく横転しようとも、また相当な高さから墜落しようとも、映像で見るかぎり搭乗員に死者・重傷者は出ていません。車内はあんなに突出部が多く砲弾なども保管されていますが、何らかの緩衝機構が働くものと想像されます。

 その最も端的な例が、劇場版のエキシビジョンマッチにおける西隊長の吶喊場面です。ここでは彼女の搭乗する戦車が被弾して横転するのですが、その瞬間まで車長ハッチから身を乗り出していた西は、被弾から横転までのわずかな時間で砲塔内に身を沈め、ハッチも閉じているのです。あそこで横向きの強い力が加わってるのに上体を引っ込めるのは普通に考えて無理でしょうし、そのまま上体を出していれば地面と砲塔に挟まれてしまったでしょう。これを回避できたのは彼女の訓練の成果というだけでなく、戦車自体にこのような状況で車長を引き戻しハッチを閉鎖する安全装置があるおかげではないか、などと考えることができます。

 しかし、ハッチから上体を出したままの車長が、たとえ横転しなくとも似たような身体的ダメージを被ることはないのでしょうか。例えば搭乗車輌に急な衝撃をくらうことによるムチウチなどの傷害です。第3話では被弾時に華が失神していますし、劇場版では福田が被弾時に苦しげな声をあげています。西住姉妹でさえ第12話の一騎打ちでは、ほとんど上体を出しっぱなしのみほが「全速後退!」と指示した直後にハッチ内に身を沈めていますが、これはティーガーとの衝突に備えたものと思われます。(このときまほもそうしてるかは、開いたハッチに隠れていて不明です。)

 ところが、そのみほが劇場版最終局面では、まほのティーガーの後ろからの空砲で急加速をかけられても、ハッチから上体が出たままで耐えてます。このとき、みほの上体は4号戦車の耐衝撃機構によっては守られていません。それにもかかわらず、試合終了直後のみほの体は、砲塔から軽やかに飛び降りることができるほど無事でした。(黒森峰との決勝戦後には自力で降りられないほど体を硬直させていたのに。)これは西住流だから可能なことなのでしょうか。

 ここで転倒と並ぶ重大な危機的状況、火災について見ておきましょう。車内での火災発生は第6話で89式が被弾した場面以外には存在しませんが、そこでは典子たちが消火活動を行う姿が描かれています。つまり、自動消火装置は装備されていないか、いたとしても機能しなかったのです。火災の恐ろしさは言うまでもないでしょうが、人体に火傷だけでなく一酸化炭素中毒などをもたらす危険性があります。例外的にこの1件だけが発生してしまったと考えるべきかどうかは難しいところですけど、その例外が生じた時に隊員たちが失神してでもいたら死者が出るでしょう。

 

 

 以上のように、水没のみならず被弾・転倒・火災のいずれの場合についても、様々な問題が確認されました。現実の柔道などの授業でも死傷者が出ているとはいえ、それとは比べ物にならない危険度を戦車道はもっていると言わざるを得ません。

 それにもかかわらず作品内では死者・重傷者が出ておらず、さらに作品世界での他の試合などでもそのような事態が発生していないとするならば、

A. 重大な事故が生じないための安全対策が完璧にとられている

というだけではもはや間に合いません。つまり、

B. 搭乗員たちの身体が事故に耐えられるほど屈強である

という仮定も加えたほうが納得いくのです。これは、何でも髪の毛チリチリ程度で片付くギャグアニメ的な身体という意味ではありません。

 作品世界では、学園艦という巨大すぎる艦船を建造・航行させられるだけの科学技術が存在しています。また、これをほぼ自分たちだけで運用できる高校生たちがいます。これほど高度なテクノロジーを備えた社会では、生命科学なども相応に発展していることでしょう。そう、この作品世界の人類はすでに存分に強化されているのです。

 この仮説に基いて観直すと、例えば第3話で被弾時に失神したばかりの華が意識回復後、搭乗車輌の砲撃に「なんだか……気持ちいい……」とうっとりできるほど回復しているのは、ぼくたちからすれば尋常ならざる心身の能力の現れと受け取られます。あるいは入浴中に「じんじん痺れた感じが忘れられなくて……」と語っているあたり、華が被弾時に失神したのはショックの強さによるものではなく強すぎる快楽のためではなかったか、とさえ考えることもできます。

