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オタクとしての自分史その5

 さて、いよいよ2001年放映のアニメ版シスプリ(以下アニプリ)についてです。じつは、この作品にぼくがここまで入れ込むというのは、相当に紆余曲折あってのことでした。結果的に見れば、まぁそうなるよね、という感じもしますけど。

 例えばアニプリ放映当時のぼくは、どれみなど少女キャラが多数登場する作品を好んで観ていました。それ以前の90年代後半もほぼ同様です。しかし、それらの作品はいわゆる美少女アニメではなく、女児向けに丁寧に作られたものばかりです。登場人物たちの個々の成長や相互交流、そういったものをきちんと描いてくれている作品を、ぼくは選んで観ているつもりでした。それに対して、いわゆるハーレムものと呼ばれるような作品は、ぼくにとってまず避けたくなる存在だったのです。

 ここで例に出すのも失礼ですけど、『天地無用!』(1995年)をぼくはまったく視聴していません。ちゃんと観ていれば気に入ったかもしれないんですが、第一印象が悪すぎた。つまり、「可愛い女の子が主人公を取り囲む」という番宣の印象が、それだけで媚びというか露骨な売り方を感じさせ、拒絶する理由になってしまったのです。

 もっとも、特定の登場人物に転げてしまえば簡単に視聴し始めるのもぼくであり、例えばスレイヤーズのアメリアなんかがそうですね。それでもアニメ版スレイヤーズの場合はわりあい王道的な物語が展開したこともあり、「ともかく美少女キャラを売り込もう」というふうには受け止めなかったわけです。

 要するに、可愛い少女が登場するアニメ作品を観たいけど、お話がいい加減なのは耐えられない。意地悪く言えば、「お話がしっかりしている」という言い訳のもとで、安心して美少女キャラを眺めていたい。そんな態度ということになるでしょうか。

 それではアニプリはどうであったかと言えば、当時の評価はさんざんなものだったはずです。いわく作画が酷い、お話が破綻している、山田氏ね、等々。続編の『シスター・プリンセス Re Pure』(2002年)Bパートがかなり原作準拠で(じつは結構そうでもない、というのは考察しましたが)高評価を得ていたことからしても、ファンが待ち望んでいたアニメ化ではなかった、というのがおおよその捉え方だったと思います。

 そして、上に記したぼくの視聴傾向からすると、いわゆるハーレムアニメの一つに数えてもおかしくない設定であることは間違いありませんから、普通であればそれだけで拒絶されて当然です。しかし、そうはならなかったのです。

 

 ぼくがシスプリに出会ったのは、友人の美森氏の家で『電撃G'sマガジン』付録か何かと思われるシスプリのキャラカードを「これを見ろ」と渡された時でした。炬燵に入っていた記憶があるので、2000年初頭あたりでしょうか。ファンになったのは最終盤でしたけど、出会いそのものはわりあい早めだったわけです。しかしその時のぼくは、「ああ、またこういう大勢の美少女キャラで攻めてくるような代物が。しかも妹12人とか、意味不明だしあざといな」と冷ややかに感じながら、とりあえず手の中のカードを1枚ずつめくっていきました。

 すると、そこに。可憐がいたのです。

 その絵はたしか基本立ち絵でしたので、オフィシャルキャラクターズブックをお持ちの方はp.30をお開き下さい。そう、その絵です。この可憐という少女に、ぼくはひと目で転んだのです。運命の出会いとか美化するまでもなく、ぼくはこういう姿形や服装にほんと弱いんですよ。つい最近もデレマスの島村さんにやられました。ただし、この時はまだ1枚の立ち絵だけでしたし、誌上企画での内容を知らなかったので物語性に惹かれることもなく、また「こんなあざとい企画にうかうか乗っかるわけにはいかぬ」という抵抗もあって、美森氏の「で、誰」という問いに「この可憐て子」と答えたものの、しばらくそれっきりになりました。ちなみにこのとき可憐の次に心揺さぶられた妹は雛子。案の定というか。

 

