『モディリアーニにお願い』感想

 購入して読んだのは昨年ですが、相澤いくえ『モディリアーニにお願い』(小学館 ビッグコミックス 現在2巻まで)がとてもよかったので感想。以下、長文ネタバレです。

 

 漫画家と編集者のあれこれがネットで何度目かの話題となっていたとき、その流れで作者ご本人のツイッターでの呟きや4コマ漫画を偶然拝見しまして。当時の担当編集者キリンさんたちとのやりとりがなんとも微笑ましく、しばらく日参してるうちにこういう方々が世に出された作品はどんなものか読んでみようかと思い立ち、近所の本屋に出かけたら単行本がない。それでも気に留めてたところ、ずいぶん経って既刊分をようやく購入できたという塩梅です。

 で、読んですぐはまる。

 作品の舞台は第1話のおそらく1年半前に震災があった東北の、偏差値的にはあまりよろしくない美大で、そこに通う三人の男子学生が主人公。被災の影は深く刻まれているけど、それで全てが包まれるというわけでもなく、つねに中心に据えられているのは彼らが創作すること=生きることにどのように向き合うのか、という問題です。

 

 千葉は考えるより行動しちゃうタイプに見えるけど、頭悪いなりに真面目に考えてます。小学生の時は図工でいつも褒められてて、そのまま努力もせずに画家になれるつもりでしたけど、大学に入ったら周囲の否定的反応からそうではないと気づきました(第1話)。もっとも大学入学後に初めてというわけでもなく、高校時代に幼馴染で同級生の藤本の情念に触れて、自分が「そこまでの温度」では頑張れていない、と親友を羨望したりもしています。そのときは(大学に行ったら、なれんのかなぁ…)と漠然とした期待を抱いてみるけど、でもいま負けたくないのに置いて行かれそうな焦燥感を抑えきれずにいました(第13話)。大学では壁画ゼミで出会った先輩や友人達に刺激を受けながら、不器用に貪欲に努力して突破口をぶち開いていきます。

 

 藤本は幼馴染の千葉に比べて内向的で、家庭の事情もありながら(第11話)、自分が西洋画の道を進んでいいのか、進めるだけの才能があるのか、とひたすら悩んでます。同じ道を志す彼女もできたのにこの野郎。でも、藤本はただただ好きな道を進みたいだけで、そのための力が自分にないではという不安とつねに向き合わざるを得なくて、しかもその不安は最も身近にいる千葉や本吉に対する劣等感によっていっそうかきたてられてしまう。しかもしかも、そんな劣等感を抱いてしまう自分や、同じ志を抱く友人知人達が評価されるたびに自分の至らなさを痛感してしまう自分、さらに彼らに妬み嫉みまで感じてしまう自分が、嫌で嫌でたまらない(第2話、第14話)。繊細で誠実で優しいからこそ陥るぐるぐる渦巻きにからめとられてもがくのが、この藤本です。そう、ちゃんともがく。創作はやめない。

 

 本吉はそんな同級生達から「才能がある」と羨望されるダブリの日本画生。自ら天才と公言するしそれだけの実績を誇るけど、彼の家族やかつての友人達は津波の犠牲となっています(第7話)。第2巻p.72の一番下のコマにいるのは、妹の凪さん(当時15歳)なんでしょうか。全てを消し去ってしまう力の前で、作品とはいったい何なんだろう。作品と自分のいったい何が残せるというのだろう。創作するという行為と自己存在の意味を呑み込んでしまうぽっかり開いた空虚の穴に、本吉はひきずりこまれかけます(第3話)。でも、と先生や仲間に支えられて、再び描き出す。どんなに巨大な穴が開いても、創作するし努力する。ところが、そうやって描くことで評価され、その評価が周囲の羨望や嫉妬を生み、どうせあの人は才能あるから、と周囲の者達が距離をとっていく(第10話)。被災による孤独と、その孤独を抱えてなお進むための創作によって立ち現れてしまう孤独。だけど千葉は、そして藤本は、そんな本吉から逃げずに、かといって境遇に同情もせず、負けずに並んで戦おうとするので、本吉は今日も圧倒的な実力を示しつつ笑って茶化して煽って感謝します。

 

 三者三様の悩みを抱えてもがいているんですが、その三人が美的創作という同じ道を進もうとするからこそ、互いに張り合いながら支え合うことができる。そばにいるから辛いこともあるけど、だからといってやめるわけにはいかないし、やめたくない。優れた作品とその作者しか食べていけない、名前が伝わらない美術の世界で、同じ星を目指しながら相争い、同じ星を目指すことで敬意を抱きあい贈与しあう主人公達。これ三人が例えば全員日本画ゼミとかだったらもっと逃げ場のない話になってたかもしれませんが、そこは異なる分野のおかげで適度な距離感を保ちつつ、それでも分かってしまう才能や実績の差に傷つく姿が、そこからまた一歩踏み出す姿とともに毎回突き刺さります。

 

 いや、突き刺さると言ってもぼくは画家でも美大出身者でもないわけですけれども。

 この作品を読むとき、ぼくは(好きな作品の前でいつもそうであるように)何も考えずその世界に浸ったうえで、少し間を置いてから2つの視点で振り返っているように感じます。

 1つは、創作者とその作品に向き合う自分として。つまり、創作者ならざる自分として。ぼくは好きな作品の考察などで「表現」こそしてますけど、「創作」をしてるつもりはありませんし、またその能力もないと自覚しています。何か新しい作品を自分の中から生み出したことがない。あくまでも元作品に対するファンとしての二次創作にすぎず、ぼくのコンテンツに面白いものがあるとすればそれは全て元作品がぼくに与えてくれたものです。そういう喜びをくれた作品とその創作者への感謝・敬意をいつも忘れないようにしたいし、そのぼくなりの表現が考察や二次創作というわけです。

 しかし逆にみれば、ぼくが何も感じない作品も世の中にはありまして。鑑賞しても、何も書く気にならない。しばらくすれば忘れてしまう。あるいは、これはぼくには合わない、とだけ記憶に残す。それは受容者・消費者としては当たり前の態度かもしれませんし、作品との相性は人それぞれと言うほかありません。でもこれ、創作する側からすると本当に残酷なことですよね。そんなものだと分かってはいても、誰かに届くかどうかは決定的な重さを持っている。どんなに心血を注ぎ込んだ作品であろうとも、誰にも届かずに世の中から忘れられてしまうことが、ある。それは、自分そのものを否定されることに等しい。ぼくは自分の好きな作品への否定や嘲笑が拡散するようなときに考察などで全力反撃するタイプのファンですが、そのときの激しい感情を思い出してみても、創作者ご当人はそれどころのレベルではないと想像できますから、その過酷さが突き刺さります。だからといって、ぼくが享受した全ての作品から何かを受け止めることなんてできません。なのでせめて、届いたときにはその届いたということを言葉にして、これからも自分なりに表現していければと思います。その言葉が別の誰かに届くかどうかは分かりませんが、少なくともその作品と創作者に向き合う自分がいるということは、示せるので。(ファンレターなどを送る方が直接的でいいんでしょうけど。)

 もう1つは、おっさん目線で。いや、主人公たちの教師にあたる年齢なわけですから、この作品を読みながら(あー若いっていいなー)だの(ぼくにもこんな純粋な時期があったなー)(いや……なかった……)だのと若き日を思い出して自滅エンドにひた走る手もありますし、あるいは(こういう若者たちをちゃんと支えていけるように大人として頑張らねば)と奮起する手もあるんですが、どちらかというと年甲斐もなく(ぼくももう少し頑張るか)と思ってしまうのでした。なんとかの冷や水。でも、そう思わせてくれる台詞がこの作品の中にありまして。第2巻まででいちばん好きな箇所なので抜き書きさせていただきます。

 

 生まれてくる時からずっと、生まれてくる時代を間違えたと思った。

 やりたいことはもう誰かがやってて、あこがれはすぐ過去になる。

 

 何をしたってもう古いんだよ。

 新しいことって結局、忘れられた古いことなんだ。

 同じことを人間はずっとくり返してる。

 

 だから俺は古いことをやる。

 

 古いことのなかに「誰もやらなかったこと」を見つけられたら、

 

 古いことは新しくなる。

 

 (相澤いくえ『モディリアーニにお願い』第2巻 小学館ビッグコミックス 2016 p.134-5)

 

 これを読んだとき、ちょうどぼく自身が加齢による思考の硬直化などで袋小路に入りかけていまして。そうか、後ろを真剣に見直すことは前に進むことなんだな、と気づかされ、背中を押してもらえた気がしたのです。まだやりようはいくらでもある。たぶん。うん。

 

 もうじき第3巻も発売されるということで、楽しみです。

『りゅうおうのおしごと!』第3巻メモ

 最後となります単行本メモ第3巻分。以下ネタバレです。

 

 p.14 「ひたすら走った」、若き日の森内九段がポカで敗れたときに千駄ヶ谷から横浜まで走って帰った(参照)。

 

 p.16 山刀伐八段、複数の棋士の要素を合体させてる? (1)深浦九段、研究家のトッププロ。ただしタイトル獲得3期という凄い実績ありで、振り飛車はほとんどしない居飛車党。羽生王位に初めて挑戦したとき「好きな女の子のことを考えるように」毎日羽生のことを考えている(作戦を練っている)と述べて、恋愛流とのあだ名がついたうえネットでは同性愛者ネタで扱われることがあるが、当時すでに女性と婚約していた(参照)。(2)青野九段、かつてA級にいた大ベテラン。タイトル挑戦1回、鷺宮定跡や最近の横歩取り青野流など序盤研究で有名。ただし居飛車党。(3)長岡五段、20代なのにC級2組で2回降級点をとったが、その後みごとに1つ消した。当時、羽生の研究会に参加している(つまりそれだけ研究内容を評価されている p.41)との話もあった。ただし現在もC2。

 

 p.20 「なぜついて来ようとする」、ごく最近たしか第3期叡王戦本戦で藤井九段がトイレに行こうとしたとき、対局相手の丸山九段が1分将棋でもないのになぜか追随していた。

