『りゅうおうのおしごと!』第1巻メモ

 『りゅうおうのおしごと!』第1巻についての色々メモ。記憶で書いてる部分には誤りがあり得ます。実在棋士の段位・タイトルはこの文章執筆時点のものです。

 

(追記:いちばん大事なこと書き忘れてた。内弟子姉弟弟子といえば、故米長九段の家に住み込みで内弟子時代を過ごした林葉直子元女流五段・先崎学九段が有名。ただし銀子・八一と異なり、林葉が先崎より年長。林葉は女流タイトル計15期を誇る。)

 

 p.9 八一の昇段履歴、奨励会入会から四段まで6年1ヶ月。三段リーグ開始以降では相当早い。例えば渡辺棋王や菅井王位、中村王座も6年くらい。順位戦1期目は昇級できず。

 

 p.10 放尿、故米長九段が敗れたときの所業。弟子の先崎九段が師匠の後ろから胴体と愚息を支えざるをえなかった、みたいなことを先崎九段のエッセイで読んだような。

 

 p.12「若々しさを解き放」つ、谷川九段を紹介した新聞か雑誌の記事のキャプション。

 

 p.15 「将棋雑誌」、昔は『近代将棋』とか『将棋ジャーナル』とか『週刊将棋』とか……(涙)。

 

 p.16 「美しい少女」、これは八一による評価でもあると受けとってよさそう。ただしその外面的な美しさに八一が惑わされる時期は内弟子時代に滅んでる。

 

 p.17 「謎の雄叫び」、加藤九段が中原十六世名人から名人位を奪取する直前、相手玉の詰みを発見したときの奇声と伝えられるものと似てる。

 

(追記:p.17 「おおーっ!」「やった!」、NHK杯トーナメントで18歳の羽生五段(当時)が大山・加藤・谷川・中原と名人経験者4名を破って優勝したとき、その加藤戦で有名な5二銀を打った瞬間に解説の米長九段が叫んだ台詞、と似てる。つまりこの場面を現実の棋界ネタ元に置き換えると、放尿事件の当事者が放尿に喝采していることになる。)

 

 p.19 「タイトルくらい私も持ってるし」、八一からすれば姉弟子の保持数が自分より多いという劣位の痛感。しかし奨励会員の銀子からすれば、あくまでも女流タイトルだけど、という言外の留保があったものか。おそらく銀子は女流棋士界を見下しているわけではなく女流タイトルにも誇りを抱いているだろうが、両方に関わっていることによる揺れはあると予想。

 

 p.21 異名、それぞれ佐藤康光九段・田中寅彦九段・森けい二九段・中村修九段・山口恵梨子女流二段・長沼洋七段・所司和晴七段・故佐藤大五郎九段か。

 

 p.24 「えっ!?」、さすがの八一も動揺する模様。

 

 p.33 「なぜ姉弟子の希望が」、最初から入り浸る予定なので自分の気に入る部屋かどうかは大事だったということか。あるいは「ワンルーム」だと将棋を指す部屋にベッドも置かれるかもしれないなどの理由で2DKを選ばせたのか。

 

  p.37 「手が震えて」、羽生竜王の有名な癖。他の棋士も終盤はえずきが止まらないなどあり。

 

 p.65 「一人暮らしをするときの練習」、じつは二人暮らしの練習だったりしないか。手料理を食べさせようとするのは桂香を見習いつつの対抗意識か。なお致命的に料理下手なのは、あいが料理はもとより家事全般に長けている(p.59)のと好対照。

 

 p.75 『……八一に嫌われたかと思ったから』、八一は胸熱だがしかし銀子に「嫌われたかと思」うような心当たりがあるのだろうか。予想は2つ。まず、自分が八一のVSの相手としてふさわしくない程度の実力だと見なされてしまったのではないか。しかしその場合は「嫌われた」という表現はしっくりこないかもしれない。次に、前日の出来事が直接影響している可能性。これは、師匠の尿まみれズボンが二人の関係を壊すほどの凶器だったのでは、と銀子が想像しているという場合と、ズボンを我慢してでも持ち帰ってきちんとクリーニングしてくるという女子力を自分が持ち合わせていないという事実に八一がうんざりしたかもしれない、と銀子が懸念しているという場合がある。

 

 p.76 「カップ麺を食べても竜王の味」、橋本八段がA級昇級したときのツイッターポストのパロディ。

 

  p.77 「そうじゃなくて――」、に続く言葉は後に八一自身が気づくように「俺は俺の将棋を指す」ということが(タイトル保持者の責任に振り回されて)できずにいるためということだろう。ただし直前の「八一は弱くなんかないよ」という一言は、八一を励ますとともに、八一と競い合ってきた銀子自身への、まだ奨励会を抜け出せない焦燥感を押さえつけるための言葉でもあるかもしれない。

 

 p.82 「いつのまにそんな普及に熱心になったの?」、日頃(人見知りなのにp.212)イベントにかり出されつつ普及に努めている(p.109, 309)女流タイトル保持者としては、竜王なのにそんなにお呼びもかからず研究時間が確保できてる八一を羨ましく思いつつ、そんな気持ちを抱く自分を戒めていたかもしれない。あいへの対抗意識はさておき。

 もう一つ、「半分は事実」(p.76)としてもごまかしのために将棋を言い訳に用いたのは、銀子としては許せなかったのかもしれない。「将棋盤の前では」(p.83)。

 

 p.86 「ここまで感情を顕わにするのも珍しい」、銀子にとってそれほどまでにこの親密圏にあいが乱入してきたことが許せなかった、あるいはまた、あいが銀子の素の感情を向けられる相手になり得ることの示唆。

 

 p.87 「指を折ってカウント」、そういう所作は「よく見て」るのに肝心なところで朴念仁だよね八一くん。もっとも、指の動きは対局中でも相手の心中を察するために確認してるのかもしれない。姉弟子と学んできた「盤外戦術」の手がかり。

 

 p.88 「百折不撓」、木村一基九段の揮毫扇子だっけ。

 

 p.90 「姉弟子は気合いとか根性とか大好き」、重要な指摘。たぶん奨励会と女流棋戦を掛け持ちする決意の背後にも銀子自身のこれがある。「『空銀子を潰す会』」(p.193)などに立ち向かってきたという現実もある。というか重度の人見知りで家事も不得手な銀子には将棋しかないし、将棋で一緒に向き合ってきた八一しかいない。