 また、第7話の回想場面で川へと駆け下るみほは、途中で足をつまづき岩場を滑り落ちていますが、それでも膝などにかすり傷ひとつ負っていません。第8話ではあんな雪の中、両チームの隊員がほぼスカート姿です。第11話で味方戦車を跳び渡るみほの脚力は放映当時からの語り草となっています。そして劇場版では数日のトレーニングで筋肉ムキムキとなったアリクイさんチームの勇姿を誰もが認めたことでしょう。すごいね人体。ですがそれは個々の資質のみならず、彼女たちを含む作品世界の人類がもつ心身の能力ゆえのものであり、戦車の砲撃などで重傷さえ負わないのも、ひとえにその身に備わるたくましさのおかげなのです。

 すると、OPで雨天映像の直後にみほが水中に沈んでいくかのような姿が描かれるのは、昨年度大会の記憶とみほの心象を表すだけでなく、こういう状況でも普通にしばらく耐えられますよ、という具体例の提示でもあったことになるでしょう。ただしそれでも、負傷や窒息・火傷などによる苦痛はなくなるわけではありませんので、みほが3号戦車の搭乗員を救出に行ったり大洗女子の仲間のケガを心配したりするのも無意味ではありません。

 

 この妄想を別方向に推し進めれば、戦車道の活動中にたとえ死者や重大な負傷者が出たとしても、安価なクローン技術その他によって医療的・法的に対応できてしまうのではないか、などと考えていくこともできるでしょう。

C. 体がタフなのではなく、体が安い

という発想です。そうなると第3話で沙織が「でもみぽりんにもしものことがあったら大変でしょ!?」と叫んでいるのは、戦車道素人の沙織がベテランのみほを友人として親身に心配した姿であると同時に、万が一の場合には記憶の一部を改変されたクローンのみほ2と置き換えられてしまうことへの懸念があったことにな(ZAP ZAP ZAPガルパンはいいぞ。

考察コンテンツの基礎づくり・その2「ぶつけよう」

 考察コンテンツをこしらえるための基礎作業について、今日は後半部です。

 なお、ここでの「考察」とは、「自分の好きな作品の内容をもとにした、その作品をより深く・楽しく享受するための解釈・分析作業」としておきます。作品をとりまく社会状況や製作者側・視聴者側の都合などは、ぼくの関心事ではありません。

 

 というわけで今回のテーマは、「ぶつけよう」です。

 

 前回の「数えよう」で述べたのは、作品内の事象・描写をきっちり把握しておくことが、考察するための地に足ついた素材として必要であり大いに役立つものである、ということでした。作品内に根拠のない風評・デマはこの簡単な作業ひとつで実質的にふっとばすことができますし、たんに数えたりリスト化したりしただけのデータからでも思わぬ作品の魅力が浮かび上がってくることがあります。

 とはいえ、データ収集を越えて作品の分析・解釈を行うとなると、そのためには何らかの「問い」が必要になります。その「問い」に答えるプロセスを通じて、作品のさらなる魅力を発見できるわけです。これが考察を書く者にとってのたまらぬ楽しみなのですが、しかし「問い」の立て方というのはなかなか説明が難しいものでもあります。そこで今回は、ぼく自身が意識的に用いている「問い」の立て方のテクニックを1つ説明しようと思います。だいたいはひらめきとして思いつくことの多い考察の問題観点のうち、どこいらあたりはパターン的に作り出しているのか。

 その重要な部分を占めるのが、「ぶつける」という操作です。これは、作品内で示された事象を複数対比してそこに対立や矛盾を見出す、というものです。例えば2つの場面を並べてみたとき、世界設定が齟齬をきたしている・登場人物の性格描写が首尾一貫していない・前に発生した重大事が後に影響していない、などなどです。とくにアニメや漫画などのストーリー作品では、登場人物の言動が場面ごとに食い違っていると感じられてしまうと、視聴者としてはなかなかついていきにくいものでしょう。あるいは、多くの視聴者には気づかれていないものの、じつは作品描写に潜んでいる矛盾というものもあったりします。そういうものを正面に見据え、ガチンコさせて「ずれ」を指摘するのが、「ぶつける」ということです。

