オタクとしての自分史その3

 さていよいよエヴァの衝撃。と言いたいところですが、ここで90年代前半にぼくがほぼ定期視聴したアニメ作品リストを確認してみましょう。当時とりわけ好きだった作品には◯をつけてます。

 

・1990年:『からくり剣豪伝ムサシロード』『キャッ党忍伝てやんでえ』『◯NG騎士ラムネ&40』『◯魔神英雄伝ワタル2』『魔法のエンジェルスイートミント』(ナディアは不定期視聴)
・1991年:『きんぎょ注意報!』『ゲッターロボ號』『◯ゲンジ通信あげだま』『◯絶対無敵ライジンオー』『タイニー・トゥーンズ』『トラップ一家物語』『魔法のプリンセス ミンキーモモ
・1992年:『宇宙の騎士テッカマンブレード』『風の中の少女 金髪のジェニー』『◯伝説の勇者ダ・ガーン』『◯花の魔法使いマリーベル』『◯美少女戦士セーラームーン』『◯ママは小学4年生
・1993年:『恐竜惑星』『◯美少女戦士セーラームーンR』(アイアンリーガー、ムカパラ、マイトガインは不定期視聴)
・1994年:『◯赤ずきんチャチャ』『美少女戦士セーラームーンS』(グルグル、ジェイデッカーは不定期視聴)
・1995年:『新世紀エヴァンゲリオン』『◯飛べ!イサミ

 

 おや、エヴァに◯がついていない……。どういうことでしょうか。

 

 この頃、とくに好きで単行本を揃えていた漫画作品をいくつか挙げてみると、藤田和日郎うしおととら』、長谷川裕一マップス』、椎名高志GS美神 極楽大作戦!!』、聖悠紀超人ロック』(スコラ社の再編集版)など。上で◯つけた作品と共通する点としては、好きなタイプの女の子が登場してるとかを除くと、いわゆる少年漫画的な熱さ(うしおやワタル2やライジンオー)、コミカルさと王道の結合(美神やセラムンやイサミ)、でかいSF的スケールと人間の営みの結合(ロックやマップス)といった塩梅です。そういうのを好んで試聴していた、そして今なおしているのがぼくというオタクなのです。というか、ごちゃごちゃ内省的になったりイヤな「リアル」風味で飾りたてたりする作品群に食傷してたのです。

 すると、そういう人間にとってエヴァは馴染み難い作品だったのか? でも、観始めてからは最終回までほとんど漏れなく視聴してたことは間違いありません。レイの初めての笑顔に撃ちぬかれたとか、いろいろ事情はありますけど、作品全体としてやはり気になる存在だったことは確かです。これ結局どうなるんだろう、と。

 ところで、先ほどの共通点のうち、最後のSF云々のものについては、該当するアニメ作品が例示されていませんね。はい、ここがエヴァに対するぼくのためらいということになります。エヴァも作品世界やテーマのスケールは大きかったのかもしれませんが、TV版最終回まで視聴したかぎりでいうと、風呂敷をたためていませんでした。まぁそれは映画版で、ということだとしても、あの作品にはぼくが好んで観たがるような人間の営みが描かれていません。あるいは、マップス世界のゲンやロック世界のヤマキ長官たちが存在していません。責任を担おうとする「大人」が、そしてその「大人」に抗いながらも学んで自分なりの担い方を模索する「若者」が、いなかったり最後まで頑張れなかったり。最終回できっとなんかやるだろうとぎりぎりまで期待していたシンジがああだとか。そここそがエヴァの同時代的価値なのだと言われればそれまでですが、ぼくはそういうの苦手なの。ロンギヌスの槍よりもスターティアにしびれるの。これは作品の優劣というよりぼくの好みの問題です。

  なお、『マップス』に出会ったのがおそらく1992年頃。ちなみに長谷川裕一作品に初めて出会ったのが1991年に雑誌『COMICクラフト』掲載の『童羅』というのはここだけの秘密。それはさておき、TV版最終回では「あー、これはこれで」と妙に腑に落ちた気分になりましたし、映画版エヴァ(テレビで観た)のラストではそれなりに風呂敷閉じた感をいただきました。

 

 さて、エヴァの物語がぼくの趣味嗜好と合わなかった一方で、エヴァをめぐる当時の活発な論争にぼくが興味を抱かなかった理由が別にあります。とても単純な話で、つまりネット環境がなかったという。あの頃はパソコン通信でしたっけ、テレホーダイの時間帯に掲示板のやりとりをダウンロードしておき、回線外してからゆっくり内容閲覧するとかなんかそういう。友人がやってたのを数回見せてもらったことがありますが、そういう新しいメディアなどに食いつくのが遅いうえ動くの面倒なぼくですから、言うまでもなく自分でネットにつなごうなんて思いもしませんでした。そして、そのダウンロードされた内容を横目で見た程度では、あの論争なるものを追っかけようとか、まして参加しようとかいう発想は浮かばなかったのです。

 もちろん、エヴァ視聴中にぼくなりの疑問を抱いたり、いわゆる謎について考えてみたりしたことは多々ありました。かつての『ムー』の読者ですし、死海文書だの生命の樹だの出てきて引っかからないわけがないのです。オカルト・軍事・美少女といった要素には簡単に食いついたうえで、しかし同時にどこかどうでもいいという冷めた感覚があったことは事実。

 なぜかといえば、そういった謎めいた要素そのものの解釈よりも、シンジたちがどうするのか・どうなるのかのほうがよほど気になったからです。作品世界を構成する要素は、登場人物の運命に関わる点においてしか意味をもたない。というのが、作品を楽しむさいのぼくの基本的姿勢です。彼らが行動する理由やきっかけ、その結果をもたらす要因、主題に向き合うさいの背景。それ以外の要素がいくらそれ自体として興味深かろうと、つまるところどうでもいい。ぼくにとっては、物語を楽しんだうえで味わってもいいおまけにすぎません。

 そういうぼくが読みかじったネット上の論争は、その「どうでもいい」部分にこだわっているように感じられました。そうでないものもたぶん少なくなかったんでしょうけど、わざわざ探す気になれませんでしたし。あるいは、ぼくがもっと若ければ、かつてイデオンに受けた衝撃のように、シンジたちから痛切な何かを受け取っていたかもしれません。しかし、実際はそうではなかった。ネットにかぎらず、雑誌記事や解釈本についても一切触れないまま、関連商品もまったく購入しないままに、ぼくはエヴァを他のアニメ作品同様に「野心的だったけど残念」という感想で片付けていきました。エヴァブームは、ぼくを巻き込まずに過ぎ去っていった台風だったのです。(続く)