 

 p.91 「二人で取り合っていたのだ」、最初のうちは銀子も本当に桂香を八一と「取り合っていた」のだろうが、いつの頃からか八一が「桂香さんをお嫁さんにしてあげる」と言うたびになぜ自分をお嫁さんにしないのかという嫉妬心で弟弟子を蹴ってたりしてなかったか。

 

 p.97 「プロ棋士女流棋士の違いもわかってない」、これ銀子からすると許しがたいよね。ただし、ここでの銀子はあいとまだ対局してない、つまり盤を挟んであいの本気を直に知る前の段階。

 

 p.101 「姉弟子の動機は『復讐』」、勝つまでは負けない根性の銀子の奨励会の戦績はいまいかほどだろうか。

 

 p.104 「効き手の側にだけ、皺が寄っていた」、これ後に八一が少女たちの恋愛方面での煩悶によるスカートの皺を将棋方面でのそれと誤解する展開? それとも「効き手」じゃない側に皺が寄る展開?

 

 p.106 「ソースで真っ黒」、銀子があい手製の金沢カレーを食べるときどうなるんだろう。

 

 p.107 銀子の女流棋界の情報だけなので、奨励会入会がいつなのかをあえて明記していない。

 

 p.117 「年下にはこれっぽっちも」、銀子は「姉」弟子であると同時に年下という絶妙なポジション。

 

 p.131 「貴族趣味」、佐藤天彦名人は貴族趣味だけどさすがにこうではない。

 

 p.133 「専用の空気清浄機」、窪田七段だろうか。

 

 p.135 「自分にとって」、有名な米長哲学。

 

 p.136以下 さすがに現在こんな会話は対局中やらないけど、昔の棋士はタイトル戦でも午前中などのんびり世間話していたそうで。

 

 p.141 「外へ食べに」、現在は禁止されちゃいましたね。

 

 p.152 「『神鍋? 強いよね』」、NHK杯トーナメントの対局前インタビューで佐藤紳哉七段が対局相手の豊島八段について語った迷台詞のパロディ。

 

 p.163 「俺の視線に気づく素振りすら見せず」、あいは盤面だけを見つめて八一の勝つ手順を探し続けてる。つまりあいはまだ盤外戦術を使える段階にないとも言えるし、八一の顔を見て応援するのではなくあくまで手順を探究するという将棋指しとしてのあいの素質を示しているとも言える。

 

 p.167 「(鵠)」、そうそう新聞の将棋欄にはこういう署名があるよね、と爆笑しました。

 

 p.172 「戦後のプロ公式戦で最長手数」、ついこないだの2月27日の竜王戦ランキング戦2組で牧野光則五段と中尾敏之五段が420手(持将棋)で記録更新しました。

 

 p.175 「いつも日が暮れるまで」、八一が銀子について語るとき、内弟子時代が長いから当然なんだけど、過去の回想が多い。それだけ二人の関係が深く八一に銀子が及ぼした影響が大きい一方、姉弟子の過去の姿にとらわれすぎて現在の銀子の変化を見逃しがちになる原因ともなっている。基本的に、八一は銀子と自分の関係を、これからもずっと変わらないものとして無自覚に信じている。しかし銀子は、棋士としても思春期の男女としても変わっていかざるをえない自分達に(揺れながら)向き合おうとする。この両者のずれが、すでに第1巻でも各所で描かれている。

 

 p.182 「終盤でひっくり返せば……」、この台詞を八一はどういうつもりで言ったの? 桂香のアドバイスに対するまぜっかえし程度のつもりか。さきほど記したように、八一は銀子との関係を弟子同士の確固たるものとして認識してるので、「女心」をそこまで深刻な・恋愛的なものとしては受け止めていなさそう。「姉弟子の事は俺が一番よくわかってる」(p.183)もそのへんの自信の表れであり、また将来の大きな過失をもたらすであろう錯覚。

 

 p.185 「本場の金沢カレー」、アニメ版で描かれた真っ黒なルーを見て、原作を読まない段階のぼくも「ゴーゴーカレー?」と呟きました。「麻薬でも」(p.192)は『庖丁人味平』のブラックカレーネタか。

 

 p.197 「かおってゅんだよー」、超かわいい。

 

 p.202 「師匠が横にいる事もあってか」、こういうのと同じような八一の誤解が銀子について大きな過失を生むはず。

 

 p.203 「澪ちゃんも綾乃ちゃんも楽しそうだね?」、日本将棋連盟モバイルCMの矢内女流五段「綾ちゃんも恵梨子ちゃんも楽しそうだね」より。タノシソウダネ。

 

 p.212 「根性鍛え直す」、銀子の焼き餅と対抗意識でもある。

 

 p.214 「USJに新しいアトラクションができたんだって」、銀子が八一を露骨に日曜デートに誘っている……! しかし八一は「リズムを取るために喋ってるだけ」と聞き流してしまっている。お互いの読みがまったく合わない。その理由は八一が「俺も姉弟子もそんな場所に行くくらいなら」と過去の自分達の傾向をもとに判断してるから。たしかに内弟子時代はそうだったかもしれないが、いまはなー。お前なー。もっとも、女流タイトル戦や奨励会や普及活動で大忙しのはずの姉弟子が「そんな」ことにかまけるはずもないだろう、と考えてしまうのは無理ないかもしれない。

 

 p.220 「全裸」、たしか王将戦でタイトル奪取した故米長九段が喜びのあまり全裸、弟子の先崎九段も命じられて一緒に裸踊り、みたいなエピソードがあったような。

 

 p.239 「絶対王者」、羽生竜王が20代の七冠独占前後の頃に将棋を「人間力」の勝負から純粋な論理ゲームへと解放した。もっとも羽生竜王の勝負術は以下略。

 

 p.243 「あの子にそんな面があったなんて……」、「強情な子」であることはたぶん両親とも分かっていた(明らかに母親似の性格だし)が、あくまでそれは家族の中だけのものと思っていたのかも。旅館のお客さん相手には、しつけられたとおり愛想良く振る舞ってきてたのだろうし。

 

(追記:p.244 「対局七つ道具」、窪田七段ですかね。)

 

p.254 「女性で奨励会入品」、里見香奈女流五冠(元奨励会三段)や西山朋佳奨励会三段、加藤桃子女王(現奨励会初段)と、ほんと増えましたよね。

 

(追記:p.266 「だから親しい友人も恋人も必要ない。」、そう思ってる八一こそが銀子にとっての、な? お前、な?)