 ただし、「ずれ」を指摘することで「だからこの作品は出来が悪い」と言いたいわけではありません。ぼくが考察の目標としているのはまったく逆。つまり、その「ずれ」に(作品内での)筋の通った説明を与えることで、作品に対する批判・非難を一部解消し評価を高めたいのです。要するに、「なんかずれてる、おかしいな?」から「あ、そうつながるのか。すごくよくできてる!」へ到着するのが考察パターンの1つです。

  では、具体例にそって見ていきましょう。

 

 

1.「アニメ『ガールズ&パンツァー』にみる後継者育成と戦車道の諸相・その1 ~聖グロリアーナ女子学院篇~」

 

 一連のガルパン考察は、3つの前提に基いて始められました。まず「戦車道は授業科目なのだから教育目標があるはずだ」、次に「戦車道は学校で行う集団競技なのだから先輩後輩の間に教育関係があるはずだ」。そして最後に、「戦車道は伝統武芸なのだから伝統の継承がなされているはずだ」。

 ところが、この最後の前提について考えてみると、作品内で2種類の描写があることに気づきます。

 (ア)第1話の戦車道紹介映像で示された女性像は古風で良妻賢母的である。

 (イ)各校の戦車道は多様で、隊員の少女たちの言動は現代的である。

 このうち(ア)にだけ注目すると、「戦車道が求める女性像が時代錯誤だ」という批判が生まれます。逆に(イ)にだけ注目すると、「どのチームも個性的で今風だ」という賞賛が生まれます。しかし作品の中では、どちらも事実として描かれているのです。え、ほんとはどっちなの? それとも、どっちもなの?

 はい、ここで(ア)と(イ)がぶつかりました。これが今日のポイント、「問い」を生む操作です。すなわち、

「同じ作品の中で、(ア)と(イ)がなぜ・どうやって両立しているのか」

という問いがいま生まれたのです。

 

 ついでに、ここから「なぜ・どうやって」についての仮説を立てるまでのプロセスをかいつまんで示しておきます。

 まず、こういう一見矛盾した描写の問題に答えるときありがちなのが、「スタッフがいい加減に作ったんだろ」「しょせんオタアニメだし」など、製作者の能力や作品の質など作品外の事情に原因をおくタイプ。こういう根拠薄弱な決めつけは要するに「自分は考える能力を持ちません」という表明にすぎないので、却下します。

 次に、「戦車道は古臭い女性像を掲げてるんだけど、いまどきの戦車道隊員たちに無視されてるんじゃないの」など、(ア)と(イ)の作品内での断絶に原因をおくタイプ。これはさっきのタイプよりは作品の中身に即して考えようとしてますが、たんなる断絶にすぎないのであれば(ア)をわざわざ描いた意味がなくなりそうです。なので、もう少し両者をつなげられるように考えてみることにしましょう。

 そこで、「戦車道が成立した時代の女性像を今でも守ってる学校と、そうでない学校があるんじゃないかな」など、(ア)と(イ)の断絶を一部に限定するタイプが出てきます。劇場版の知波単を見るとこのアイディアの説得力が増すのですが、しかしテレビシリーズ放映当時ではあまりにも「そうでない学校」ばかりだったため、もう一歩という感じがしました。

 ぼくが最後に選んだのは、「戦車道が生まれたころはどこも同じ女性像を求めてたけど、当初の理念をそれぞれ校風や時代変化に合わせていった結果、同じ幹から多様な花が咲いたのでは」という時系列でとらえるタイプでした。幸い聖グロが個性的でありながらも第1話映像で語られた戦車道の原点に近かったため、これでいけそうだという予感をもてました。

 こうして、(ア)と(イ)は矛盾せずにその根底でつながっており、しかも各校の歩みが戦車道の多様性を生み出したのではないか、という視点を得られました。あとは聖グロを中心において、各校の相違点を比較検討すればいいわけです。そうすると、これまでは各校チームを「個性的」の一言で片付けていたのが、「最初の戦車道をこうアレンジした結果がいまのサンダースなのでは?」などと考えるようになってきます。その結果、「個性」の中身をもっと具体的に理解できますし、各校の歴史を想像して楽しんだり、その先端にダージリンたちがいることの意味をあらためて感じたりもできます。そして、今までスルーしがちだった細かい描写も、この視点で見返すと「あれ、もしや?」とつながってくる予感がして、作品が新たな姿で見えてくるのです。

