考察コンテンツの基礎づくり・その2「ぶつけよう」

 考察コンテンツをこしらえるための基礎作業について、今日は後半部です。

 なお、ここでの「考察」とは、「自分の好きな作品の内容をもとにした、その作品をより深く・楽しく享受するための解釈・分析作業」としておきます。作品をとりまく社会状況や製作者側・視聴者側の都合などは、ぼくの関心事ではありません。

 

 というわけで今回のテーマは、「ぶつけよう」です。

 

 前回の「数えよう」で述べたのは、作品内の事象・描写をきっちり把握しておくことが、考察するための地に足ついた素材として必要であり大いに役立つものである、ということでした。作品内に根拠のない風評・デマはこの簡単な作業ひとつで実質的にふっとばすことができますし、たんに数えたりリスト化したりしただけのデータからでも思わぬ作品の魅力が浮かび上がってくることがあります。

 とはいえ、データ収集を越えて作品の分析・解釈を行うとなると、そのためには何らかの「問い」が必要になります。その「問い」に答えるプロセスを通じて、作品のさらなる魅力を発見できるわけです。これが考察を書く者にとってのたまらぬ楽しみなのですが、しかし「問い」の立て方というのはなかなか説明が難しいものでもあります。そこで今回は、ぼく自身が意識的に用いている「問い」の立て方のテクニックを1つ説明しようと思います。だいたいはひらめきとして思いつくことの多い考察の問題観点のうち、どこいらあたりはパターン的に作り出しているのか。

 その重要な部分を占めるのが、「ぶつける」という操作です。これは、作品内で示された事象を複数対比してそこに対立や矛盾を見出す、というものです。例えば2つの場面を並べてみたとき、世界設定が齟齬をきたしている・登場人物の性格描写が首尾一貫していない・前に発生した重大事が後に影響していない、などなどです。とくにアニメや漫画などのストーリー作品では、登場人物の言動が場面ごとに食い違っていると感じられてしまうと、視聴者としてはなかなかついていきにくいものでしょう。あるいは、多くの視聴者には気づかれていないものの、じつは作品描写に潜んでいる矛盾というものもあったりします。そういうものを正面に見据え、ガチンコさせて「ずれ」を指摘するのが、「ぶつける」ということです。

 ただし、「ずれ」を指摘することで「だからこの作品は出来が悪い」と言いたいわけではありません。ぼくが考察の目標としているのはまったく逆。つまり、その「ずれ」に(作品内での)筋の通った説明を与えることで、作品に対する批判・非難を一部解消し評価を高めたいのです。要するに、「なんかずれてる、おかしいな?」から「あ、そうつながるのか。すごくよくできてる!」へ到着するのが考察パターンの1つです。

  では、具体例にそって見ていきましょう。

 

 

1.「アニメ『ガールズ&パンツァー』にみる後継者育成と戦車道の諸相・その1 ~聖グロリアーナ女子学院篇~」

 

 一連のガルパン考察は、3つの前提に基いて始められました。まず「戦車道は授業科目なのだから教育目標があるはずだ」、次に「戦車道は学校で行う集団競技なのだから先輩後輩の間に教育関係があるはずだ」。そして最後に、「戦車道は伝統武芸なのだから伝統の継承がなされているはずだ」。

 ところが、この最後の前提について考えてみると、作品内で2種類の描写があることに気づきます。

 (ア)第1話の戦車道紹介映像で示された女性像は古風で良妻賢母的である。

 (イ)各校の戦車道は多様で、隊員の少女たちの言動は現代的である。

 このうち(ア)にだけ注目すると、「戦車道が求める女性像が時代錯誤だ」という批判が生まれます。逆に(イ)にだけ注目すると、「どのチームも個性的で今風だ」という賞賛が生まれます。しかし作品の中では、どちらも事実として描かれているのです。え、ほんとはどっちなの? それとも、どっちもなの?

 はい、ここで(ア)と(イ)がぶつかりました。これが今日のポイント、「問い」を生む操作です。すなわち、

「同じ作品の中で、(ア)と(イ)がなぜ・どうやって両立しているのか」

という問いがいま生まれたのです。

 

 ついでに、ここから「なぜ・どうやって」についての仮説を立てるまでのプロセスをかいつまんで示しておきます。

 まず、こういう一見矛盾した描写の問題に答えるときありがちなのが、「スタッフがいい加減に作ったんだろ」「しょせんオタアニメだし」など、製作者の能力や作品の質など作品外の事情に原因をおくタイプ。こういう根拠薄弱な決めつけは要するに「自分は考える能力を持ちません」という表明にすぎないので、却下します。

 次に、「戦車道は古臭い女性像を掲げてるんだけど、いまどきの戦車道隊員たちに無視されてるんじゃないの」など、(ア)と(イ)の作品内での断絶に原因をおくタイプ。これはさっきのタイプよりは作品の中身に即して考えようとしてますが、たんなる断絶にすぎないのであれば(ア)をわざわざ描いた意味がなくなりそうです。なので、もう少し両者をつなげられるように考えてみることにしましょう。

 そこで、「戦車道が成立した時代の女性像を今でも守ってる学校と、そうでない学校があるんじゃないかな」など、(ア)と(イ)の断絶を一部に限定するタイプが出てきます。劇場版の知波単を見るとこのアイディアの説得力が増すのですが、しかしテレビシリーズ放映当時ではあまりにも「そうでない学校」ばかりだったため、もう一歩という感じがしました。

 ぼくが最後に選んだのは、「戦車道が生まれたころはどこも同じ女性像を求めてたけど、当初の理念をそれぞれ校風や時代変化に合わせていった結果、同じ幹から多様な花が咲いたのでは」という時系列でとらえるタイプでした。幸い聖グロが個性的でありながらも第1話映像で語られた戦車道の原点に近かったため、これでいけそうだという予感をもてました。