 

(追記:どこかで「と断言」というフレーズを目にした覚えがあるけど見つからない。対局ネット中継の検討室コメントで「行方八段は誰々勝勢と断言」したのにそのあと逆転してしまったことに由来するネットジャーゴン。)

 

 とりあえず以上です。

『りゅうおうのおしごと!』第1巻感想

 白鳥士郎りゅうおうのおしごと!』(GA文庫)第1巻の感想です。以下ネタバレ。

 

 こないだアニメ版が終了した本作品ですが、ぼくは全話録画しておきながらも加齢による気力減退によりいっこうに再生せずにいました。それがつい先日、容量が限界に近づいてるので少し消化するかな、と重い腰を上げて第1話を視聴したところ、あいの入浴シーンが流れて何故みんなもっと早く教えてくれなかったんだ(いつものパターン)。するとネットご近所から原作をまず読んでみてはとのご助言をいただき、翌日には本屋の平棚に第1巻と第2巻が1冊ずつだけ残ってたのを購入。アニメ版視聴もいったん第2話までで止めて、そこに対応する原作第1巻を読むことにしました。
 もっとも、アニメ版第1話でひっかかったのはそういうシーンだけでなく、冒頭の竜王戦終局直前の場面であいが八一に水を飲ませてあげてるとき、コップを持っていない方の手でハンカチを八一の顎の下に添えてますでしょ。あとで原作を確認したらハンカチについての叙述はないのでアニメ版独自の描写なんですが、水差しではなくコップなので飲ませづらいため水が和服にこぼれないようにハンカチを添えるというこの細やかな心遣いが、少女の人となりを、あるいは(これもぼくは後に知ることですが)老舗の旅館の一人娘として教育されてきた過去の蓄積を、この一描写だけで伝えてくれたのですね。こういうこと丁寧に表現する作品は、わりと信頼できる。そういう勘が働いたことも後押しとなりました。

 

 さて原作第1巻。
 ぼくはほぼ四半世紀にわたって『将棋世界』を購読している、しかし自分で将棋を指すことはめったにないという、いわゆる“観る将”の典型です。棋力はないに等しいのですが、棋士女流棋士の戦いぶり、それにまつわるエピソード、勝負師としての生き様などにずっと惹かれてきています。将棋関係の書籍もたまに買いますし、NHK杯もネット中継も観戦してます。

 そういう人間がこの第1巻を読めば、各所にちりばめられた将棋界ネタにそりゃもうくすぐられるわけですよ。プロローグはさておき、敗れて放尿(米長永世棋聖の奇行)、カップ麺の味(橋本八段がA級昇級したときのツイッターポスト)、空気清浄機(窪田七段の儀式)など、将棋ファンが知る様々なエピソード。将棋盤の裏側の「血溜まり」(アニメ版で銀子が盤を裏返せと命令した瞬間に気づいて爆笑しました)。そういうくすぐりを入れながら、将棋界や棋士将棋会館などの説明と描写。タイトルを奪取することの、奪取してからのとてつもない重圧。自分には消化試合だが相手にとっては大切な対局こそ全力を尽くせという米長哲学。『将棋図巧』を解くということのとてつもない凄さ。といった現実の棋界に即した情報が、作品世界を裏付けていきます。

 

 その裏付けの最も根底にある、最も重たいものが、奨励会と研修会の描写。プロの棋士女流棋士になるための狭き門。
 年齢差のある教育的バディものってわりと好物なんですが、一方の主人公の八一はすでにプロの棋士であり、竜王という最高タイトルを手にしており、物語の開始時点で相当苦悩しているものの、棋士の中ではこの若さで棋史に名を刻んでいるトップ中のトップです。自身では無知ゆえの一発と謙遜してますが、勢いで一発入れられるだけでもう図抜けてる。名人位が実力制になって以来、将棋タイトルを獲得できた棋士は40人に満たないんですよ。これを多いとみる人もいるかもですが、大多数の棋士はタイトルに挑戦するまでに至らず、挑戦してもあと1勝が届かない。とくにこの20年ばかりは羽生世代の分厚い壁に阻まれて、上の世代も下の世代もずいぶん割を食ってきました。もっとも羽生世代の棋士達も羽生永世七冠のおかげで以下略。タイトル以外の棋戦優勝だって大変なことです。そういう世界でタイトルを、しかも竜王を、しかも中学生で棋士になった者が獲得したというのは、藤井六段以前の中学生棋士がみな名人か竜王になっていることもあり、さらなる将来が約束されたも同然なのです。
 だけど、そういう周囲の評価はともかく、八一自身はどん底にいる。それはもう作中でこれでもかと述べられているとおりで、その辛さをぼくも否定するものではありません。そして、その闇から抜け出せずにいる中で、あいが自分の言葉をきっかけに勇気をもって来てくれたことが、そしてひたむきに将棋に打ち込むその姿、師匠の勝利を信じて読みに没頭するその姿が、彼を立ち直らせていくこともまた素晴らしいことであり、読みながらおじさん泣いちゃった。
 ただ、やっぱり八一はそれよりも前に、深い闇のトンネルをくぐり抜けてきているのです。本人に自覚がないのか第1巻ではまだ不明ですが。おそらく彼は、奨励会を、三段リーグをすんなりと突破してきている。四段に昇段してプロの棋士となるための、半年に2人しか突破できない狭き門を、中学生のうちにまたぎ越している。それは現実の棋界でも、加藤・谷川・羽生・渡辺・藤井というわずか5名のとんでもない棋士達だけが成し得たことです(追記・最初は中原十六世名人も含めてましたが勘違いでした)。多くの棋士達が、これまで一番嬉しかったことは四段になれた時だったと答えています。三段リーグには絶対に戻りたくないと語る者もいます。素晴らしい才能がありながら、たった1勝の差でそこから抜け出せずに年齢制限で退会する若者が、毎年何人もいます。その残酷さはp.259に記されたとおりなのです、が、ここの描写にご注目ください。完全に叙述トリックですので。