 

 そう、つながってくると言えば……ぼくの聖グロ考察とプラウダ考察を読まれた方は、劇場版冒頭のエキシビションマッチに何かを感じられたのではないでしょうか。あの試合でなぜ聖グロとプラウダが組んでいたのか。あれは、戦車道元祖の聖グロと、聖グロ的戦車道の解体を目指してきたプラウダとの、歴史的な歩み寄りを示す光景でもあったわけなのです。しかもあの決着場面ですよ、しびれました。

 

 

2.「アニメ版『シスター・プリンセス』初期の危機とその超克 ~第3話の2つの表を手がかりに~」

 

  前回も「数える」の具体例として用いましたこの考察。そこでは2つの表のチェックによって、

 (ウ)妹達が共同生活の義務を公平に分担しようとしている。

 (エ)兄を独占する権利は不平等に振り分けられている。

ということが明らかになっていました。

 はい、もうお分かりですね。(ウ)義務は公平に分担してるのに(エ)権利は不平等、という矛盾です。普通に考えれば、2倍の機会をもらっている四葉に対して「ずるい。みんながんばってるのに」という文句が他の妹達から出てきそうなものです。

 このしごく常識的な想像に基いてぼくは、妹達の公平な義務負担と一見不公平な権利分有が矛盾なく釣り合うための論理(妹達の合意内容)を考察することにしました。いったんはこの割り振りで全員納得したわけですから、そこには最年少の雛子にも分かるような理屈があるはずなんですよ。それが何かは考察本文を読んでいただくとして、ここでのポイントは、2つの表の内容を数えるという単純な作業によって、登場人物たちの関係やその変化を読み取る(つまり作品全体を通して解釈するさいの中心軸をつかむ)ための「問い」を獲得できた、ということです。

 

 

3.「『涼宮ハルヒの消失』における少女の新生・接触篇 ~すれ違い続けるインターフェース~」

 

 この『消失』考察前篇では、キョンとの出会いから暴走に至るまでの長門有希の変化について論じています。その冒頭にある問題設定では、ぼく自身が発見したものではない「ずれ」が掲げられています。

 作中時間で11月にあたる『溜息』が、同じく6・7月にあたる『退屈』や「エンドレスエイト」(『暴走』所収)に先だって単行本刊行されているため、上述の路線修正によって長門の描写に時系列上の齟齬が生じているという意見もあるようです。例えば「ミステリックサイン」で化け物退治の主導権をとり「孤島症候群」で空気を読まない「ジョーク」を試みた長門のかすかな積極性と、「エンドレスエイト」や「涼宮ハルヒの溜息」での観察者としての消極性とが、微妙にずれていると言うのです。

  これは執筆当時よそで見かけた指摘でして、ここでの作品刊行時期への言及が事実かどうかは、その文章のすぐ下にある表のとおり自分で確認しました。いわば他者が示してくれた「ずれ」をぼくなりにチェックしたうえで引き取り、考察の「問い」として活かした事例ということになります。

 長門の描写に「ずれ」があるというこの「問い」に対して、やはりぼくは作者や出版社の都合で答えるのでなく、あくまでも「その人物の内面的な揺れとして捉える」ことを試みました。

この観点に立てば、長門は、キョンとの遭遇以来、直線的な変化ではなくいくぶんかの行きつ戻りつを伴いながら、『消失』での暴走へと至ったと考えることができるでしょう。そして、その戸惑いこそが、『消失』ではあえて露骨に描写されなかった長門有希キョンへの想いの強さを物語っていたものとして、あらためて理解できるかもしれません。

  結果として彼女の描写の「ずれ」は、「キョンとの間で繰り返されるすれ違い」の様々な段階を示すものとして捉え直されたのですが、それは考察本文をご覧ください。

 

 

 以上3つの事例を挙げてみましたが、ぼく自身が見つけたガルパンとアニメ版シスプリの「問い」は、どちらも何のひねりもないものです。もしもそこにひねりがあるとすれば、それはガルパンでは「第1話の戦車道紹介映像が現在も使われていることに注目した」、アニメ版シスプリでは「2つの表をちゃんと確認して比べてみた」という、作品内の描写をそのまま受け止めてその意味を考える姿勢が生み出したものにほかなりません。