 それから約1年後、アニプリ放映開始となりましたが、ぼくの地域では観られませんでした。そのとき、づしのお二人がわざわざ録画テープを送ってきて下さったのです。ただし、このときのメインは同じく放映地域外だったコメットさん☆(これもDVDを買ったほど大好きな作品)の録画であり、アニプリ第1話はそのついで(というか奇襲兵器)として同封されていたのですね。ぼくはまずコメットさん☆をありがたく観させていただいたうえで、覚悟を決してアニプリを視聴しました。

 なんだこれは。

 初見では、前半かなり辛かったのを覚えています。コメディ……なのか、それとも……。あざとい萌えアニメ……なのか、それとも……。あと山田うざい。こんな感じで、その異様な導入にどうしていいか分からなかったわけです。

 ところがそのとき、可憐が空から降りてきました。

「お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん

 終わった。

 いえ、お話としてはなお辛いんですよ。あざとさやしょうもなさの印象を拭い去ることはできていないんですよ。でも、そういうの次第にどうでもよくなってきたのです。ああ可憐が動いてゆ。可憐が笑ってゆ。えへへ。第1話の可憐は、その後登場する花穂・咲耶・雛子に比べると抑制的で、あまり活き活きとした人格を感じさせません。だけど、それもとりあえず後回し。航の顔をハンカチでふいてあげている場面などで、可憐のアップ笑顔を見つめてぐんにゃりしている自分がいました。

 もっとも、これだけでアニプリに墜ちる理由が生まれたわけでもありません。何度か繰り返し試聴するなかで、可憐以外の描写にもさらに目が向けられていきました。航はいかにも受験キャラだけど、花穂に励まされて素直に感謝しているし、雛子の面倒を彼なりにしようとしてもいる。可憐や咲耶にデレデレするのもまぁ年頃の男子らしい。そして花穂や雛子は相応の子供らしい。これはもしや、それなりに真面目にこしらえてる面もあるのだろうか、と。

 いやいや、ぼくが当時そこまできっちり考えていたはずはありませんけど。むしろ、「こんなあざといはずの作品にはまってしまいそうな自分」を予感して、そうじゃないんだキャラに惹かれたんじゃなくてお話がよかったからなんだ、とか言い訳を早速探そうとしていたのかもしれません。それにしても、ここからぼくが自ら放映を追っかけようと努力することも、アニメや原作(本誌連載)やゲームの情報を集めようとすることもなかったのです。相変わらず動かないオタクでしたので、このまま行けばひょっとするとアニプリへのこだわりは消えていたかもしれなかったくらい。

 ところが、美森氏が親切かつお節介にも、第2話以降の録画テープを時折送ってきたのです。実際には2クール目の途中から録画に失敗していた模様で、ぼくが観られたのはたしか第3話から飛び飛びで第15、6話あたりまでと第24、25話だけ。しかし、そこまで観てしまえば、航と妹達がしだいに関わりを深めていく様子と彼ら個々人の変化、そして終盤2話分における燦緒による共同生活崩壊の危機を、知ることができます。最終回の大団円への関心もさることながら、ぼくはここで、この作品が自分にとって好ましい物語であることを、認めたのです。

 

 翌2002年、ぼくはDVD第2巻(第3-5話収録)を購入しました。アニメ作品のソフトを購入することも、当時のぼくにはきわめて稀なことでした。なぜ第1巻から揃えなかったかというと、第2巻のほうが3話分入ってるし、物語が展開するのもここからだし、もしじっくり視聴し直して気に入らなかったなら継続購入を止めるときでもお得感があると考えたからです。まだはまってるとは言いがたいですね。しかしその一方、前年末までにはすでに脳内家族に可憐と雛子が加わっています。とっくにはまってるとも言えますね。

 要は脳味噌とともにお金の使い方がだんだん緩んできたというわけで、この頃はシスプリのアニメ・ゲームムックや原作キャラクター・コレクションなどを買い揃え始めています。5月8日からは、その直前の連休に購入したキャラコレなどを一気読みしてますね。

そして5月12日には、キャラコレのハートマークの数を妹ごとに調べてます。5月17日には妹が兄を読んだ回数を。5月20日には行数を。我ながら何やってんのか心配になりますが(手遅れ)、おそらくだんだん分かり始めたシスプリの世界を、ぼくなりにどうやって楽しむか・より深く理解するかを模索していたのだと思います。