 

 p.259の3行目の地の文章は、八一の独白です。「姉弟子」という表現からそれと分かります。そのまま6行目まで、この八一視点の叙述は続いています。
 しかし、奨励会員の台詞をはさんだ8行目、「観戦する奨励会員の囁きが聞こえた。」の一文は、じつは八一視点ではない第三者視点の可能性があります。少なくとも、ここでは「姉弟子」など彼固有の表現が用いられていませんよね。
 そこから続く9行目以降、このページ末尾までの叙述にも、八一自身の言葉と分かる箇所はひとつもありません。つまりこの9行目以降は、作者が棋界の常識として説明している文章なんです。
 ところが、ページをめくってp.260を見て下さい。銀子の無言の台詞を置いた直後の2行目です。ほら、「姉弟子」という文字が復活してるでしょ。
 この部分が、第1巻の肝です。
 p.259をするっと読むと、過酷な奨励会で自らも苦しんだ八一が、その過去を振り返りながら独白しているかのように理解できます。しかし、そうじゃないのです。「姉弟子」という文字を含まない9行目から最終行までは、作者による説明にすぎません。つまり、八一は、奨励会で苦労した記憶がないのです。そのことは、この観戦中であるp.267にはっきり彼の独白として表現されています。「正直、奨励会に入ったとき温いとさえ感じた。」そして事実、八一は「温い」奨励会を難なく突破し、中学生にして棋士となり、その実力どおりに若くしてタイトルを奪取したのです。(追記:p.259の後ろから3-2行目には「十年以上一緒に研鑽してきた」とありますが、p.9によると八一は6年で奨励会を駆け抜けてますね。これも根拠のひとつになります。)

 

 だから、この奨励会についての叙述は、八一に関わるものではありません。では誰にか。いま懸命に戦っているあいのためか。もちろん違います。それは、あいの対戦相手である銀子のためのものです。
 銀子についての描写を最初から確認していけば、まず彼女は八一を同じ内弟子として家族の一員のように思っていますし、おそらく最近になってからでしょうが一人の異性として意識しはじめています。それは、人見知りな彼女にとって甘えられる弟分であることから始まり、しだいに「嫌われた」くない存在として意識されてきているのでしょう(p.75)。それゆえに、八一にべたべたするあいの存在を疎ましく思い、苛立ちもするわけです。
 でも、そこにはさらに、将棋のプロを目指すものとしての屈折があります。かつて同じ尊敬する師匠のもとで内弟子を経験し、幼少期を一緒に生活してきた銀子と八一。しかし、いま奨励会を突破してプロとなっているのは八一だけです。姉弟子の銀子は、まだ二段(p.253)。三段リーグにさえ参加できていない。たとえ女流棋戦でタイトル2つを獲得していようとも、女流棋士に一度も敗れていないのだとしても、同じ釜の飯を食ったはずの姉弟の差は、途方もなく開いてしまっています。五万局もの戦いを重ね、「もう一人の俺」(p.267)とまで八一が認めるにもかかわらず、銀子はいつの間にか八一のずっと後方にいるのです。もはや、弟の背中も見えないくらいに。
 それでも銀子は、自分の精一杯の努力を続けてきました。女流棋戦に参加することは、自分の棋譜奨励会のライバル達に知られてしまうというリスクを伴います。でも銀子はあえて参加し、実績を出しています。ただし女流タイトル初獲得は2013年度(p.107)。八一の四段昇段は2015年度(p.9)。このとき銀子が奨励会のみに集中せず女流棋戦に参加したことを後悔した可能性はあるかもしれません。いや、そういう後悔を絶対に自分に許さない子という印象はありますけれど。そうやって胸を張って気弱さを封じ込めて生きているからこそ、ほかならぬ弟弟子には甘え放題ですよね。というか、八一だけにしかそんな面を一部たりとも曝け出せない。だけど/だからこそ、八一には、自分の将棋指しとしての弱さを見せてはならない。

 

「おしっこ漏らすくらい、将棋負けるのに比べたら何でもないでしょ?」
「だって将棋ってのは命のやり取りでしょ? 殺し合いでしょ? 殺し合いの最中におしっこが漏れるとか漏れないとか気にする余裕なんてある方がおかしいし」(p.23)

 

 この一連の台詞に八一は半分ヒきながら敬意を新たにしていますが、この銀子の台詞が奨励会二段でもがく彼女の本心とすれば、どうでしょうか。おしっこ漏らして四段になれるのなら喜んで失禁する、という段階すら通り越して、銀子はただひたすらに棋士になるため勝ちたいのです。
 だから八一とVSもする。それは内弟子時代からの習慣であるとともに、自分よりも先に行ってしまった八一から教わる貴重な機会でもあり、また遠く離れていきそうな八一を引き寄せる唯一の手段でもあります。不器用な彼女は、盤を挟んでしか八一と素のまま向き合えないのですから。盤を挟んでしか、VSを通じてでしか「棋は対話」を通じた全面受容関係の維持確認ができないのですから。そしてそこからはみ出てしまう想いや言い訳が、手料理という試みに具体化され、八一は鈍ちんなのでもうまったくもう。
 銀子にしてみれば、可愛い弟分がいつの間にか猛スピードで遠い先へ行ってしまい、自分だけ取り残された気分です。それを払拭するには、将棋の実力で追いすがるしかない。もしも銀子がそのことを諦めたのなら、奨励会を退会してたでしょう。でもそうじゃない。銀子は決して諦めない。諦めてしまったら、それはあの内弟子の日々を、八一と分かち合った日々を否定することにもなるからです。
 そして八一も、銀子のことを心底信じています。そのうち奨励会を突破して四段になるのだと、おそらく確信してる。そうでなければ、研修会の話などを姉弟子にするときにもう少し屈託があるはず。いや、もしかするとそこでの疑念を無自覚に封じ込めてるだけかもしれないけど、いずれにしても「史上最強」の姉弟子への信頼感は、女流タイトルや全勝という客観的事実だけでなく、銀子とのあの「五万局」の日々に裏打ちされています。姉弟子まだ中学生だし。俺と同じ年齢までに四段になるでしょ当然。みたいな感じかもしれません。だから先ほどの奨励会についての叙述でも、八一は奨励会員としての銀子について一言も語りません。語る必要ないから。それほどお互いを認め合えばこそ、なのです。銀子だってそれに一日でも早く応えたい。

 