 

 p.22 「勝手に俺のシャツを着て泊まる」、まじかー。姉弟子まじかー。体どんだけ大きくなったか、よく分かるよね。

 

 p.26 「つるつる」 つ る つ る。 (投了)

 なお銀子が男湯に投げ込む物の一部が八一に命中してるのは、ついたて将棋で身につけた相手「玉」の位置を推測する能力によるかもしれない。

 

 p.36 「男女は年齢が離れているほうが」、八一は経済力あるけど包容力がまだないし、銀子は八一の保護欲を刺激してない現状。

 

 p.42 リップクリームは佐藤天彦名人がタイトル戦中も必須のアイテム。投了直前にリップクリームを塗り、話題になったことも。

 

 p.47 生石充玉将、明らかに当時の久保王将の実績。護摩行も有名。ただし性格設定は振り飛車御三家(久保のほか藤井九段、鈴木九段)などを合体させているかも。

 

 p.54 「女の子のお知り合いが多すぎる」、むしろ棋士など男性の知り合いが登場しなさすぎる。

 

 p.61 「感覚を破壊された」、1984年に谷川名人(現九段)が福崎七段(現九段)との自戦記に記した表現(参照)。福崎九段は振り飛車穴熊の先駆者の一人で、自玉の堅さを活かして大駒を叩き切り寄せてしまう技をして「妖刀使い」と呼ばれた。

 

 p.68 「流行」、平成24年度の久保棋王・王将はゴキゲン中飛車などの得意戦法に対する居飛車党の研究によって、タイトル2つとも失いA級からも落ちるというどん底を味わった。しかし翌期にA級復帰、さらに最近は王将にも返り咲いている。

 

 p.69 「かのうせいむげんだい」、藤井九段が『将棋世界』2015年7月号での座談会で実際に「僕は居飛車には3つしか戦法がないと思っている」「一方の振り飛車は、三間飛車中飛車四間飛車とあって、それぞれは全く別の戦法なのですね。それで囲い方が美濃囲いと穴熊に分かれるので2倍の6通り。さらに角を換えるか換えないかで2倍に膨れて12通り。そこに向かい飛車もまぜちゃえば、一気にバーンと増えてくる」などと述べている(参照)。この座談会めちゃ面白い。

 

 p.71 「史上三人目の中学生棋士」、加藤九段・谷川九段に続いたのは羽生竜王

 

 p.79 「大局観」、この差を見せつけた有名な1局を挙げれば、永世竜王位を賭けた第21期竜王戦第1局の渡辺竜王・羽生名人戦(参照)。羽生の振り飛車の恐ろしさも味わえる。

 

 p.87・p.90 「泣きそうな顔」、いまの八一には見せない顔。桂香もまた、八一とは別の意味で、銀子にとって特別な、損得を越えた存在。

 

 p.92 「振り飛車党より振り飛車の勝率が高い鬼畜」、羽生善治データベース『玲瓏』によれば羽生の振り飛車通算勝率(「戦型別」参照)は6割6分、先手番だけなら7割6分。ちなみに純粋振り飛車党の久保王将の通算勝率は6割2分(参照)。

 

 p.93 「ボイラー技士」、何かの資格もってる棋士って昔いたような……。

 

 p.98 「スーパー銭湯振り飛車」、振り飛車党の総帥と呼ばれた藤井九段のあまりにも有名な言葉「こっちは鰻しか出さない鰻屋だからね。ファミレスの鰻に負けるわけにはいかない」(参照)。

 

 p.100 「脳内将棋盤」のイメージ、雑誌『AERA』第25巻38号(2012年9月17日発売)掲載の小暮克洋「天才たちの「脳内パネル」 : 羽生の頭の中で、将棋盤はどう再現されているのか」が元ネタか。たぶん「十一面」も浮かぶ棋士はいない。

 

 p.106 「将棋星人」、2ch由来の「おまえら、もし地球に将棋星人が攻めてきて」で始まる有名なコピペがあるが、それとは無関係。

 

 p.106 棋士や男性奨励会員についての銀子の分析、棋界はそうと思わせるエピソードに事欠かない。

 

 p.108 「捌きのイカヅチ」、「出雲のイナズマ」といえば里見香奈女流五冠、10代半ばから女流棋界にこの10年間君臨し、女流棋士の強さのイメージを一新した。奨励会員として三段リーグにも参加していたが、病気による休場(「身体が弱い」p.134)などもあり、この3月に退会。初の女性棋士誕生とはならなかった。

 

 p.110 「感覚に頼りすぎてる」、棋士がAIに敗れたときのパターンのひとつでもあった。つまり銀子はある意味で、徹底的な研究と読みによって先入観を打破しようとしていることになる。

 

 p.112以下、ここからの銀子の独白はもう。もう。

 

 p.114 「小さくなった石鹸」、意外と細かいな八一。それとも同居人のあいに感化されたか。

 

 p.115 「『超速! 3七銀』を開発したのが奨励会員」、奨励会三段の星野良生(現四段)による開発。これにより星野は2010年度将棋大賞の升田幸三賞を受賞された。

 

 p.119 なぁぴちゃー。

 

 p.121 「夫婦っぽいこと」、もしやシャルの両親は一緒にお風呂に入ってるのか。

 

 、京橋は大阪市内なので『大阪市公衆浴場指導要綱』を見ると、第6の1に「同一世帯に属する者」等に関する例外措置の記述があるのね。

 

 p.135 桂香の父である清滝九段、一人娘とどうやって接していいか分からないほど将棋馬鹿なんですよね……。だから娘の気持ちも聞かないで将棋を教えようとしたし、「寂しいかと思って」(p.136)銀子を内弟子にしたし。不器用すぎる。そして「そういう天才達は、凡人のことが理解できない」(p.137)。お互いに意思疎通を図ろうとすればすればするほど、絶対的な断絶がきわだっていく。

 桂香と清滝九段の間ではその断絶は、親子の絆のつよさと棋力の隔絶の確認と将棋愛の共有によってひとまず超越できたけど、銀子と八一の場合はどうか。姉弟弟子としての絆はつよいけど、八一が思っているほど銀子にとって不変で安心できるものではない。棋力の断絶は八一が表向きまだ気づいておらず、銀子が自覚しながらも表には出すまいとしていて、互いに確認できる状態ではない。将棋愛の共有は今更なほど十分だけど、二人とも将棋愛だけで生きていける道を選んでおらず、むしろ仲間を蹴落としてでも生き残らねばならない。今回の桂香と清滝件の和解は暖かなものであるだけに、今後の銀子と八一の関係を想像すると絶望的な相違点が浮かび上がってきてしまう。ただ、桂香と銀子の間にある情の細やかさこそが、銀子にとっての詰めろ逃れの詰めろの一手を導くかもしれない。

 

 p.144 「正座できなくなったら」、それで引退したのが升田九段・実力制第四代名人だったっけ。

 

 p.149 姉 弟 子 に 踏 ま れ た い。

 

 p.153 「予選で当たる確率」、だいたい棋戦の予選トーナメント8つ中2つ半が関西棋士だけのだったりする(交通費等節約のため予選はなるべく関東・関西で固める)。

 

 p.161 「あの人からタイトルを」「二つも」、久保二冠時はこれと異なり、棋王佐藤康光から・王将を羽生から奪取している。奪われた相手もそれぞれ郷田・佐藤康光

 

 p.165 澪ちゃんちょっと胸あるような……? 第1巻口絵を確認したところ横向きでもその気配が感じられないので、この3ヶ月の成長の証ということなのか。時よ止まれ。むしろ戻れ。

 

 p.170 「小児科医に」、立石径・元奨励会三段がモデルか。たていし小児科HP内「将棋」を参照。久保とも奨励会三段リーグで1度だけ対戦している(参照)。なお立石流四間飛車を開発したのは別人の故・立石勝己アマ。

 

 p.173 「C級2組のケツから十番目くらい」、八一は前期順位戦から参加してるので、おそらく4勝6敗くらいでぎりぎり降級点を逃れた雰囲気。新人タイトルホルダーにしては残念な結果だけど、北浜八段をモデルにすれば4勝6敗から10勝0敗でC1昇級・2勝8敗の降級点から8勝2敗でB2昇級と、勝率6割で効率よく昇級する展開もあり得る(参照)。

 

 p.182 「賢王戦」、タイトルホルダーも段位で呼ばれるなどの特徴がまんま叡王戦。この当時はトーナメント戦だったけど昨年度第3期からタイトル戦になった。

 

 p.189 「桂香さんにはたくさん武器がある」以下、銀子の言葉は自分自身に向けた日々の暗示と同じかもしれない。

 

 p.190 「小学生どもを残らず血祭りに」、昔も今も銀子が八一にまとわりつく悪い虫を駆除する方法はただひとつ……。

 

 p.192 「5八金右」、初めて公式戦(しかも竜王戦防衛戦)で指したのはなんと振り飛車党総帥・藤井九段(参照)。

 

 p.203 「高い壁」、八一自身にとっては間違いなく挫折の道のりだった一方で、清滝師匠は6歳児八一との初手合いで「この子は将棋を終わらせるんやないかとまで思った」(第2巻p.172)ことに注意。

 

 p.205 「『読み』を加速させる」、柴田ヨクサルハチワンダイバー』(集英社)の「ダイブ」を思い出す。

 

 p.211 「限定合駒」、第59期王将戦で羽生王将に挑戦した久保棋王は第6局で銀・銀・角の3連続限定合駒によって勝利し、王将位を奪取した。これは後手ゴキゲン中飛車に対する先手5八金急戦の歴史的名勝負で、「桂じゃなくて、香」(p.213)も含めて山刀伐・八一戦はまんまこれ(参照)。

 

 p.213 「あっ……!」、山刀伐は急転敗北直後の頭でも、八一の指摘に「すぐにその意味を理解した」。「同じプロ棋士から『才能がない』と見下され続けた」(p.214)彼であっても、その後の努力の積み重ねもさることながら、一瞬で「見るだけでわかる」(p.107)。ここでも銀子が述べた自分との圧倒的な差が描かれている。