 これについては「あんよ流・考察の書き方」でも、作品を鑑賞するさいの最も基本的な姿勢として強調しています。

 それは、誠実に観るということ。そして、作品に描かれた事柄の全てには意味がある、と信じることです。

  とくにアニメや漫画、小説などの作品などは、わざわざ手間暇かけて描いてる・書いてるわけですからね。無意味なものはひとつもないはずです。そして、そこにどんな意味を見出すかは受容する側の自由であり、腕の見せ所でもあるのです。

考察コンテンツの基礎づくり・その1「数えよう」

 「こういうコンテンツが読みたい」という文章を書く気はないし、「自分はこういうつもりでコンテンツ作ってる」というのはすでに書いたので、久々に「自分がコンテンツを作るときのやり方」について書いてみるの巻。ただし考察限定です。

 ぼくの考察の作り方については、10年も前に「あんよ流・考察の書き方」としてまとめています。そこで示した考え方や作品に向き合う態度などは、今でもぼくが考察を書くさいの大前提となっているため、とくに付け加えることはありません。

 ただ、もう少し基礎的な作業としてぼくが実際に何をやっているのか、そこからどんな発想が生まれてくるのかについて、2回くらいで述べてみようかと思います。それは表現力や論理的構成力といった訓練を通じて伸ばす必要のあるもの(あるいはセンスで決まってしまうもの)とは異なり、おそらくほとんどの人が現在の能力でこなせるはずの作業です。

 

 というわけで初回のテーマは、「数えよう」です。

 

 ぼくのいくつかの考察の価値は、他のファンが誰もまともに数えようとしなかった作品内事象をきっちり数えてリスト化・数値化するという、この一点のみで成り立っています。数えることのメリットは、例えば次のものなど。

(a)誰か頭のいい人が面白いことを読み取ってくれそうなデータを提供できる。

(b)自分や世間の先入観が正しいかどうかを実際の数値でチェックできる。

(c)登場人物や状況の実態・変化を数値で可視化できる。

(d)さらにそこから、隠れた登場人物の成長や事態の構造・推移を浮かび上がらせられる。

  具体例にそって見ていきましょう。

 

 

1.「『シスター・プリンセス』キャラクターコレクション一歩手前」

 

 執筆公開は2004年ですが、最初のデータ収集は2002年5月。つまりアニメ版シスプリ考察よりも前なので、ネット上でのぼくの考察作業はこれが第一歩ということになります。

 どんな作業をしたかというと、シスプリのキャラコレ全12巻の中でそれぞれの妹が兄を呼んでいる(可憐なら「お兄ちゃん」)回数を調べたものです。なぜそんなことをやろうとしたかは、よく覚えてません。ぼくは漫画作品なら主要人物の登場コマ数とか数えたがる人間なので、同じように衝動にかられていたはずです。ただ、その前後でキャラコレテキストの行数やハートマークなども数えてたので、それらのデータや相互比較によって各妹の特徴(つまり作者による12人の一人称テキストの書き分けポイント)が明らかになるのではないか、と期待していたのでしょう。

 この、たんに数えただけのデータをいくつか提示しておいたところ、友人が統計処理とグラフ化を行ってくれたおかげで、分析っぽい基盤ができてきました。これが上の(a)にあたります。データを分析する頭がなくとも、数えることさえできればファンダムにとって面白い考察の足がかりになることは可能なのです。

 また、当初の予想では、兄が登場しない話よりも登場する話(とくにデートやお泊り話)のほうが兄を呼ぶ回数は多いと考えていましたが、実際に調べてみると兄不在時の可憐(第1巻第4話)が兄を呼ぶ回数がべらぼうに多いと判明しました。おかげで可憐についての認識を正すことができたわけでして、これが上の(b)にあたります。

 

 

2.「アニメ版『シスター・プリンセス』初期の危機とその超克 ~第3話の2つの表を手がかりに~」

 

 ぼくの考察の記念すべき1本目です。

 ここではまず、作品中に描かれた「当番表」と「<お兄ちゃんと一緒>表」をもとに、それぞれにおける各妹の担当回数を数えました。当時、ネット上でこの作業をしていたファンはいなかった(ただし同人誌ではすでにあり)ので、誰でも参照できるデータを提示するというだけでも価値がありました。ただし本考察ではぼく自身、このデータを2つの分析に用いています。