 ああ、なのに。それなのに八一は、どこぞの小童を下宿に引き入れ、あまつさえ弟子として受け入れてしまうとは……。
 もうこれについては言葉を費やす必要はないでしょう。銀子にとってあいは二重三重に敵対すべき相手です。と同時に、将棋という同じ夢を見てしまった者同士の共感も抱いています。連帯感をもちながらお互いを蹴落とすという奨励会員のありようがここに見出せるわけですが、まだ銀子とあいは同じ土俵にはいません。あいは研修会、つまり女流棋士になる方の道をいまは選ぼうとしています。それはたしかに、勝ち上がることで銀子の持つタイトルに挑むことになりはするのですが、真の対決は銀子の本筋で行われるのではないでしょうか。それは、あいが八一の後を追いかけて奨励会に入り、女流棋士ではなく棋士を目指そうとすることで、現実のものとなります。そしてこの対決は、半年にたった2人だけの四段昇段をめぐる、八一と向かい合うたった1つだけの場所をめぐる、壮絶な戦いとなるはずです。
 とはいえ、そんな先の想像をめぐらすのはだいぶ手順前後な気もします。最初にスルーしたプロローグをもう一度読んでみましょう。完全ギャグなやりとりですが、あいは(八一との初対局以来そうですが)八一の表情を読みながら自分の指し手を考えてはいません。あくまでも盤面没我、局面だけに意識を集中してひたすら読み耽り、論理ゲームとしての将棋に専念しています。ということは、八一が歩夢戦で解説していたような盤外戦術を自分でも使ってみるまでにはまだ至らないということです(あの表面的えっち台詞もそういう技術とは無関係でしょう)。盤を挟んでも八一の顔を見ることはない。銀子との差はおそらくそこにもあるでしょう。そしてやがて手を読み、顔を読み、心を読み始めるとき、あいは自分自身の心をも読み始めねばならないでしょう。そのとき銀子はどうするのか。どうなってるのか。今後の展開を、観る将として固唾をのんで見守りたいと思います。

べびプリ麗考察を9年近くぶりに公開しました

 昨24日の『Baby Princess』(べびプリ)10周年記念には間に合わなかったのですが。九女の麗に焦点を当てた考察「間に合わない妹、間に合う長男 ~きょうだい関係にみるべびプリの可能性~」を公開しました。

 このテキストは最近書き上げたものではなく、クインテッサさんと26さんのサークル緋燕白昼夢企画による2009年2月11日刊行の同人誌『うらプリ』に寄稿させていただいたものを、およそ9年近く経ったいま自サイトへの転載許可を得て公開するものです。

 『うらプリ』はその名のとおり麗メインの合同誌で中身がものすごく濃く、参加メンバー発表時にはその面子のすさまじさに当時のぼくはおののきつつも気合いを入れ直して執筆した覚えがあります。過去日記ではこのあたりに記されてますね、いやーほんと楽しく熱い冬でした……。声をかけていただけただけでも嬉しかったし……。

 こんな素晴らしい企画の末席に連ねていただき、クインテッサさん・26さんにはあらためて感謝申し上げますとともに、サークルのますますのご発展をお祈りいたします。なお冬コミC93では金曜東ヨ34bにて新刊ご予定とのことです、詳細は26さんのこちらのついーとをご覧下さい。

アニメ版シスプリ再放送で初心に帰る

 昨年末から今年の秋にかけて、『アニメ シスター・プリンセス』と『アニメ シスター・プリンセスRe Pure』が再放送されていまして。その期間ぼくは、これも昨年発売された両作品Blue-Rayソフトを放送時間にあわせて再生し、Twitterで視聴実況しておりました。いやー面白かった。シスプリ大好き。

 第1作(いわゆるアニプリ)の本放送といえば2001年の上半期、今から16年も前のことです。あの頃を知る方々、あの頃にファンサイトを開かれていた方々の実況感想も、拝見させていただきつつ。ぼくは当時のことを懐かしく思い出しながらも、しかしいくぶんかの屈託を抱きました。

 

 そもそもあの第1作の本放送、ぼくの当時の住居環境では直接視聴できなかったのです。友人に録画してもらったビデオテープで飛び飛びに観てはいましたが、DVDを購入して全話を視聴できたのは翌2002年の夏。つまり考察を書き始めたあとで、ぼくはアニプリをちゃんと知ったというわけです。リピュアも同じくテレビ視聴できなかったため、やはりビデオテープを送ってもらって週遅れでの鑑賞(いやほんと世話してもらってありがとう>某氏)。

 なので、これまでずっとぼくは、間に合っていないファンという意識を持ち続けてきました。シスプリにはまったのもアニメ版からなのでずいぶん遅れて参入したわけですが、それに加えてアニメ版についても、本放送を同じ時間に鑑賞しサイトや掲示板などで感想を伝え合うなどといった場の共有を、得られないままに来たのです。

 ところが今回の再放送では、ソフト同時再生によって疑似的にではありますが、他のファンの方々と同時に鑑賞することができました。Twitterを通じて同時に感想を述べ合うことができました。あのときできなかったことをこうして体験できたというのは、何というか、青春の忘れ物がいま届いたような気分でした。

 

 しかし反面この体験は、あの頃と自分がどれほど離れているかについても気づかされるものでした。まぁ加齢の影響はもちろんなんですが、作品鑑賞の点で。

 さっき記した遅参ファンという意識ですが、そう自覚する当時のぼくは先達の方々に敬意と気後れを抱いてきましたし、逆に新参者ならではの怖いもの知らずというか開き直りで、いろいろ思い付きのままに行動できたとも言えます。ぼくの一連のアニメ版シスプリ考察も、そういう勢いなしには完成しなかったでしょう。

 それらの考察を書くにあたって、ぼくはアニプリとリピュアの各話を何度も繰り返し視聴しながら、そこに込められているはずの意味をくまなく見出そうと努めました。それは、遅れて来たがゆえに先行解釈とは異なる独自のアニメ版シスプリ像を形作らなければならないというような、差異化ゲームとしての切迫感とは無縁だったと思います。ぼくの解釈は最初から珍奇な少数派でしたので、差異化を図るまでもなかったし。それよりも、自分が大好きな作品を自分の視点で丹念に見つめ続けていくうちに、様々な描写をたえず新たな意味をもつものとして再発見し、作品全体をもっと素晴らしいものとして把握でき、そうして自分の作品愛がいっそう深まっていく……そういう過程を毎回楽しんでいたように感じます。

 だから、あの頃アニメ版の各話を視聴することは、そのつど何かに気づくことでした。この作品にはまだまだ隠された何かがある。それらを見つければ、この兄妹たちをもっともっと好きになれるはず。そういう高揚した飢えのような好奇心が、当時のぼくを突き動かしていたのでしょう。プラトンの『饗宴』でも、ソクラテスが「愛」をそんなものとして論じていたように思います。