 

 p.221 「最新式のミサイルを」以下、羽生の振り飛車について言われるネットスラングは「アサルトライフルで撲殺」だっけ。

 

 p.235 「ゴキゲン中飛車」の名称の由来は、奨励会時代にこの戦法を開発して棋士になってからも勝ちまくった(2004年度にあわや勝率9割)近藤正和六段が、いつも笑顔でゴキゲンなことから、じゃなかったっけ。

 

 p.239 「左手で将棋を指す」、たしか久保王将もそう。ここでは父・生石玉将に憧れる娘が指し方も真似しているということか。

 

 p.256 『どうして桂香さんの邪魔をするの?』以下、八一が想像するようなことを銀子は思っていないのではないか。銀子は桂香を当たり前のように大切に感じているし、桂香の勝利と昇級を心から望んでいる。だけど、そのためにあいや天衣が邪魔だとは思わない。その二人だって真剣に将棋を指して女流棋士を目指しているのだから。銀子自身があいたちを目の敵にするのも、いまはまだ女流棋士としてではなく私情ゆえにすぎない。けれども八一は銀子が彼を「責めたいのかもしれない」と想像してしまっている。ここで八一は、あいと銀子の戦いのさいに「……恨むぜ。姉弟子」(第1巻p.267)と呟いた自分の心境をそのまま投影している。その想像のうえで、いま目の前にいる銀子を、「将棋から離れた」彼女が「中学三年生の、ごく普通の、悩みを抱える無力な女の子でしかなかった」と捉え、その声をかつての「小さな女の子と同じものだった」と受け止める(p.259)。しかしその銀子は、将棋から離れてなどいない。将棋に向き合い、離れずにいるからこそ、彼女の中に「無力」さが燃え広がる。その業火は自分の研究中・対局中には氷の意志で凍らせているものの、桂香を見守るこのときのように自分の対局する将棋盤を離れたとたんに、いつでも猛威を振るって銀子を焼き尽くしかねない。もちろん八一も「姉弟子だって、自分が盤の前に座って戦うのであれば」(p.258)ときちんと理解してはいる。だが、いまの銀子を「経験したことのない気持ちに戸惑い」(p.259)というのは明らかに異なる。むしろ桂香に近しい銀子は、この気持ちをずっと経験してきているのだから。

 

 p.293 「研究会をしてくれた同世代の奨励会員」、つまり桂香と同じ25歳くらいとすれば、彼もまた奨励会退会目前である。

 

 p.295 「ただ将棋盤だけを見ていた」、あいの(天衣と比べての)未熟な点が、ここでは効果を発揮している。そして第1巻で銀子の盤外戦術に途中までさんざんに苦しめられていたあいが、ここでは桂香の手管にまったく動じていない。これはあいの成長によるものか、それとも銀子との対局でも最終盤では同じ状態だったのか。

 

 p.302 銀は、桂馬と香車の、隣にいるから……(ううう)。

 

 以上です。ところで銀子の鼻毛はやはり銀色なのだろうか。あっちはつるつるなので心配ご無用ですが(最低)。

『りゅうおうのおしごと!』第3巻感想と、続巻を購読しないことについて

 白鳥士郎りゅうおうのおしごと!』(GA文庫)第3巻の感想と、今後この作品の続巻を購読しないことの確認です。以下ネタバレ。

 

 退会に最も近い位置にいる桂香を中心にして、こんな過酷な勝負の世界なのにそれでも登場人物たちが将棋に打ちこむのは何故なのかを描く本巻。もちろんぼくは銀子を真ん中に置いて読んだわけです。

 もうね、ほんと劣等感との戦いですよ銀子の毎日。女性的魅力は桂香に、主婦的能力は桂香とあいに、ことごとく負けている。だからこそ将棋では最強であり続けなければいけないのだけど、その最も大事な将棋でこそ、まだ奨励会を突破できない自分と、とっくに棋士になるどころか最高タイトルまで獲得している八一との差を認識させられてしまう。そして、あの幼かった当時は自分の方が上だった棋力がいつしか追いつかれ、さらに追い抜かれて差がどんどん開いていったこの数年間、八一と一緒にいる日常が決していつまでも続くものではないということを、銀子は身に染みて理解せざるをえなかったわけです。

 この喪失への感覚を、八一はほとんど持っていない。彼はまだずっと先を見据えているから。銀子と過ごした日々を自分のかけがえのない礎としながら、その上に立って遥か高みを目指しているから。八一の中では銀子との「五万局」と現在のA級棋士との対局と、近い将来に実現するであろう名人との対局は、もっと強くなるという意志のまっすぐな直線上に並んでいる。同期の奨励会員との別れなど、少なくない喪失は経験しているはずだけど、根本のところで揺らぐことはない。

 でも、銀子はそうではない。桂香がもがきながら戦うさまをぼろぼろになりながら見守るしかないように、喪われてしまう大切なものに手を伸ばしても届かない。何より自分自身が、指し手が、八一に届いていない。私生活モードでも渾身の勝負手が空振りする。なんなの。頓死しろ。

 頓死しているのは自分なのではないか。

 そんな不安を認めることなど絶対にできないから、銀子は最善を尽くす。自分自身を冷酷に認めてその長所短所を分析し、相手についても同様に分析してその長所を殺しにかかる。まさにプロ。ただし恋愛面では自分の長所が分からない、というか誰しも認めるその美貌という武器はほかならぬ八一にだけはまったく通用しないように思えるので、相手の手を封じることに専念するしかない。すなわち八一にとって異性との重要な接点である将棋で、他の女子を完膚なきまでに打ち破る。不器用すぎる。どう考えても他の女子たちから恐れ嫌われる。それでもいい。八一とは違う意味でまっすぐな、棒銀のような生き方。

 銀子が幸せになってくれないと困るんですよ。

 

 で、今後この作者が銀子を幸せにしてくれると信じ切れないので、続巻を購読するのをやめます。

 その最たる理由は、先日書きましたとおり第2巻「感想戦」が先行テキストに酷似していることと、第3巻のあとがきでそのことに対する作者コメントがなかったこと、です。

 いや、第3巻あとがきには、その代わりにこんな一文が記されていました。

 

「小手先のテクニックではなく、剥き出しの魂をぶつけることで、読む人の心を揺らしたい。私はこれからも、そうやってこの物語を書いていくつもりです。」(p.316)

 

 どう理解したらいいのでしょうか。

 他者の文章を「小手先のテクニック」で模様替えした文章を堂々と単行本に載せておくことが、「剥き出しの魂をぶつける」ことなのでしょうか。この作者は「これからも、そうやってこの物語を書いていくつもり」なのでしょうか。

 先行テキストの執筆者は、ほかでもない先崎学九段ですよ。内弟子時代を姉弟子とともに過ごした、八一の設定の元となっている棋士ですよ。そして自分の写真に「元天才?」と記された雑誌記事を目にしたときの先崎奨励会員の煩悶が語られたあの有名なエッセイを、この作者は当然知っているはずです。そんな棋士がかつて発表した文章を、しかも彼の大親友の郷田九段も登場している文章を、棋界が舞台の小説でそのまんま模倣できるプロ作家とは、一体どのような魂の持ち主なのでしょう。

 

 もっとも、「感想戦」ひとつで作家を評価してはいけないのかもしれません。あれはおまけみたいな、とってつけた、つい軽い気持ちで棋士への愛情をもってやってしまった手すさびの掌編にすぎず、作品全体が面白ければ無視してさしつかえないような瑕瑾なのかもしれません。

 ではしかし、もしそうだとするならば、あの「感想戦」で描かれた月夜見坂燎も供御飯万智も、作者からその程度の扱いで済まされる登場人物ってことですよね。

 ぼくは、燎が「銀子の時代も終わったな!」と吐き捨てた直後になぜ「いや、銀子の時代はオレが終わらせる!」と叫ばないのか、ずっと疑問でした。銀子にタイトル戦で3タテ喰らったばかりでも、またしぶとく立ち上がって戦いを挑もうとするのが燎の性格なのではないか、と想像したので。そして、やはり銀子をライバル視している万智が「おや、聞き捨てなりませんなぁ」とからんでいく、というのはどうかな、と。そこまで進めば、これは元ネタの文章を別の文脈に投げ込むかたちで組み替えて、この作品の女流トップ間のライバル関係を描けたのではないかしら、と。

 ただ、もしかするとこの第2巻の時点では燎も万智もそこまで気合の入ってないグループの一員にすぎず、後の巻での展開によって打倒銀子に燃えるとしても第2巻ではまだその前の段階にとどまっている、のかもしれません。登場人物は物語を通じて成長し変化するものですから、それならそれでいいのです。

 しかし、主要登場人物の銀子が両者を「見えてる人間」ではないとばっさり断定しているあたり(第3巻p.107)、おそらく銀子に対抗できるのは現女流の中では「異様な感覚を持って」いると評価されている祭神雷(同p.108)だけなのでしょう。すると、燎も万智もどちらかといえば狂言回しの役を今後も担わされることになるのではないか、と推測できてしまいます。そして、そんな二人のお気軽な幕間劇に銀子も登場させられ、スマホの向こうから先崎の描く羽生とよく似た台詞を言わされたわけです。

 ぼくは脇役にもかけがえのない人生があると思うくちですので、燎と万智には一念発起を期待してしまいます。けれど、この「感想戦」で人真似の台詞を言わされている姿を見るかぎり、そこまで大切にしてもらえるのか疑念が拭えません。そしてこの疑念は、銀子の今後の扱いについてもまとわりつくのです。だって燎と万智って、女流棋界における銀子の姿に厚みをつけていくための大事な存在じゃないですか。その二人がこういう扱いなら、銀子も推して知るべしですよ。

 

 そういう疑念、作者への不信感を抱いたまま第3巻を読むと、例えばp.257のとても重い意味を持つはずの場面。銀子の「私達は、どうして――戦うことしかできないんだろう?」という呟きに、八一が「それは――俺達が、生きているから」と返すという、二人の一致とずれを潜在させつつも棋士とは何かを端的に示すやりとりです。