 1つは、妹達の当番回数からそれぞれの年齢設定を読み取るというものです。シスプリの妹達の年齢は公式設定がなく原作やゲームでも上下関係が様々なのですが、このアニメ版第1作での隠された設定をつかむことによって、その後の共同生活における年齢相応の役割分担などを首尾一貫して読み取るための手がかりが得られました。そして、この当番回数が年齢に応じて決められているということから、妹達が兄と新たに始める共同生活の義務をできるだけ公平に分かち持とうとしているのだと結論づけました。

 もう1つは、妹達が兄を独占できる時間が決して公平に分けられていないという事実の指摘です。眞深の分がすべて四葉に回されたため、四葉だけが得してるのですね。表を見て妹達の名を数えるだけで、このことを明らかにできたわけです。

 これらは、データから兄妹たちの共同生活の実態とその特徴を明確化したということであり、上の(C)にあたります。ところがこの2つの分析を合わせてみると……というのは次回のテーマなのでここでは省略しますが、その部分がつまり(d)にあたります。

 

 

3.アニメ『ガールズ&パンツァー』にみる後継者育成と戦車道の諸相 アンツィオ高校篇 

 

 たとえ表や図などで作品中に描かれていなくても、数えることで気づくことはたくさんあります。そしてその発見が作品愛をさらに深めることも、いっぱいあります。

 このアンツィオ考察の終わり近くでは、副隊長ペパロニが隊長アンチョビを「ドゥーチェ」と呼ぶときと「姐さん」と呼ぶときを数えています。隊員たちが「ドゥーチェ」と連呼する場面が印象的な一方、ペパロニは両方の呼び方をしていたので、ふと(2つの呼び方を何らかの理由で使い分けてるかも?)と気になり、確認してみたのですね。

 すると、回数は2:4で「姐さん」呼ばわりのほうが多いと分かりました。また、ここでそれぞれの台詞や状況を比べてみたところ、ペパロニが直情的な場面で「姐さん」呼ばわりが出てきやすいのではないかと見当をつけました。逆に言えば、彼女が副隊長として冷静になろうとするとき「ドゥーチェ」呼ばわりなのではないか。

 この仮説にたってペパロニの他の言動を再確認していくと、試合中の彼女の意識の揺れ(つまり(d))が浮かび上がってくるとともに、優花里に語った軽口が隊長への愛慕の念を秘めたものだったことに気づかされたのです(つまり(c))。

 もちろんこれは、ぼくがそう見たからそう見えるたぐいの解釈かもしれません。しかし、ペパロニの台詞に現れる隊長呼称を数えるという単純作業の結果として、ぼくはその前よりもはるかに深くペパロニやアンツィオの面々を好きになることができました。

 

 

4.「『ハートキャッチプリキュア』堪忍袋の緒が切れるまで」

 

 台詞に登場する特徴的な言い回しなどを網羅するという作業については、この考察が極北でしょうか。キュアブロッサムの「私、堪忍袋の緒が切れました!」という決め台詞に注目して、各話の犠牲者の悩み・敵幹部による批判や非難・プリキュアによる反論をリスト化したのがこれです。

 ただし、当初ぼくは(とりあえずリストを作ってみるか)という軽い意図で、録画をチェックし表に並べるだけで済ませていました。ところが、この表だけこしらえた段階で公開したところ、キュアブロッサムを揶揄する反応がいっぱい届いたのですね。ぼくのまとめ方がまずかったせいなんですけど、そういう反応や敵幹部への賛同などは、ブロッサムの態度をよしとするぼくの本意にまったく反します。データ表現の不備によって世間の誤解を招いたという意味で、これは(a)と(b)の明らかな失敗例でした。

 そこで慌てて自分の主張をはっきり示すため、前後に考察スタイルの文章をどっさり加筆したものが現在のものです。加筆箇所ではデータ分析を行っていますが、その視点はプリキュアと敵幹部の価値観の対比にあり、これに基いて両者の意見対立をいくつかの類型にまとめています。この類型化と対比の結果、犠牲者に対する敵幹部の批判・非難は視聴が思うほどの正当性がないことが明らかとなり((c)と(d))、これによってぼくは自ら招いた作品への誤解を自ら解いたわけです。