 

 ところが今回視聴実況したとき、ぼくはあの頃と同じ姿勢をとったつもりで画面に向かったつもりだったにもかかわらず、ぼくの実況に繰り返し登場していたのは、過去に自分が書いた考察の引用でした。作品を鑑賞しながらぼくの脳裏には、当時のぼくがたどり着いた解釈がたえず浮かび上がっていたのです。あるいは、考察での解釈というフィルター越しにしか作品を観ることができなくなっていた、と言いますか。

 もちろん、あれだけ真剣に積み重ねた考察がぼくのその後のアニメ鑑賞姿勢をおおよそ定めてもいますから、その内容を一切忘れて作品に向き合うことは不可能です。自分の考察内容をだいぶ忘れてるので読み返すと、よくこんな解釈思いつくなーと呆れつつ感心することもありましたし。しかしそれでも、ぼくが今回鑑賞したのは作品そのものではなく自分自身の作品解釈だったのではないか、という問いは、ここに留めておこうと思います。

 まぁ実際のところ、この機会に過去の考察をみなさんに読み返してもらいたいというスケベ根性があったことも、非常によろしくないわけでして。以前にも同じ罠にはまりましたが、こういうときに大切なのは、作品に誠実に向き合うこと。謙虚な挑戦者として作品に臨むこと。過去の考察時に気づけなかったことを、今回の視聴時にふと発見できたりもしましたから、またしばらく経って再鑑賞すればきっと新しい何かに出会えるはず。そうやって作品はぼくの前に、いつも・いつまでも開かれているのだと信じます。

ガルパン最終章第1話感想

 ようやく第1話を映画館で観てこれました。以下ネタバレ感想です。

 

 まず、45分にあれだけの新キャラを盛り込んで全員きっちり印象づけるあたり、さすがだと思いました。短い放映時間ながらじつに濃厚で、しかしだからこそもう少し長めの映画として鑑賞したかったというか。これ6話続けるんでしたっけ……? 今回なかなか暇がとれず、もう観に行けないかとあきらめかけてたほどなので、続編をこまめに追っかけていけるか心配でなりません。

 とはいえ、ぼくが相当に浮き足立ってわくわくしてることも事実です。これは。ずっと観たかったものが、最終章を通じてついに観られるのではないか。

 

 さて第1話の中身について。

 BC自由学園の戦力にびっくり。ええーARL44って……。ヴィシーと自由フランスの混成ということからM4シャーマンは装備してそうと予想してましたが、こうきたか。まぁ貴族やブルジョワのお嬢様が中高一貫で学んでるらしいので、財政的には恵まれているのでしょう。

 隊長・副隊長は明らかに美しく咲いている方々のアレですが、フランス革命ネタを用いて優香里の偵察行動を逆利用するという策略はお見事でした。カウンターインテリジェンスというんでしょうか、全国大会の対サンダース戦でみほが試合中に臨機応変に行った欺瞞情報発信を計画的に行ってるわけですね。これによる一気呵成な勝利が得られなかったため、次の手をどう用意しているかが楽しみです。

 相手の作戦に今回もみほはその場のアイディアで対応しましたけど、まさか追加戦車がMk.Ⅳだとは思いませんでした。でかいわりに装甲が薄すぎるのでは。ただ、新たなメンバーたちが海賊モチーフであり、この世界初の実用戦車シリーズでランドシップと呼ばれていたものもあったような記憶もあるのでそのへんも被せてたんですかね。塹壕を越えるための全長や形状をうまく用いての脱出劇、大会決勝戦のようにヘッツァーが犠牲になるなどせずに安心しました。

 この搭乗員であるサメさんチーム、あれだけの集中砲撃を浴びながら隊長をはじめ車外にためらいなく飛び降りてますよね。最初の登場場面で示した度胸が見せかけのものでないことや、それだけ桃への報恩の念が強いことなどを伺わせています。

 

 そう、今回の戦いの目的は、桃を立派に進学させること。

 いろいろいじられやすい彼女ですし、本人にもその原因が間違いなくあるのですが、しかし彼女が生徒会の一員として、学園生徒の一人として、大洗女子学園の存続のため全身全霊で頑張ってきたことは疑いようもありません。ウサギさんチームの1年生たちが劇場版冒頭のエキジビジョン試合で応援していたように、なんだかんだで尊敬され愛されてる先輩だと思います。

 その先輩が受験で失敗しそうというニュースを聞いて、すわ、と立ち上がる隊員一同。学園存亡とはレベルが異なりながら、これはこれでけっこう重大です。無理せず浪人すればいいんじゃないの、とも思いますけど、自分達の学園を守ってくれた、そしてこの戦車道チームという素晴らしい居場所を作ってくれた先輩の一人に、みんなの感謝の心をこめた恩返しをしたい。それは共に学び生活する者同士の誠意であり、先輩のおかげで後輩達が成長できた姿を示すことでもあります。

 はい、ぼくがわくわくしてる理由はもうお分かりですね。後継者育成。ぼくが聖グロ考察に始まる一連のテキストで扱ってきた主題が、このたび前面に描かれる気配が強いのです。しかもしかも、海外留学するまほに黒森峰チームを託されたエリカの不安な横顔が登場したことで、大洗女子だけを対象とするものでないことが分かります。やった……とうとうエリカの戦いが描かれる……。劇場版での不満を解消するときが来る……。

 もうね、ほんと嬉しい予感に小躍りしてるんですよ。しかも桃がどう成長するか(あるいは彼女の毅然たる本領を発揮するか)まで期待できそうですし。そして第6話で、またはディスクおまけ映像で、他校チーム3年生の卒業場面などが描かれた日にはあなた。ねえ。どうしますか。

 

 まぁ、勝手に期待して勝手に裏切られる可能性もあるわけですが。今はとにかく楽しみにしております。

自戒として

  昨年秋からしばらく、将棋棋士が将棋ソフトを用いた不正行為を行っているのではないかという疑惑が、さまざまに取沙汰されました。これについては日本将棋連盟公式サイトにも第三者調査委員会の調査報告書(概要版pdf)が掲載されているとおり、疑うに足る根拠はひとつもないという検証結果がすでに示されており、これを受けて今回の処分で三浦九段が受けた損害をどう補償するのかをはじめとして、あまりにも多くの課題がなお残されたままとなっています。