 が、この数行を読むぼくは、瞬時にひとつの先行作品を思い浮かべました。PEACH-PITRozen Maiden』(初版・幻冬舎コミックス)第3巻 Phase13にて、真紅が「だって 闘うことって 生きるってことでしょう?」とジュンに答えるあの有名すぎる場面です(当時の感想は旧日記のこちら)。もちろん、白鳥がこの先行作品の台詞を真似したかどうかは定かでありませんし、ぼくの脳内で勝手に結びついただけではあります。とはいえ、白鳥が先行テキストをかなりの程度まで真似してはばからない作者である、という認識を得てしまった以上、ぼくはここでも真似の疑いを捨て去れないのです。

  今後ぼくが第4巻以降を読み続けていくとすれば、ページを繰るたびにこういう引っ掛かりを覚えることになるでしょう。自分がこれまで向き合ってきた多くの作品たち、自分の一部となっている作品たち。それらにも完全にオリジナルとは言えない部分があるのでしょう。しかし、真似の度合をここまで意識せざるをえない作品は、ぼくにとって初めてです。そういう意識をつねに抱かざるを得ないというのは、ぼくの読書趣味にとって何の得にもなりません。しかも自分の一番のお気に入りである登場人物について、彼女の未来について、たとえそれがぼくの望むようにではなくずっと厳しいものであるにせよ、それを作者がきちんと自分の言葉で表現してくれるだろうという信頼感を、抱けないのであるならば。ぼくはこの作品をどんなに面白く感じようと、もはや読み続ける気になりません。

 

 この作者が書いた第3期叡王戦決戦七番勝負第1局観戦記棋士たちの陰影を描いたいい文章です。こういうの書ける人が、なんであんなことしたんだろう。残念です。本当に残念です。

『りゅうおうのおしごと!』第2巻メモ

 というわけで第1巻メモに引き続き、第2巻メモです。こちらで書いた感想に盛り込んだ分は、今回繰り返しません。

 

 p.9 「隣にちょこんと座って」、あいは八一とぴったりくっついてても詰将棋に集中できる。天衣はそうではない可能性大(p.155)。

 

 p.19 「何故か俺が彼氏と間違われて」、銀子がそう見えるようにストーカー等に対して振る舞っていた可能性。連盟内投票も参照(p.48)。

 

 p.25 「鬼沢談」、SM小説家・団鬼六(故人)。愛棋家としても有名で、若き日の行方八段など活きのいい若手の面倒をよくみていた。

 

 p.40 「思わずスマホを取り落とした」、ニコ生将棋タイトル戦中継にはよくゲスト棋士からの生電話がかかってきたりするが、解説役として出演していた羽生がスマホに何気なく出たら、相手が谷川会長(当時)だったため珍しく驚きを顕わにして慌てたことがある。

 

 p.42 「今の将棋界では師匠が弟子に直接稽古をつけることも一般的になっている」、森下九段が入門時の70年代末に師匠の故・花村九段にものすごい数の指導対局をしてもらった、というあたりが将棋雑誌などで知るかぎり最初期の事例。

 

 p.44 「将棋を指す」、より正確には「(八一と)将棋を指す」。

 

 p.47 「裏番長」、女流であだ名が番長といえば香川愛生女流三段だが、タイトル獲得実績もある現役。引退者では姉御肌の鹿野圭生女流二段などを思い出すが、会長の秘書などではないし趣がだいぶ違う。

 

 p.50 月光会長の元は明らかに谷川浩司九段(十七世名人資格保持者)、ただし盲目の棋士ではない。「光速流」の名で知られ、終盤の寄せの速度を革命的に進歩させて羽生世代にも多大な影響を及ぼした。矢倉はもちろんだが、何といっても「伝家の宝刀」角換わり腰掛け銀の名手。羽生との竜王戦での7七桂は伝説。p.239のタイトル履歴など完全に谷川。なお、盲目の棋士という設定は故・西本馨七段か(『将棋ペンクラブログ』の記事参照)。

 

 p.52 「護摩行」、久保王将の慣習。

 

 p.55 「双子の弟です」、将棋界には畠山成幸八段・畠山鎮七段という双子の棋士がおり、しかも三段リーグを揃って突破し同時に四段昇段したという。

 

 p.56  「陣太鼓」、あまりにも有名な陣屋事件については『将棋ペンクラブログ』のこちらの転載記事。またのこちらの対談記事も。

 

 p.67 「受け師」、柴田ヨクサルハチワンダイバー』のヒロイン・そよのあだ名「アキバの受け師」。その影響で木村一基九段が「千駄ヶ谷の受け師」と呼ばれる。近代将棋界最強の受け師といえば、故・大山十五世名人。

 

 p.74 「反社会的勢力と繋がりがあるわけがない」、米長会長時代の後半は怪しい雰囲気だった……。『将棋世界』で羽生がペテン師まがいと対談させられたり……。

 

 p.76 「姉弟子本来の美しさ」、八一も銀子のそういうとこは第1巻と同じく素直に評価してる。

 

 p.77 「持ち時間を二分しか使わず」、タイトル戦ではないが大平武洋六段は対局日に開催されていたZONE解散コンサートに行きたいがために持ち時間1分のみの消費で対局し勝利しコンサートにも間に合った。

 

 p.79 「研究勝負」、例えば名人戦でも、最新研究を知っていた森内が、まだ知らずにいた羽生を一方的に打ち負かしたことがある。また、故・米長九段が7度目の挑戦で中原十六世名人から名人を奪取したとき、本来終盤型だった米長が森下ら当時の気鋭の若手棋士達にお願いして研究会を開き、そこで磨いた最新の序盤戦術を武器に中原を圧倒し4連勝した。

 

 p.83 「駒に歯形」、幼い頃の谷川九段が兄に将棋で負けたとき、悔しさのあまり噛んだ駒には今なお歯形が残っているとかないとか。

 

 p.85 「銀子ちゃんがその子達を潰して回った」、銀子……あんたそんな頃から不器用な愛情表現を……。一方、これが初めて通用しなかったのが、あい。「女の敵はね。いつも女なのよ」(p.87)

 

 p.107 「もう誰も、おまえに勝てなくなる」、あいの「だれがいちばんですか?」(p.242)八一の「俺が一番大事に思っているのは、あいだから」(p.186)天衣の「誰が一番なの?」(p.282)などと対照すること。

 

 p.123 「『剃髪の一局』」、中原名人に森けい二九段(当時八段)が挑戦したときの第1局でのエピソード。

 

 p.128 「和服の襟を何度も整える」のは誰か知らないけど、「空咳が止まらなくなったりする」のは加藤一二三九段か佐藤康光九段か。

 

 p.128 「ありますよ」、盤上没我だったはずのあいは、八一の挙動不審に注意を集中しているうちに、対局中の対人観察能力までも向上させている。しかしこれは表裏一体のものとして、対局中に盤上のみならず対局相手(と自分との関係)まで考えてしまうという、不純さを獲得することでもある。その現れは、八一にとって自分が二番目なのかという不安から師匠のくれた扇子を握りしめながら(p.198)、天衣を「師匠が贔屓してるんだから勝てない」(p.230)と感じてしまうという姿。

 

 p.139 「雑誌に書い……噂で聞くし。」、銀子……年頃の乙女として甘味に興味あるだけでなく、こないだUSJに行けなかったことをひとり感想戦して遠くの娯楽施設に行くのはハードル高いので近辺のスイーツ処で日常デートはどうかと新たな銀子システム構築を試みたものの自分から言い出せる機会がなかったところで他ならぬ八一からまさかのお誘いが、と思いきや頓死しろ八一。

 

 p.141 清滝九段のプロフィール、関西棋士でこの性格でこの棋歴って誰なんだろ。タイトル獲得してないものの、A級8期のうち名人挑戦2回というのは結構すごい。しかも八一たちが弟子入りしてからの挑戦(「そこから頑張って」p.175)なので、40歳を過ぎてからということになる。なんとなくもう一花咲かせる気配あるけど、後の巻で竜王挑戦で師弟対決という展開はあるのか、それともあの「神」こと現名人が立ちふさがるのか。

 

 p.144 「お漏らしです。」、うむ。

 

 p.145 「また週刊●潮にあること無いこと」、●春もね。ちなみにこれを理由として両誌とも一生買わない。

 

 p.153 「うちの弟子と被る」、本当は天衣のほうがずっと前から八一の弟子になろうとしてきたのに、亡き父も2、3年前までそう言っていたのに(p.270)、なぜ後から弟子入りを志したあいのほうが「うちの弟子」と呼ばれ、自分が「被る」と言われてしまうのだろう。敵。よって潰す。

 

 p.161 「あなたも『あい』っていう名前なのね」、あなた「も」。まず天衣「が」、次にあい「も」。最初の弟子があいだという話を八一から聞いたばかりなのに、自分とあいの序列をたった一文字で無意味にしてしまう恐ろしい子。しかも、あいがこれに反発してあくまで順番にこだわるだろうと予測したうえで、続く「最初のあいちゃんに飽きちゃったのかな」でそっちの道も瞬時に閉ざすという、「敵の指したい手を事前に殺す勝負勘」(p.67)。

 

 p.165 「いえ出します」、「家」は小2で習う教育漢字だけど、あいが漢字苦手というよりも、ショックの凄まじさゆえ画数の多い漢字を書く余裕がなかったのでは、と推測。

 

 p.171 「序盤早々から飛車と角を交換する珍しい形」、まったく違うだろうけど2014年の第72期名人戦第1局を思い出す。あれほんと凄すぎて面白かった。

 

 p.176 「一緒に強くなれる相手」、師匠は銀子の才能の限界を察知しつつも、八一の才能を開花させたのが銀子である(そして銀子もまた八一によって)ということを理解している。

 

 p.181 「体育座り」、和服で頭を膝の間に埋める姿は記憶にないけど、渡辺棋王順位戦C級1組の最終局で敗れたとき、昇級絶望と思って体育座りして頭伏せてた写真があったような(ただし競争相手も敗れたため昇級できた)。タイトル戦だと竜王戦王位戦での挑戦者木村九段だろうか。

 

 p.188 「ところで姉弟子」、おーまーえーなー。あー。もー。うがー。

 

 p.189 晶の「好物」、よく読んだらやばない?