 

 

5.「『ベイビー・プリンセス』公式日記における姉妹の相互言及」

 

 先の4.と同じく特定の言い回しなどを取り上げたもののうち、それを数値化して分析した考察といえばこれが随一。べびプリ公式日記の中で19人の姉妹それぞれが、自分の担当回に他の姉妹の名を綴っている回数を調べたものです。

 これは冒頭に書いてあるとおり、大好きな長男にあてた日記なのにそこでわざわざ他の姉妹の名を出すというのは、よほどその姉妹に対して関係が深いことの表れではないか、という仮説に基いています。(なんでそんなこと思いついたのかについては、また後日。)

  さて、実際に1年分の日記をもとに回数を数えリスト化したところ、他の姉妹の名前を出す回数が多い者・少ない者や、他の姉妹に名前を出される回数の多い者・少ない者がいることが分かりました((a)としての生データ化)。ただし各人の日記担当回数にはわりと差がありますので、その数値をもとにして、「回数の多い・少ない」という「言及数・被言及数」を「頻度の高い・低い」という「言及度」に変換してみました。

 すると、たんに回数をみただけでは分からない姉妹それぞれの傾向が浮かび上がってきたのです(自分にとっての(b))。これによって姉妹をタイプ分類しつつ、この枠組みを用いて各人の日記内容を読み返すことで、類型と個性とを組み合わせた各人のより深い理解ができるようになりました(つまり(c))。

 さらにぼくはこのアプローチを翌年の日記でも用いることで、長男が家族の一員に加わった1年目の姉妹の態度と、だいぶ馴染んできた2年目の姉妹の態度とを比較し、そこに様々な変化を確認することができました。(d)にあたる収穫です。

 

 

 以上いくつかのサンプルをもとにして、「数える」というじつに簡単な作業によってどういうことができるのかを確認してきました。数えて意味があるのかどうか分からないこともあるでしょうが、当初の予想や仮説が外れたとしても、それは「データ的に根拠がない」という事実を明らかにできたということなので、決して無意味ではないのです。同じような言説がふわふわ現れて耳目を集めたときに、そのデータを示してきっちり否定できます。

 もちろん「データを公開するだけではパクられて終わりだ」とか「せっかく手間暇かけて調べたのにもったいない」と思われるのであれば、自分なりの分析を付してもよし。ぼくもだいたい自前の考察を行ってるわけですし。

 ですが、もしも皆様の好きな作品のファンダムがパクリや安易な揶揄・非難を生まないと信頼できるものであるならば、あるいは特定の他者にデータをうまく活用してもらえるという確証があるならば。その作品について数え調べた生データをそのまま公開することも、十分に価値あるものだと思います。そのデータは自分の手をいったん離れたのち、やがて他の人々の手を通じて作品をより豊かに味わうための道具に鍛えられて、再び戻ってきてくれるのですから。そしてまた、逆に他の人が調べてくれたデータを用いるときには、当然の敬意を払いルールを守ってしかるべきです。

 そうやって作品理解や作品愛を互いに拡大深化させていく最初のきっかけは、(こんなの数えて意味あるのかな……?)と思いながらも調べてしまったあなたのデータにあるのかもしれませんよ。

自作コンテンツの評価を検索結果にみてみる

 サイト・ブログでのお金稼ぎなどをやらない理由については、以前書きましたが。

 

kurubushianyo.hatenadiary.jp

 

kurubushianyo.hatenadiary.jp

 

 自分の好きな作品について全力こめた考察などのコンテンツを、どれくらい読んでいただけてるのかについては、やはり気になります。それはアクセス数を増やしたいという気持ちよりも、自分が作品に見出した独特のよさ・面白さを多くの方々に知っていただくことで、「なるほど、また観て・読んでみたくなった」と再び作品に触れる機会にしてもらえれば、という思いからです。もちろん、ぼくの解釈を受け入れてほしい、という欲求も同時にあるわけですけれど。

 実際のアクセス数は調べてないんですが、とりあえずの指標として用いてるのが、「(作品名)考察」または「(作品名) 考察」でぐぐったときにぼくの考察コンテンツ(puni.net/~anyo/etc内、ここで一覧)がどの位置に出てくるか。例えば、次のようにです(2016年5月現在)。