 その中にはもちろん、日本将棋連盟とその執行部が拙速な処分を行ったことへの責任追及・原因究明が含まれます。人によっては、問題化のきっかけを作った久保九段・渡辺竜王らに何らかの責任を問いたいという向きもあるでしょう。また、メディアの問題についてはぼくも、この問題を煽った週刊誌などのマスコミ(今後それらの出版社の発行物は一切購入しないつもりです)やその情報に半ば依拠して煽ったまとめサイトなどのネットマスコミ(今後それらのサイトは一切閲覧しないつもりです)へ思うところがあります。

 しかし、この日記でぼくが記そうとするのは、そのような他者への批判や糾弾ではなく、ぼく自身がこの問題をめぐって反省すべきことについてです。ぼくは指さない将棋ファン(いわゆる「観る将」)の一人であり、連盟発行の月刊誌『将棋世界』やNHK将棋番組を長らく楽しんでいるもののそれ以上の積極的な行動を一切とってきていません。そういう後ろ向きファンでも今回の騒動にはだいぶ慌ててしまったのですが、その慌てぶりをいま振り返ってみると、自分の判断・憶測のしかたにずいぶん危ない面があることに気づかされました。その危うさについて記すことで、三浦九段へのお詫び、将棋ファンとしての反省とともに、似たような状況下で同じ過ちを犯さないための備忘録を、ここに留めたいと思います。

 

 その危うい判断・憶測とは、今回疑惑対象とされた三浦九段と、疑惑提唱者の一人とされる渡辺竜王に対するものです。疑惑についての報道を目にしたとき、ぼくは反射的に2つの思いを抱きました。「え、まさかそんな」と「あるいは、もしかして」です。しょせんは週刊誌の報道ですから、過去の経験からしてすぐに信じるべき理由はない。しかし、ほかならぬ渡辺竜王による指摘が発端であるのであれば、逆に無視することも難しい。しかししかし、三浦九段が……? ここでぼくの中に宙ぶらりんな判断状態が生まれました。そして、どちらの側にも決定的な一押しがない段階で、ぼくはそれぞれの側の正しさを納得しやすくするための物語を、頭の中で編み始めたのです。

 ここでその具体的内容を述べることはしません。その記述自体がお二方への誹謗中傷にほかならないからです。ともかくぼくは両者の背景事情を妄想し、自分の知る範囲での情報(その真偽を問わず)をもとに理屈づけ、自分が納得できそうな物語をこしらえていきました。そして、これらのわかりやすい物語が一度できあがってしまうと、以後の追加情報を解釈するさいに必ずそのフィルターにかけてしまうという癖がつきました。それでもその妄想内容や騒動についての臆見を記すことだけはさすがに控えてきましたが、しかし頭の中ではそのつどの結論がぐるぐる渦を巻いてもいました。

 ぼくの妄想が結果的に合ってるか間違ってるかは、ここでは問題になりません。そもそも妄想である時点で無意味な内容ですから。ただ、ぼくがそういうことを考え始めてしまったという事実、ぼくがもっと冷静に判断できるときまで踏みとどまれずに自分の納得を優先させてしまったという事実、そういう弱さを自分が持っているという事実は、ここで何度でも強調しておきたいと思います。このことを忘れてしまうとき、ぼくは再び誰かの尊厳を自分の中で無自覚に踏みつけてしまうでしょうし、そんな自分のふるまいの責任を身勝手に当事者になすりつけてしまうでしょう。そういうわけで、自分にとってたいへん恥ずかしいことですが、お詫びと反省を込めて、ここに刻んでおくことにします。義憤にかられる気がしたときにこの文章を読み返すこと>自分。

劇場版ガルパンのペパロニが「姐さん」と呼ばないわけを想像してみるの巻

 ガルパン考察のうちアンツィオ編については、読者の方々から「ペパロニのとこで泣いてしまう」という感想をよく頂戴します。お読みくださりありがとうございます、ぜひあのOVAを再視聴のうえペパロニの「アンチョビ姐さん、あぁうちの隊長なんだけどもう喜んじゃって」と語る満面の笑顔を見たとたん目頭を熱くしていただければと思います。後半の試合場面ならともかく、こんな何気ないとこに意味を感じてしまうようになるのが、ぼくの考察の効力です(邪悪な笑み)。

 

 さて、そのような感想をついったーで呟かれていた金曜日さんと久遠さんのお二方が、劇場版のペパロニがアンチョビを「姐さん」ではなく「ドゥーチェ」と呼び続けている、と指摘されてました。(お二方のご許可をいただきましたので、お名前を追記しました。ありがとうございます。)なるほど、たしかにそのような。ぼくの考察ではペパロニによるこの呼称の使い分けが重要な鍵となってましたので、もしもぼくの考察をもとに劇場版について考えてくださったのであれば、これはほんと嬉しくありがたいことです。そしてまた、ぼくがこの日記で述べた考察の基礎づくり「数えよう」の実例がここにあります。(ぼくも確認してみたところ該当箇所は「ドゥーチェ、まじっすか?」「ドゥーチェ、前!?」の2回、姐さん呼ばわりは0回でした。)

 さらにその方々のやりとりでは、なぜ劇中のペパロニが「ドゥーチェ」呼びで通したかについて話し合われてました。これは考察のもうひとつの基礎づくり「ぶつけよう」の実例となります。OVA版のペパロニの振る舞いと劇場版のそれとが相容れないように見えることから、その理由を探そうという営みです。

 ではどのような理由が考えられるのか。そこで提唱されていたのは、劇場版で初めてガルパンを知る観客のために監督が配慮したのではないか、という製作者側の論理でした。つまり「姐さん」と聞くとアンチョビがペパロニの実姉かと勘違いされかねないので、その誤解を避けるためというわけです。これはこれでぼくもなるほどと思った説明です。劇場版の冒頭にはあの解説映像が流されていたという状況証拠もありますから、分かりやすさのための配慮という可能性は十分に考えられます。

 しかし、ぼくの考察はそのような作品外論理ではなく、できるだけ作品内描写に即して筋道を見出していくというのが売りです。なので、(いつ書き上がるか分からない劇場版考察に先立って)今回は感謝の気持ちとともにこの問題をとりあげ、ペパロニがアンチョビを「姐さん」と呼ばなかった理由について作品内論理に基づいて検討してみましょう。つまり、「ぶつけよう」から具体的考察へ至る過程の実践例です。