 

 p.195 「師匠なんてどうせ書類上」、そうね心の本籍は八一のとこだもんね。

 

 p199 「しがみついてきたり」、これ銀子だからたぶん演技ではないですね。

 

 p.202 「ならば次は」、このときの久留野の判断ってけっこう影響でかそう。

 

 p.209 「全く異なる思想」、例えば糸谷八段の著書『現代将棋の思想  ~一手損角換わり編~』(マイナビ将棋BOOKS 2013)第1章での説明を参照。

 

 p.229 「大粒の涙」、いつぞやの小学生名人戦準決勝で敗れた少年が、森内名人から詰み手順があったことを指摘された瞬間に「あっ!」と声をあげてぼろぼろ泣き始めた、という場面を思い出す。

 

 p.231 「もっと、強くなりたい」、この小説刊行後のつい最近に藤井六段がこの言葉を語り、中村太地王座も衝撃とともに初心に返れたなどの逸話あり。

 

 p.235 「仲直りの約束は、いつだって将棋だ」、八一と銀子もずっとそうだったはずで、その実感もこもっている。

 

 p.238 「白いドレス」、いやーんそれもうウェディングドレスじゃーん。と最初思ったけど、「お嬢様の洋服の匂い」好き(p.189)な晶としてはたんにお気に入りの匂いのする白いドレスを念頭に置いてるだけかもしれぬ。

 

 p.240 「えへー♡」 か わ い い。

 

 p.245 「小学生は」バスケがしたいです。

 

 p.246 「帝位リーグ」、おそらく元ネタは王位戦本戦リーグなので持ち時間それぞれ4時間。作品中では昼食休憩場面は省略されている。なおタイトル戦でもないのに棋士が和服を着てくることはあり、故・米長九段の引退直前の王将リーグでは佐藤康光九段たちが敬意を表して和服を着用し(最初スーツ姿だった米長もそれに応えて、午後開始までに和服を取り寄せて着替えたとか何とか)、また田丸九段が順位戦B級2組最終局で相手の昇級を阻止するため気合いを入れて和服で臨んだ(そして勝利して米長哲学を全うした)とか、いろいろ。

 

 p261 「5八金と受けていたら」、「3一角」で王手できる(しかも同玉で取れるので2二にいる)玉を、ずっと離れた場所にいる5八金で(詰めろ逃れの)「詰めろ」にできるということは、2二から4七あたりまで追って詰ませる順を、会長は指しながら読んでいたことになる。しかも、終局直後の疲弊しきった頭でありながら、八一はそれを聞いて「一瞬で評価を下し」て「……あっ!?」と叫んでいる。つまり瞬時に読めている。この恐るべき力こそ、銀子がまだ届かない高み。

 

 p.265 「欲しいものは全て、将棋で勝つ事でしか手に入らない世界で生きているから。」、はいこの文章を銀子の声で想像しましょう。

 

 p.266 「初めて経験した記録係」、奨励会6級で名人の(たとえアマ名人との記念対局だとしても)記録係を仰せつかったというのは、清滝九段から話を聞いていた月光名人の配慮によるものだろうか。

 

 とりあえず以上です。

『りゅうおうのおしごと!』第2巻感想と「感想戦」感想

 白鳥士郎りゅうおうのおしごと!』(GA文庫)第2巻の感想、と「感想戦」の感想です。以下ネタバレ。

 

 第1巻感想の末尾で、あいが対局時に盤面しか見つめていないことを指摘しましたが、まさしくその点でも対照的なライバルが登場しました。天衣。読み方はあいと同じ。これ第3巻から、どうやって呼び方に区別をつけるんでしょうか主人公。そこでひと騒動あるんですかね。

 

 天衣は性格や対人技能にくわえて勝負術、棋風などでもあいと好対照ですが、それと同時に、あいと銀子の間に位置づく存在でもあります。

 あいの側の、可愛い女子小学生・稀に見る棋才・可能性と表裏一体の未熟さ・やきもちやきなど。

 銀子の側の、人を遠ざけつつも人を見る能力・自分に将棋しかないことの自覚・大切な人から認めてもらえないことへの極度の恐れ・それゆえの力への依拠など。

 あいが銀子に挑むには、研修会員と女流タイトルホルダーにして奨励会二段の間にとてつもなく大きな溝があるがゆえに、だいぶ先の話になるのかなーと思っていたのですが。ここで身近な、しかもあらゆる面で対照的な天衣がいるおかげで、それより手前の段階での勝負(とそれを通じた成長)が可能となりました。物語を適度な緩急で進めるうえで、これはなるほどな展開です。

 

 そしてまた、天衣が銀子の役割の一部を引き受けることによって、銀子自身の物語はますます遅延可能となりました。

 銀子は八一より2週間早く弟子入りし、研修会に入って女流棋士として11歳でタイトル戦に登場してますが、この第2巻で明らかにされたとおり、奨励会に入ったのは八一が奨励会が入会した翌年(p.37)。これを八一は「姉弟子の才能ならプロ棋士になれると師匠が判断したからだと思ってた」わけですが、その師匠はというと「女流棋士ならかなりのところまで行くと思った。生意気で、根性があったでな」(p.172)。つまり、師匠は八一の棋才を手放しで認めている一方、銀子にはあくまで「根性」についての評価であり、とうてい八一と並ぶ可能性を見出していません。たぶん、奨励会の二段として戦っている銀子自身にも、そのことは分かっています。しかし、分かってはいるが分かるわけにはいかん(島本和彦無謀キャプテン』)。八一と「同じ土俵で戦いたい」「ただそれだけのために」(p.37)、銀子は根性で女流棋士奨励会を掛け持ち続けます。

 ところが、その片側の女流タイトル戦が、すんごいぬるい。第1局など情報戦のレベルで片付いてしまう。銀子はたしかに八一の想像通り「欲求不満」(p.81)でとんぼ帰りしたのかもだけど、不満とともに、こんな対局やってて八一に追いつけるのかという不安をも抱いたのではないでしょうか。だから真っ先に八一の部屋に飛び込んだ。なのにそこにいたのはあい。邪魔の限り。なで斬り。

 八一が見る銀子は(過去の記憶も加味して)すんごい強いし、実際それだけの力を持っているのでしょうが、しかし客観的に見れば奨励会二段にすぎません。このあと三段に上がり、三段リーグの上位2人に入れて、初めてプロ四段として八一と対等な立場で対局できます。もっとも女流枠ですでに竜王戦予選6組などに出場してるんでしょうけれど、それは本意ではない。あの頃と同じように、八一と対局し、八一が自分だけに向き合ってくれるようになるためには、もうプロ棋士になるほかないのです。もともと銀子自身がそれを目指していたのでもあり、それが二人の夢なのでもあり。

 その道のりを描く作品内の時間的余裕は、第1巻の時点で相当に長く確保されていました。奨励会は20歳までに初段にならないと退会しなければなりませんが、初段に上がったなら(降段さえしなければ)25歳あたりまで留まれます。四段になるのか、それとも強制退会となるのかは、銀子の場合あと10年以上も先まで不確定であり得るのです。しかし、物語の展開を考えると、あいがすくすく育っていく一方で、その最後の(八一を除けばですが)戦いの相手となるはずの銀子もまた、どのような道を進むのかをある程度描かざるを得ないのではないか。その道行きがあいの先を進みながらも、あいと対照をなしていくことになるのではないか。ぼくはそう想像していたのです。

 しかし、第2巻で天衣が登場したことで、あいの道行きには豊かなふくらみが生まれた(そして天衣もまた同じ)と同時に、銀子の道行きはそれほど重要な意味を持たなくなる可能性が生まれました。銀子の要素を天衣もだいぶ共有してますので、あい・天衣を軸に物語が進んでかまわないわけですよ。これは、銀子にだいぶ肩入れしているぼくとしては、あくまで予測にすぎないにせよ、だいぶ痛手でありました。

 とはいえ、天衣とあいのやりとりを通して八一が銀子を再発見することも、けっして想像できないわけではなく。とくに天衣vs銀子というのはなかなかの血戦になりそうですので、そこでどんなことが起きてしまうのかはこれからの楽しみとなりそうです。

 

 と、思っていたんですけどね。

 

 第2巻末には、作者あとがきに続いて「感想戦」と題する短編が掲載されています。第1巻と同じく女流棋士のトップ達と八一の一幕、今回はタイトル戦で鎧袖一触された月夜見坂燎のその後の姿も描かれました。

 供御飯万智の運転する車で夜のドライブ、そこでの話の流れで将棋盤に星が打たれているかないかの議論から勢い女流二人の賭けとなり、銀子に電話確認させられる八一。銀子の返事を伝えたところ、タイトル戦の怒りもあって「銀子の時代も終わったな!」と叫ぶ月夜見坂。じつにテンポいい収束でした、さすがは先崎学九段

 

 

 この「感想戦」後半で描かれた星のある・ない論争の顛末は、『将棋ペンクラブログ』のこちらに部分転載されていますとおり、1998年の『将棋世界』で先崎六段(当時)の連載記事に書かれていた文章に、酷似しています。

 これは、第1巻でも第2巻でも多用されている将棋界ネタのパロディや翻案とは、ちょっと、いやだいぶ意味合いが異なります。実際に文章を比べてみてください。

 棋士女流棋士)同士がある・ないで議論し、それがだんだん加熱する。あると主張する側が、むやみな賭けを提案する。同席していた主人公が、すでに寝ている第三者のすごく強い若手に電話させられ、適当な態度であるんじゃないのと返事される。そのことを報告すると、ないと主張していた側がその若手の「時代」が「終わった」と断言する。そして筆者は読者に対して、ご自分で確かめていただきたい、と一言添える。

 もう、表現も組み立てもまんまですよね。というのが、ぼくの判断です。

 

 例えば第1巻で米長放尿事件をネタに用いたときは、敗北の衝撃を個性的かつ大迷惑に表現という事件の特徴をそのままにしつつも、師匠と弟子の初対局という独自の要素を取り入れることでまったく異なる意味づけができていましたし、台詞回しも独特の喜劇的なものでした。そういうのは全くアリです。元ネタを消化して作品の一部にちゃんと位置付けているわけですし、またそのことによって登場人物の人となりや人物同士の間柄が描かれているのですから。

 ところが、この「感想戦」後半ははっきり違う。現実のエピソードを、そしてそれをエッセイに仕立てた先崎九段の文章表現と組み立てを、ほぼそのまんま流用しているだけです。