 こうして、(ア)と(イ)は矛盾せずにその根底でつながっており、しかも各校の歩みが戦車道の多様性を生み出したのではないか、という視点を得られました。あとは聖グロを中心において、各校の相違点を比較検討すればいいわけです。そうすると、これまでは各校チームを「個性的」の一言で片付けていたのが、「最初の戦車道をこうアレンジした結果がいまのサンダースなのでは?」などと考えるようになってきます。その結果、「個性」の中身をもっと具体的に理解できますし、各校の歴史を想像して楽しんだり、その先端にダージリンたちがいることの意味をあらためて感じたりもできます。そして、今までスルーしがちだった細かい描写も、この視点で見返すと「あれ、もしや?」とつながってくる予感がして、作品が新たな姿で見えてくるのです。

 

 そう、つながってくると言えば……ぼくの聖グロ考察とプラウダ考察を読まれた方は、劇場版冒頭のエキシビションマッチに何かを感じられたのではないでしょうか。あの試合でなぜ聖グロとプラウダが組んでいたのか。あれは、戦車道元祖の聖グロと、聖グロ的戦車道の解体を目指してきたプラウダとの、歴史的な歩み寄りを示す光景でもあったわけなのです。しかもあの決着場面ですよ、しびれました。

 

 

2.「アニメ版『シスター・プリンセス』初期の危機とその超克 ~第3話の2つの表を手がかりに~」

 

  前回も「数える」の具体例として用いましたこの考察。そこでは2つの表のチェックによって、

 (ウ)妹達が共同生活の義務を公平に分担しようとしている。

 (エ)兄を独占する権利は不平等に振り分けられている。

ということが明らかになっていました。

 はい、もうお分かりですね。(ウ)義務は公平に分担してるのに(エ)権利は不平等、という矛盾です。普通に考えれば、2倍の機会をもらっている四葉に対して「ずるい。みんながんばってるのに」という文句が他の妹達から出てきそうなものです。

 このしごく常識的な想像に基いてぼくは、妹達の公平な義務負担と一見不公平な権利分有が矛盾なく釣り合うための論理(妹達の合意内容)を考察することにしました。いったんはこの割り振りで全員納得したわけですから、そこには最年少の雛子にも分かるような理屈があるはずなんですよ。それが何かは考察本文を読んでいただくとして、ここでのポイントは、2つの表の内容を数えるという単純な作業によって、登場人物たちの関係やその変化を読み取る(つまり作品全体を通して解釈するさいの中心軸をつかむ)ための「問い」を獲得できた、ということです。

 

 

3.「『涼宮ハルヒの消失』における少女の新生・接触篇 ~すれ違い続けるインターフェース~」

 

 この『消失』考察前篇では、キョンとの出会いから暴走に至るまでの長門有希の変化について論じています。その冒頭にある問題設定では、ぼく自身が発見したものではない「ずれ」が掲げられています。

 作中時間で11月にあたる『溜息』が、同じく6・7月にあたる『退屈』や「エンドレスエイト」(『暴走』所収)に先だって単行本刊行されているため、上述の路線修正によって長門の描写に時系列上の齟齬が生じているという意見もあるようです。例えば「ミステリックサイン」で化け物退治の主導権をとり「孤島症候群」で空気を読まない「ジョーク」を試みた長門のかすかな積極性と、「エンドレスエイト」や「涼宮ハルヒの溜息」での観察者としての消極性とが、微妙にずれていると言うのです。

  これは執筆当時よそで見かけた指摘でして、ここでの作品刊行時期への言及が事実かどうかは、その文章のすぐ下にある表のとおり自分で確認しました。いわば他者が示してくれた「ずれ」をぼくなりにチェックしたうえで引き取り、考察の「問い」として活かした事例ということになります。

 長門の描写に「ずれ」があるというこの「問い」に対して、やはりぼくは作者や出版社の都合で答えるのでなく、あくまでも「その人物の内面的な揺れとして捉える」ことを試みました。

この観点に立てば、長門は、キョンとの遭遇以来、直線的な変化ではなくいくぶんかの行きつ戻りつを伴いながら、『消失』での暴走へと至ったと考えることができるでしょう。そして、その戸惑いこそが、『消失』ではあえて露骨に描写されなかった長門有希キョンへの想いの強さを物語っていたものとして、あらためて理解できるかもしれません。

  結果として彼女の描写の「ずれ」は、「キョンとの間で繰り返されるすれ違い」の様々な段階を示すものとして捉え直されたのですが、それは考察本文をご覧ください。

 

 

 以上3つの事例を挙げてみましたが、ぼく自身が見つけたガルパンとアニメ版シスプリの「問い」は、どちらも何のひねりもないものです。もしもそこにひねりがあるとすれば、それはガルパンでは「第1話の戦車道紹介映像が現在も使われていることに注目した」、アニメ版シスプリでは「2つの表をちゃんと確認して比べてみた」という、作品内の描写をそのまま受け止めてその意味を考える姿勢が生み出したものにほかなりません。

 これについては「あんよ流・考察の書き方」でも、作品を鑑賞するさいの最も基本的な姿勢として強調しています。

 それは、誠実に観るということ。そして、作品に描かれた事柄の全てには意味がある、と信じることです。

  とくにアニメや漫画、小説などの作品などは、わざわざ手間暇かけて描いてる・書いてるわけですからね。無意味なものはひとつもないはずです。そして、そこにどんな意味を見出すかは受容する側の自由であり、腕の見せ所でもあるのです。