 

 問題をあらためて確認すると、これは同一人物(ペパロニ)における行動原理・表現形式(アンチョビへの呼称)の不一致です。この種の問題を扱うさい、ぼくがまず用いる視点は、「同一人物における描写の不一致は、その人物(あるいは重要な他者との関係)の変化を暗示する」というものです。ぼくも皆さんも、同じ性格や信念や能力や生活習慣などを一生保持するわけではないでしょう。同一人格でありながら、時とともに成長したり退化したり好みが変わったり傷がふさがったりするはずです。それと同じようにペパロニというアニメキャラも、アンチョビを「姐さん」呼ばわりしないということはそこに彼女なりの変化がある。何らかの考えが、感情が、想いがある。それは何なのか、なぜなのかをペパロニの内側から想像していくというのが、ぼくの毎度のやり口です。

 さあ、それでは仮説を2つ挙げてみましょう。それぞれ異なる理由から説明を試みますが、両立できないものではありません。(さらに、金曜日さん・久遠さんご提示の誤解回避という作品外論理とも矛盾しません。)

 

 

A.ペパロニが「姐さん」呼ばわりを遠慮した説

 

 これは、製作者側の配慮としてではなくペパロニ自身の配慮として、試合中に「姐さん」と呼ばないようにしていた、という仮説です。しかし一体どうして、何のために。言うまでもなく、「姐さん」を「姉さん」と聞きとってしまう人のためにです。それはもちろんガルパン初視聴の観客ではありません。ペパロニたちがまさにこの試合で関わる大切な仲間である、西住姉妹です。カルロ・ベローチェの車内からペパロニの声が他の車輌へ届くかどうかは分かりませんが、おそらくペパロニは車内だろうと車外だろうと「姐さん」呼ばわりを自覚的に抑えていました。

 先の大会終了後、あるいはこの大学選抜チームとの試合に参加する直前に、ペパロニたちはみほが大洗女子に転校したいきさつを知る機会があったかどうか。たぶんなさそうですので、西住姉妹のあれこれについてペパロニが考えることはなかったでしょう。しかし、廃校後は妹が黒森峰に戻ってくるかもしれないのにあえて大洗女子を存続させるために力を貸すまほの姿を見て、何か感じるものがあったのではないでしょうか。

 また、まほ参戦にみほは思わず「お姉ちゃん」と声をあげ感謝していましたが、作戦会議の席ではそう呼びかけた途中ですぐに「西住まほ」と言い直していました(ただしその場面にペパロニはいません)。家族は家族、部隊は部隊。私的情念をぐっと抑えて集団の目的に尽くすという姿勢が、この西住流の姉妹にあります。アンツィオの校風はこれと真逆なのですけど、抑制された振る舞いの中で通じ合う姉妹の姿が、ペパロニたちの日頃のあからさまな親密さとはまた違った深い信頼のありかを周囲に伝えたことでしょう。

 そこでペパロニは西住姉妹に配慮して「姉さん」と聞こえる「姐さん」呼ばわりを慎み、試合に勝って再びみほが素直な笑顔で「お姉ちゃん」とまほに言えるようになるまで我慢していた、というのがこの仮説です。つまり劇場版でペパロニが「ドゥーチェ」と呼び続けていたのは、アンチョビ姐さんに対する自らの情念の抑制と、西住姉妹の心意気に応えようする激しい情念の噴出とが、表裏一体となって現れたものだったのです。

 

 

B.ペパロニが「ドゥーチェ」呼ばわりを貫いた説

 

 これは、製作者の配慮とも西住姉妹への配慮とも関係なく、ただひたすらペパロニがアンチョビを「ドゥーチェ」と呼びたかったのでそうした、という仮説です。もちろん日頃は以前と同じように「姐さん」呼ばわりしてるのかもしれませんが、この試合では違う。断然「ドゥーチェ」でなければならない。

 理由は言うまでもなく、そう遠くない未来にアンチョビが「ドゥーチェ」でなくなるからです。3年生のアンチョビは7ヶ月後に卒業し、それまでに戦車道の隊長の座を後進に譲ります。秋冬にも公式試合・練習試合はあるのでしょうが、最も大きな行事である全国大会が終わった以上、これから先アンチョビがペパロニたちを率いる機会はそれほど多くありません。むしろ来年度を見据えてペパロニやカルパッチョが指揮する試合が増えていくことでしょう。

 アンチョビがいつまでも一緒にいてくれるわけではない。気づきたくないことに気づいてしまったペパロニは、せめてこの大好きな先輩を「ドゥーチェ」と呼べるときには目一杯そう呼ぼうと決めたのではないでしょうか。「姐さん」と呼べる日も限られてるけど、こちらはまだ学園生活のなかでいくらでも機会がある。でも「ドゥーチェ」と呼べるのは戦車道の練習や試合の時間だけ。たとえこの称号が代々の隊長に受け継がれていくのだとしても、自分にとっての「ドゥーチェ」はこの先輩だけだから。

 そして彼女が試合中に「ドゥーチェ」という呼び方を使うとき、それはつい「姐さん」と言ってしまいがちな自分の癖を意図的に正していかねばならないということでもあります。考察3(2)で述べたとおり、これによってペパロニは自らを副隊長の自覚のもとに抑制するわけですが、それは同時に、衝動のまま暴走せずできるだけ冷静沈着な操縦に努めることで、このメンバーで参加できた試合にできるだけ長くとどまり続けることを目指していました。CVに三人乗りというこれっきりかもしれない貴重な機会をできるだけ長く楽しみ、できるだけ「ドゥーチェ」と呼べるように。

 つまりこの仮説によれば、劇場版でペパロニが「ドゥーチェ」と呼び続けていたのは、アンチョビ隊長に対する自らの敬愛の情の噴出と、この3人で参加できた試合からできるだけ脱落しないように努める自己抑制とが、表裏一体となって現れたものだったのです。

 

 

 以上2つの仮説、いかがでしたか。ぼく自身の判断ではBのほうが説得的ですが、AB相容れないわけではないので両方かもしれないなー、などとも思いますし、いずれにしてもペパロニのことが、そしてペパロニが好きなアンチョビたちのことが、もっと好きになりました。きっかけを与えてくださいましたお二方に、あらためて感謝申し上げます。