 たしかに厳密に確認すれば、月夜見坂が売られたケンカを買うときの威勢のよさあたりは、作品独自の部分であり、登場人物の個性を描くことに寄与していると言えます。「銀子の時代も終わったな!」の一言も、中村修現九段・羽生現竜王の関係と月夜見坂・銀子の関係に違いがある以上、先崎エッセイでの台詞とは異なる意味合いを持ちえているのでしょう。しかし、ここで月夜見坂の人となりを凝縮して伝えるには、この台詞はあまりにも借り物すぎやしませんか。

 また、最後の「答えはぜひ、皆さまの目でご確認いただきたい。」の一文も、先行の「あるかないかは皆さんの盤で確かめて頂きたい。」とそっくりです。その直後に正解を言う・言わないの差がありますが、地の文章でここまで似ているというのは、プロの作家としてどうなんでしょう。つまりは表現と組み立ての両面で人真似の文章を、単行本に収録してるわけですよね。コピー将棋について作品中で言及してるけど、小説はかまわないんでしょうか。あとがきにも先崎エッセイへの言及ないし、これ第3巻以降で何か補足されてるんですかね。

 

 ここでぼくは、剽窃かどうかを客観的に判定したいわけではありません。できるわけでもないし。ただ、以上のようにぼくが感じ考えた結果として、これから本作品に対する態度をどうしたものか、ずいぶん悩みました。せっかく出会えた面白そうな作品なのに、もうその物語に浸ることはできなくなっています。これから登場する人物も含めて、彼らが語る言葉や地の文章で綴られる表現が、作者のもの(少なくとも、作品のために作者の工夫を相当に入れたもの)とは信じ切れないからです。そしてそのことは、ぼくが今後の道行きを固唾をのんで見守りたい銀子についても、当てはまってしまうのです。

 いやもう、ほんとつらい。『知らない。ついてるんじゃないの?』の台詞を読んだ瞬間、羽生じゃーん! と思ったわけですよ。もちろん寝ぼけているにせよ銀子は、八一が真夜中に女流棋士二人とドライブなぞに繰り出していることを聞いてしまったのですから、八一に答える前に『……』と無言のあれこれが生じています。たぶん月夜見坂も供御飯も、銀子の絶対許さないリストにあらためて加えられたことでしょう。でもね、元ネタをアレンジする度合いがそれでもまだずいぶんと小さいと感じるのです。そして銀子が『……頓死しろ』と言わなかったのは何故。この元ネタの流れに乗らないからですか。今後の巻でも銀子は借り物の台詞を借り物の組み立ての中で語らせられるんでしょうか。そんな銀子の姿は見たくない。

 ただし、もしかするとこの作者、素材(元ネタ)に最小限の手を入れて新たな味を引き出す、という手法を好むのかもしれません。ほとんど借り物だからこそ、少しの違いやほんの一言の挿入が大きな意味を持って現れる。例えば銀子の『……』もそういう最小限の手にあたるかもしれない。ぼくもパロディとしてはそういうの好きですし、よくやります。だけど、プロの作家による作品として受け止めようとするとき、ぼくはプロの技を別の方面で期待してしまいます。そして、この作者の文章はぼくにとってその期待から外れます。素材といっても、それはすでに先崎九段の手を尽くした料理ですからね。

 というわけで、ぼくという読者の勝手な結論として、次の第3巻までは読みます。次巻が「最も書きたかったテーマ」(p.290)だそうなので、そこまでは読むのが礼儀かと思ったもので。

『りゅうおうのおしごと!』第1巻メモ

 『りゅうおうのおしごと!』第1巻についての色々メモ。記憶で書いてる部分には誤りがあり得ます。実在棋士の段位・タイトルはこの文章執筆時点のものです。

 

(追記:いちばん大事なこと書き忘れてた。内弟子姉弟弟子といえば、故米長九段の家に住み込みで内弟子時代を過ごした林葉直子元女流五段・先崎学九段が有名。ただし銀子・八一と異なり、林葉が先崎より年長。林葉は女流タイトル計15期を誇る。)

 

 p.9 八一の昇段履歴、奨励会入会から四段まで6年1ヶ月。三段リーグ開始以降では相当早い。例えば渡辺棋王や菅井王位、中村王座も6年くらい。順位戦1期目は昇級できず。

 

 p.10 放尿、故米長九段が敗れたときの所業。弟子の先崎九段が師匠の後ろから胴体と愚息を支えざるをえなかった、みたいなことを先崎九段のエッセイで読んだような。

 

 p.12「若々しさを解き放」つ、谷川九段を紹介した新聞か雑誌の記事のキャプション。

 

 p.15 「将棋雑誌」、昔は『近代将棋』とか『将棋ジャーナル』とか『週刊将棋』とか……(涙)。

 

 p.16 「美しい少女」、これは八一による評価でもあると受けとってよさそう。ただしその外面的な美しさに八一が惑わされる時期は内弟子時代に滅んでる。

 

 p.17 「謎の雄叫び」、加藤九段が中原十六世名人から名人位を奪取する直前、相手玉の詰みを発見したときの奇声と伝えられるものと似てる。

 

(追記:p.17 「おおーっ!」「やった!」、NHK杯トーナメントで18歳の羽生五段(当時)が大山・加藤・谷川・中原と名人経験者4名を破って優勝したとき、その加藤戦で有名な5二銀を打った瞬間に解説の米長九段が叫んだ台詞、と似てる。つまりこの場面を現実の棋界ネタ元に置き換えると、放尿事件の当事者が放尿に喝采していることになる。)

 

 p.19 「タイトルくらい私も持ってるし」、八一からすれば姉弟子の保持数が自分より多いという劣位の痛感。しかし奨励会員の銀子からすれば、あくまでも女流タイトルだけど、という言外の留保があったものか。おそらく銀子は女流棋士界を見下しているわけではなく女流タイトルにも誇りを抱いているだろうが、両方に関わっていることによる揺れはあると予想。

 

 p.21 異名、それぞれ佐藤康光九段・田中寅彦九段・森けい二九段・中村修九段・山口恵梨子女流二段・長沼洋七段・所司和晴七段・故佐藤大五郎九段か。

 

 p.24 「えっ!?」、さすがの八一も動揺する模様。

 

 p.33 「なぜ姉弟子の希望が」、最初から入り浸る予定なので自分の気に入る部屋かどうかは大事だったということか。あるいは「ワンルーム」だと将棋を指す部屋にベッドも置かれるかもしれないなどの理由で2DKを選ばせたのか。

 

  p.37 「手が震えて」、羽生竜王の有名な癖。他の棋士も終盤はえずきが止まらないなどあり。

 

 p.65 「一人暮らしをするときの練習」、じつは二人暮らしの練習だったりしないか。手料理を食べさせようとするのは桂香を見習いつつの対抗意識か。なお致命的に料理下手なのは、あいが料理はもとより家事全般に長けている(p.59)のと好対照。

 

 p.75 『……八一に嫌われたかと思ったから』、八一は胸熱だがしかし銀子に「嫌われたかと思」うような心当たりがあるのだろうか。予想は2つ。まず、自分が八一のVSの相手としてふさわしくない程度の実力だと見なされてしまったのではないか。しかしその場合は「嫌われた」という表現はしっくりこないかもしれない。次に、前日の出来事が直接影響している可能性。これは、師匠の尿まみれズボンが二人の関係を壊すほどの凶器だったのでは、と銀子が想像しているという場合と、ズボンを我慢してでも持ち帰ってきちんとクリーニングしてくるという女子力を自分が持ち合わせていないという事実に八一がうんざりしたかもしれない、と銀子が懸念しているという場合がある。

 

 p.76 「カップ麺を食べても竜王の味」、橋本八段がA級昇級したときのツイッターポストのパロディ。

 

  p.77 「そうじゃなくて――」、に続く言葉は後に八一自身が気づくように「俺は俺の将棋を指す」ということが(タイトル保持者の責任に振り回されて)できずにいるためということだろう。ただし直前の「八一は弱くなんかないよ」という一言は、八一を励ますとともに、八一と競い合ってきた銀子自身への、まだ奨励会を抜け出せない焦燥感を押さえつけるための言葉でもあるかもしれない。

 

 p.82 「いつのまにそんな普及に熱心になったの?」、日頃(人見知りなのにp.212)イベントにかり出されつつ普及に努めている(p.109, 309)女流タイトル保持者としては、竜王なのにそんなにお呼びもかからず研究時間が確保できてる八一を羨ましく思いつつ、そんな気持ちを抱く自分を戒めていたかもしれない。あいへの対抗意識はさておき。

 もう一つ、「半分は事実」(p.76)としてもごまかしのために将棋を言い訳に用いたのは、銀子としては許せなかったのかもしれない。「将棋盤の前では」(p.83)。

 

 p.86 「ここまで感情を顕わにするのも珍しい」、銀子にとってそれほどまでにこの親密圏にあいが乱入してきたことが許せなかった、あるいはまた、あいが銀子の素の感情を向けられる相手になり得ることの示唆。

 

 p.87 「指を折ってカウント」、そういう所作は「よく見て」るのに肝心なところで朴念仁だよね八一くん。もっとも、指の動きは対局中でも相手の心中を察するために確認してるのかもしれない。姉弟子と学んできた「盤外戦術」の手がかり。

 

 p.88 「百折不撓」、木村一基九段の揮毫扇子だっけ。

 

 p.90 「姉弟子は気合いとか根性とか大好き」、重要な指摘。たぶん奨励会と女流棋戦を掛け持ちする決意の背後にも銀子自身のこれがある。「『空銀子を潰す会』」(p.193)などに立ち向かってきたという現実もある。というか重度の人見知りで家事も不得手な銀子には将棋しかないし、将棋で一緒に向き合ってきた八一しかいない。

 

 p.91 「二人で取り合っていたのだ」、最初のうちは銀子も本当に桂香を八一と「取り合っていた」のだろうが、いつの頃からか八一が「桂香さんをお嫁さんにしてあげる」と言うたびになぜ自分をお嫁さんにしないのかという嫉妬心で弟弟子を蹴ってたりしてなかったか。

 

 p.97 「プロ棋士女流棋士の違いもわかってない」、これ銀子からすると許しがたいよね。ただし、ここでの銀子はあいとまだ対局してない、つまり盤を挟んであいの本気を直に知る前の段階。

 

 p.101 「姉弟子の動機は『復讐』」、勝つまでは負けない根性の銀子の奨励会の戦績はいまいかほどだろうか。

 

 p.104 「効き手の側にだけ、皺が寄っていた」、これ後に八一が少女たちの恋愛方面での煩悶によるスカートの皺を将棋方面でのそれと誤解する展開? それとも「効き手」じゃない側に皺が寄る展開?