 

 「シスプリ考察」で1位。

 「涼宮ハルヒ考察」で5位。

  (「ハルヒ考察」7位、「憂鬱考察」4位、「長門有希考察」「消失考察」1位)

 「べびプリ考察」で2位以内。

 「ハートキャッチプリキュア考察」で10位。

 「ガルパン考察」で2位。

  (「聖グロ考察」1位、「サンダース考察」7位、

   「アンツィオ考察」1位、「プラウダ考察」1位)

 

 だいたい検索結果1ページ目に入ってますかね、と胸を張ってみるの巻。もっとも検索上位だからといって内容の質についての評価も高いとは限りませんが、ひとまず検索後に読んでもらいやすいうえに、引き続き参照・言及してもいただけてるのかな、と勝手に考えています。ありがたいことです。

 自分の全力を注いで完成させたコンテンツが、こうして検索され参照されることでネット上にそれなりの地歩を固めているのだとすれば、少なくともぼくの趣味に関わる場ではアクセス数稼ぎのためのいいかげんなコンテンツに負けていない。これはそのようなファンダムを担われている皆様のおかげでして、またまたありがたいことです。自分の書きたいことや自分にとって面白いことを書きながら、それらを読んでいただけることへの信頼。楽しんでくださることへの感謝。ここしばらく話題となっているネット界の風潮を、笑顔でスルーする力が湧いてきます。

 

 その一方で「ネギま考察」や「アニマス考察」での検索だと、ぼくのはずーっと下のほうにしか出てきません。いずれも作品完結時まで書き続けてませんので、これは当然の結果でしょう。また、ハルヒ考察についても最初の憂鬱考察は公開後しばらくトップでしたけど今や上位からほぼ消えてますので、他所様のより新しいコンテンツに注目が集まるとこちらの位置が自然に下がっていくんだろうな、と想像します。逆に言えば、シスプリハルヒについては今後それほど目立ったコンテンツは登場しにくいでしょうから、現在の位置をこのまま維持できそうな塩梅。

 いや、そんなことに安堵するよりもむしろ、作品再開してファンダムが湧き上がって新規コンテンツが溢れかえるほうがずっと嬉しいんですけどね。そのときはぼくもまた何か書きたくなるはずで。

 

 最近のヒットといえば、ガルパンのとくにアンツィオ考察。ついったーでも時々、読むとペパロニがもっと好きになる・泣いてしまったなどのご感想を頂戴してます。ぼくも大好きですペパロニ。声を担当されてる大地葉さんのガルパン愛が(もともとTVシリーズ以来の作品ファンだったとのお話)、ペパロニというキャラクターによってさらに増幅されほとばしり出てるようにも感じてます。考察にも書きましたけど、「アンチョビ姐さーん! 姐さーん!」とか、もう泣く。皆も泣け。

 これも以前書いたとおり、ぼくは考察作業を通じて自分の作品愛を深めることを目的のひとつにしてますので、その考察を読んでいただくということは、『ハートキャッチプリキュア』(これも大好きな作品)風に言えば「くらえこの愛」なわけです。

 

 いま取り組んでるのは、ガルパン黒森峰考察。この考察シリーズはもちろん大洗女子が最後に控えてますので、あと2篇でいちおう完結ですね。

 あと以前からずっと抱えてるのが、まず『ローゼンメイデン』考察。真紅のあの台詞「だって 闘うことって 生きるってことでしょう?」の具体的なありようを、真紅たちやジュン・めぐそれぞれの闘いかたに見出すというもの。これは昔の日記で台詞登場時点の感想・予感を書きましたが、作品完結後しばらく経ちますし腰を据えてやってみたいところです。

 次に、『とらドラ!』考察。これはアニメ化されたタイミングでぼくが原作を読んで感想を綴ってたとき、ついったーで要望をいただいだんですが、当時ぼくも注目してた「『「食』への執着」という観点から全編読みなおすというものです。こちらはまったく手付かずですが、往時の勢いが戻ればハートキャッチ考察の形式で各描写の分類と解釈を行うことになるでしょう。

 実際これらは絵に描いた餅ですし、それより遥か以前より未完成のままなコンテンツも少なくないので、どこまでも気分次第ではありますが。ぼちぼち進めてまいります。