 

 p.106 「ソースで真っ黒」、銀子があい手製の金沢カレーを食べるときどうなるんだろう。

 

 p.107 銀子の女流棋界の情報だけなので、奨励会入会がいつなのかをあえて明記していない。

 

 p.117 「年下にはこれっぽっちも」、銀子は「姉」弟子であると同時に年下という絶妙なポジション。

 

 p.131 「貴族趣味」、佐藤天彦名人は貴族趣味だけどさすがにこうではない。

 

 p.133 「専用の空気清浄機」、窪田七段だろうか。

 

 p.135 「自分にとって」、有名な米長哲学。

 

 p.136以下 さすがに現在こんな会話は対局中やらないけど、昔の棋士はタイトル戦でも午前中などのんびり世間話していたそうで。

 

 p.141 「外へ食べに」、現在は禁止されちゃいましたね。

 

 p.152 「『神鍋? 強いよね』」、NHK杯トーナメントの対局前インタビューで佐藤紳哉七段が対局相手の豊島八段について語った迷台詞のパロディ。

 

 p.163 「俺の視線に気づく素振りすら見せず」、あいは盤面だけを見つめて八一の勝つ手順を探し続けてる。つまりあいはまだ盤外戦術を使える段階にないとも言えるし、八一の顔を見て応援するのではなくあくまで手順を探究するという将棋指しとしてのあいの素質を示しているとも言える。

 

 p.167 「(鵠)」、そうそう新聞の将棋欄にはこういう署名があるよね、と爆笑しました。

 

 p.172 「戦後のプロ公式戦で最長手数」、ついこないだの2月27日の竜王戦ランキング戦2組で牧野光則五段と中尾敏之五段が420手(持将棋)で記録更新しました。

 

 p.175 「いつも日が暮れるまで」、八一が銀子について語るとき、内弟子時代が長いから当然なんだけど、過去の回想が多い。それだけ二人の関係が深く八一に銀子が及ぼした影響が大きい一方、姉弟子の過去の姿にとらわれすぎて現在の銀子の変化を見逃しがちになる原因ともなっている。基本的に、八一は銀子と自分の関係を、これからもずっと変わらないものとして無自覚に信じている。しかし銀子は、棋士としても思春期の男女としても変わっていかざるをえない自分達に(揺れながら)向き合おうとする。この両者のずれが、すでに第1巻でも各所で描かれている。

 

 p.182 「終盤でひっくり返せば……」、この台詞を八一はどういうつもりで言ったの? 桂香のアドバイスに対するまぜっかえし程度のつもりか。さきほど記したように、八一は銀子との関係を弟子同士の確固たるものとして認識してるので、「女心」をそこまで深刻な・恋愛的なものとしては受け止めていなさそう。「姉弟子の事は俺が一番よくわかってる」(p.183)もそのへんの自信の表れであり、また将来の大きな過失をもたらすであろう錯覚。

 

 p.185 「本場の金沢カレー」、アニメ版で描かれた真っ黒なルーを見て、原作を読まない段階のぼくも「ゴーゴーカレー?」と呟きました。「麻薬でも」(p.192)は『庖丁人味平』のブラックカレーネタか。

 

 p.197 「かおってゅんだよー」、超かわいい。

 

 p.202 「師匠が横にいる事もあってか」、こういうのと同じような八一の誤解が銀子について大きな過失を生むはず。

 

 p.203 「澪ちゃんも綾乃ちゃんも楽しそうだね?」、日本将棋連盟モバイルCMの矢内女流五段「綾ちゃんも恵梨子ちゃんも楽しそうだね」より。タノシソウダネ。

 

 p.212 「根性鍛え直す」、銀子の焼き餅と対抗意識でもある。

 

 p.214 「USJに新しいアトラクションができたんだって」、銀子が八一を露骨に日曜デートに誘っている……! しかし八一は「リズムを取るために喋ってるだけ」と聞き流してしまっている。お互いの読みがまったく合わない。その理由は八一が「俺も姉弟子もそんな場所に行くくらいなら」と過去の自分達の傾向をもとに判断してるから。たしかに内弟子時代はそうだったかもしれないが、いまはなー。お前なー。もっとも、女流タイトル戦や奨励会や普及活動で大忙しのはずの姉弟子が「そんな」ことにかまけるはずもないだろう、と考えてしまうのは無理ないかもしれない。

 

 p.220 「全裸」、たしか王将戦でタイトル奪取した故米長九段が喜びのあまり全裸、弟子の先崎九段も命じられて一緒に裸踊り、みたいなエピソードがあったような。

 

 p.239 「絶対王者」、羽生竜王が20代の七冠独占前後の頃に将棋を「人間力」の勝負から純粋な論理ゲームへと解放した。もっとも羽生竜王の勝負術は以下略。

 

 p.243 「あの子にそんな面があったなんて……」、「強情な子」であることはたぶん両親とも分かっていた(明らかに母親似の性格だし)が、あくまでそれは家族の中だけのものと思っていたのかも。旅館のお客さん相手には、しつけられたとおり愛想良く振る舞ってきてたのだろうし。

 

(追記:p.244 「対局七つ道具」、窪田七段ですかね。)

 

p.254 「女性で奨励会入品」、里見香奈女流五冠(元奨励会三段)や西山朋佳奨励会三段、加藤桃子女王(現奨励会初段)と、ほんと増えましたよね。

 

(追記:p.266 「だから親しい友人も恋人も必要ない。」、そう思ってる八一こそが銀子にとっての、な? お前、な?)

 

(追記:どこかで「と断言」というフレーズを目にした覚えがあるけど見つからない。対局ネット中継の検討室コメントで「行方八段は誰々勝勢と断言」したのにそのあと逆転してしまったことに由来するネットジャーゴン。)

 

 とりあえず以上です。

『りゅうおうのおしごと!』第1巻感想

 白鳥士郎りゅうおうのおしごと!』(GA文庫)第1巻の感想です。以下ネタバレ。

 

 こないだアニメ版が終了した本作品ですが、ぼくは全話録画しておきながらも加齢による気力減退によりいっこうに再生せずにいました。それがつい先日、容量が限界に近づいてるので少し消化するかな、と重い腰を上げて第1話を視聴したところ、あいの入浴シーンが流れて何故みんなもっと早く教えてくれなかったんだ(いつものパターン)。するとネットご近所から原作をまず読んでみてはとのご助言をいただき、翌日には本屋の平棚に第1巻と第2巻が1冊ずつだけ残ってたのを購入。アニメ版視聴もいったん第2話までで止めて、そこに対応する原作第1巻を読むことにしました。
 もっとも、アニメ版第1話でひっかかったのはそういうシーンだけでなく、冒頭の竜王戦終局直前の場面であいが八一に水を飲ませてあげてるとき、コップを持っていない方の手でハンカチを八一の顎の下に添えてますでしょ。あとで原作を確認したらハンカチについての叙述はないのでアニメ版独自の描写なんですが、水差しではなくコップなので飲ませづらいため水が和服にこぼれないようにハンカチを添えるというこの細やかな心遣いが、少女の人となりを、あるいは(これもぼくは後に知ることですが)老舗の旅館の一人娘として教育されてきた過去の蓄積を、この一描写だけで伝えてくれたのですね。こういうこと丁寧に表現する作品は、わりと信頼できる。そういう勘が働いたことも後押しとなりました。

 

 さて原作第1巻。
 ぼくはほぼ四半世紀にわたって『将棋世界』を購読している、しかし自分で将棋を指すことはめったにないという、いわゆる“観る将”の典型です。棋力はないに等しいのですが、棋士女流棋士の戦いぶり、それにまつわるエピソード、勝負師としての生き様などにずっと惹かれてきています。将棋関係の書籍もたまに買いますし、NHK杯もネット中継も観戦してます。

 そういう人間がこの第1巻を読めば、各所にちりばめられた将棋界ネタにそりゃもうくすぐられるわけですよ。プロローグはさておき、敗れて放尿(米長永世棋聖の奇行)、カップ麺の味(橋本八段がA級昇級したときのツイッターポスト)、空気清浄機(窪田七段の儀式)など、将棋ファンが知る様々なエピソード。将棋盤の裏側の「血溜まり」(アニメ版で銀子が盤を裏返せと命令した瞬間に気づいて爆笑しました)。そういうくすぐりを入れながら、将棋界や棋士将棋会館などの説明と描写。タイトルを奪取することの、奪取してからのとてつもない重圧。自分には消化試合だが相手にとっては大切な対局こそ全力を尽くせという米長哲学。『将棋図巧』を解くということのとてつもない凄さ。といった現実の棋界に即した情報が、作品世界を裏付けていきます。

 

 その裏付けの最も根底にある、最も重たいものが、奨励会と研修会の描写。プロの棋士女流棋士になるための狭き門。
 年齢差のある教育的バディものってわりと好物なんですが、一方の主人公の八一はすでにプロの棋士であり、竜王という最高タイトルを手にしており、物語の開始時点で相当苦悩しているものの、棋士の中ではこの若さで棋史に名を刻んでいるトップ中のトップです。自身では無知ゆえの一発と謙遜してますが、勢いで一発入れられるだけでもう図抜けてる。名人位が実力制になって以来、将棋タイトルを獲得できた棋士は40人に満たないんですよ。これを多いとみる人もいるかもですが、大多数の棋士はタイトルに挑戦するまでに至らず、挑戦してもあと1勝が届かない。とくにこの20年ばかりは羽生世代の分厚い壁に阻まれて、上の世代も下の世代もずいぶん割を食ってきました。もっとも羽生世代の棋士達も羽生永世七冠のおかげで以下略。タイトル以外の棋戦優勝だって大変なことです。そういう世界でタイトルを、しかも竜王を、しかも中学生で棋士になった者が獲得したというのは、藤井六段以前の中学生棋士がみな名人か竜王になっていることもあり、さらなる将来が約束されたも同然なのです。
 だけど、そういう周囲の評価はともかく、八一自身はどん底にいる。それはもう作中でこれでもかと述べられているとおりで、その辛さをぼくも否定するものではありません。そして、その闇から抜け出せずにいる中で、あいが自分の言葉をきっかけに勇気をもって来てくれたことが、そしてひたむきに将棋に打ち込むその姿、師匠の勝利を信じて読みに没頭するその姿が、彼を立ち直らせていくこともまた素晴らしいことであり、読みながらおじさん泣いちゃった。
 ただ、やっぱり八一はそれよりも前に、深い闇のトンネルをくぐり抜けてきているのです。本人に自覚がないのか第1巻ではまだ不明ですが。おそらく彼は、奨励会を、三段リーグをすんなりと突破してきている。四段に昇段してプロの棋士となるための、半年に2人しか突破できない狭き門を、中学生のうちにまたぎ越している。それは現実の棋界でも、加藤・谷川・羽生・渡辺・藤井というわずか5名のとんでもない棋士達だけが成し得たことです(追記・最初は中原十六世名人も含めてましたが勘違いでした)。多くの棋士達が、これまで一番嬉しかったことは四段になれた時だったと答えています。三段リーグには絶対に戻りたくないと語る者もいます。素晴らしい才能がありながら、たった1勝の差でそこから抜け出せずに年齢制限で退会する若者が、毎年何人もいます。その残酷さはp.259に記されたとおりなのです、が、ここの描写にご注目ください。完全に叙述トリックですので。

 

 p.259の3行目の地の文章は、八一の独白です。「姉弟子」という表現からそれと分かります。そのまま6行目まで、この八一視点の叙述は続いています。
 しかし、奨励会員の台詞をはさんだ8行目、「観戦する奨励会員の囁きが聞こえた。」の一文は、じつは八一視点ではない第三者視点の可能性があります。少なくとも、ここでは「姉弟子」など彼固有の表現が用いられていませんよね。
 そこから続く9行目以降、このページ末尾までの叙述にも、八一自身の言葉と分かる箇所はひとつもありません。つまりこの9行目以降は、作者が棋界の常識として説明している文章なんです。
 ところが、ページをめくってp.260を見て下さい。銀子の無言の台詞を置いた直後の2行目です。ほら、「姉弟子」という文字が復活してるでしょ。
 この部分が、第1巻の肝です。
 p.259をするっと読むと、過酷な奨励会で自らも苦しんだ八一が、その過去を振り返りながら独白しているかのように理解できます。しかし、そうじゃないのです。「姉弟子」という文字を含まない9行目から最終行までは、作者による説明にすぎません。つまり、八一は、奨励会で苦労した記憶がないのです。そのことは、この観戦中であるp.267にはっきり彼の独白として表現されています。「正直、奨励会に入ったとき温いとさえ感じた。」そして事実、八一は「温い」奨励会を難なく突破し、中学生にして棋士となり、その実力どおりに若くしてタイトルを奪取したのです。(追記:p.259の後ろから3-2行目には「十年以上一緒に研鑽してきた」とありますが、p.9によると八一は6年で奨励会を駆け抜けてますね。これも根拠のひとつになります。)

 

 だから、この奨励会についての叙述は、八一に関わるものではありません。では誰にか。いま懸命に戦っているあいのためか。もちろん違います。それは、あいの対戦相手である銀子のためのものです。
 銀子についての描写を最初から確認していけば、まず彼女は八一を同じ内弟子として家族の一員のように思っていますし、おそらく最近になってからでしょうが一人の異性として意識しはじめています。それは、人見知りな彼女にとって甘えられる弟分であることから始まり、しだいに「嫌われた」くない存在として意識されてきているのでしょう(p.75)。それゆえに、八一にべたべたするあいの存在を疎ましく思い、苛立ちもするわけです。
 でも、そこにはさらに、将棋のプロを目指すものとしての屈折があります。かつて同じ尊敬する師匠のもとで内弟子を経験し、幼少期を一緒に生活してきた銀子と八一。しかし、いま奨励会を突破してプロとなっているのは八一だけです。姉弟子の銀子は、まだ二段(p.253)。三段リーグにさえ参加できていない。たとえ女流棋戦でタイトル2つを獲得していようとも、女流棋士に一度も敗れていないのだとしても、同じ釜の飯を食ったはずの姉弟の差は、途方もなく開いてしまっています。五万局もの戦いを重ね、「もう一人の俺」(p.267)とまで八一が認めるにもかかわらず、銀子はいつの間にか八一のずっと後方にいるのです。もはや、弟の背中も見えないくらいに。
 それでも銀子は、自分の精一杯の努力を続けてきました。女流棋戦に参加することは、自分の棋譜奨励会のライバル達に知られてしまうというリスクを伴います。でも銀子はあえて参加し、実績を出しています。ただし女流タイトル初獲得は2013年度(p.107)。八一の四段昇段は2015年度(p.9)。このとき銀子が奨励会のみに集中せず女流棋戦に参加したことを後悔した可能性はあるかもしれません。いや、そういう後悔を絶対に自分に許さない子という印象はありますけれど。そうやって胸を張って気弱さを封じ込めて生きているからこそ、ほかならぬ弟弟子には甘え放題ですよね。というか、八一だけにしかそんな面を一部たりとも曝け出せない。だけど/だからこそ、八一には、自分の将棋指しとしての弱さを見せてはならない。

 

「おしっこ漏らすくらい、将棋負けるのに比べたら何でもないでしょ?」
「だって将棋ってのは命のやり取りでしょ? 殺し合いでしょ? 殺し合いの最中におしっこが漏れるとか漏れないとか気にする余裕なんてある方がおかしいし」(p.23)

 

 この一連の台詞に八一は半分ヒきながら敬意を新たにしていますが、この銀子の台詞が奨励会二段でもがく彼女の本心とすれば、どうでしょうか。おしっこ漏らして四段になれるのなら喜んで失禁する、という段階すら通り越して、銀子はただひたすらに棋士になるため勝ちたいのです。
 だから八一とVSもする。それは内弟子時代からの習慣であるとともに、自分よりも先に行ってしまった八一から教わる貴重な機会でもあり、また遠く離れていきそうな八一を引き寄せる唯一の手段でもあります。不器用な彼女は、盤を挟んでしか八一と素のまま向き合えないのですから。盤を挟んでしか、VSを通じてでしか「棋は対話」を通じた全面受容関係の維持確認ができないのですから。そしてそこからはみ出てしまう想いや言い訳が、手料理という試みに具体化され、八一は鈍ちんなのでもうまったくもう。
 銀子にしてみれば、可愛い弟分がいつの間にか猛スピードで遠い先へ行ってしまい、自分だけ取り残された気分です。それを払拭するには、将棋の実力で追いすがるしかない。もしも銀子がそのことを諦めたのなら、奨励会を退会してたでしょう。でもそうじゃない。銀子は決して諦めない。諦めてしまったら、それはあの内弟子の日々を、八一と分かち合った日々を否定することにもなるからです。
 そして八一も、銀子のことを心底信じています。そのうち奨励会を突破して四段になるのだと、おそらく確信してる。そうでなければ、研修会の話などを姉弟子にするときにもう少し屈託があるはず。いや、もしかするとそこでの疑念を無自覚に封じ込めてるだけかもしれないけど、いずれにしても「史上最強」の姉弟子への信頼感は、女流タイトルや全勝という客観的事実だけでなく、銀子とのあの「五万局」の日々に裏打ちされています。姉弟子まだ中学生だし。俺と同じ年齢までに四段になるでしょ当然。みたいな感じかもしれません。だから先ほどの奨励会についての叙述でも、八一は奨励会員としての銀子について一言も語りません。語る必要ないから。それほどお互いを認め合えばこそ、なのです。銀子だってそれに一日でも早く応えたい。

 

 ああ、なのに。それなのに八一は、どこぞの小童を下宿に引き入れ、あまつさえ弟子として受け入れてしまうとは……。
 もうこれについては言葉を費やす必要はないでしょう。銀子にとってあいは二重三重に敵対すべき相手です。と同時に、将棋という同じ夢を見てしまった者同士の共感も抱いています。連帯感をもちながらお互いを蹴落とすという奨励会員のありようがここに見出せるわけですが、まだ銀子とあいは同じ土俵にはいません。あいは研修会、つまり女流棋士になる方の道をいまは選ぼうとしています。それはたしかに、勝ち上がることで銀子の持つタイトルに挑むことになりはするのですが、真の対決は銀子の本筋で行われるのではないでしょうか。それは、あいが八一の後を追いかけて奨励会に入り、女流棋士ではなく棋士を目指そうとすることで、現実のものとなります。そしてこの対決は、半年にたった2人だけの四段昇段をめぐる、八一と向かい合うたった1つだけの場所をめぐる、壮絶な戦いとなるはずです。
 とはいえ、そんな先の想像をめぐらすのはだいぶ手順前後な気もします。最初にスルーしたプロローグをもう一度読んでみましょう。完全ギャグなやりとりですが、あいは(八一との初対局以来そうですが)八一の表情を読みながら自分の指し手を考えてはいません。あくまでも盤面没我、局面だけに意識を集中してひたすら読み耽り、論理ゲームとしての将棋に専念しています。ということは、八一が歩夢戦で解説していたような盤外戦術を自分でも使ってみるまでにはまだ至らないということです(あの表面的えっち台詞もそういう技術とは無関係でしょう)。盤を挟んでも八一の顔を見ることはない。銀子との差はおそらくそこにもあるでしょう。そしてやがて手を読み、顔を読み、心を読み始めるとき、あいは自分自身の心をも読み始めねばならないでしょう。そのとき銀子はどうするのか。どうなってるのか。今後の展開を、観る将として固唾をのんで見守りたいと思います。