 ……いいえ、それは事実の反面にすぎません。この頃ぼくは、可憐に、自分の妹になってもらおうとしていたのです。5月7日の段階で、ぼくは「どうやったら可憐さんを妹にできるのだろう」などと記しています。この人……可哀想に……(鏡を観ながら)。このへん、じつに頭の悪い背景があったんですけど、もう説明するのも億劫です。つまるところ、ぼくは可憐の兄として認めてもらうために、アニプリ第3話考察を書き出していたのでした。可憐が好き。アニプリが好き。世間では低評価だけどそんなに悪くない作品なんだよ。ということをまとまった言葉にすることで、そこまで深く理解しているぼくだから可憐の兄として認めてもらえるよね、という気持ち悪い理屈でしょうか。我ながら血迷っている。ちなみに、DVD揃えて全話視聴できたのは7月下旬なので、この段階では物語の結末を知らないままで突っ込んでたわけですね。

 

 そのアニプリ第3話考察ですが、公開当初のものがこちら。この内容について身近な方々からご意見をいただき、それを元にしつつ修正したのが現在のこちらです。

 比べてみると、根拠ある作品内描写(ここでは当番表と<お兄ちゃんと一緒>表)を具体的に分析することで人物関係における何らかの意味を見出す、という方法論は共通。これまでやってきたキャラコレの数える作業とか、そういう頭悪くてもできることをコツコツ積み重ねて、そこから見えてくるものを提示しよう、というわけです。これは、批評系の鋭さを持ち合わせないぼくにとって、また作品を既存の枠組みや固定イメージに無理やりはめこんで評論してしまうことが嫌いなぼくにとって、ようやく獲得できた地味で着実で作品をぼくなりに尊重した理解の深め方でした。

 ただし、公開当初の内容では、たしかに2つの表をもとに妹達の関係についていくらか検討しているものの、それは結局は、いい加減なつくりの作品と評価されがちなこのアニプリが、2つの表に示されるように相応の論理をもって組み立てられているのだということを主張したいがための分析にとどまっていました。結論不明という意見をいただいたのも当然です。

 そこから大幅に修正した現行の内容では、第3話のなかで<お兄ちゃんと一緒>表を妹達が作成しながらも最後に破棄しているという事実をふまえて、兄妹関係や妹同士の関係の変化とその論理を読み取ろうとしています。表という作品内ガジェットと、物語の展開そのものとを、より丁寧に結びつけようとしているわけです。ここでようやく、共同生活とか妹達の葛藤と相互扶助とか航の兄への成長とか、そういった今後の考察の基本的視点がはっきり認識されていきました。つまり、アニメ作品を人物達の相互関係と成長において理解していくというぼくの視聴姿勢が、ここで考察スタイルのなかにしっかり根を下ろせたことになります。そしてこのスタイルによって、ぼくは、考察しながらその対象作品や登場人物達の新たな魅力に気づき、いっそう好きになることができるようにもなれたのです。

 ありがたいことに、アニプリ考察は公開当時あちこちで紹介していただき、様々なご意見も寄せられました。なかには厳しい批判もあったわけですが、それらを含めてぼくの書いた作品考察に反応をいただけたことは、とても嬉しいことでした。そのうえ、ぼくの考察を媒介としてアニプリに関心をもってもらえたり、評価をあらためていただけたりしたことは、想像もしなかった驚きであり幸福でした。それは、作品からぼくがもらった楽しみに対する、ぼくなりの作品への恩返しが僅かなりともできたように感じられたからです。もちろん考察者としてのぼく自身が褒められたという承認欲求を満たされる気分もありましたし、そこで舞い上がって失敗もしましたが、「この考察を読んで、もう一度観てみたくなった」「いっぺん観てみるか」という言葉を目にすることが、本当に嬉しかったのです。

 

 思えば、ネットご近所の方々にIRCで考察を公開前にチェックしていただけたことも、相当助かりました。問題箇所を指摘してもらえたこともそうですが、好意的に読んでくださるそのこと自体が、公開に向けてずいぶん勇気づけられたものです。あのIRCの閉鎖性はいま使ってるTwitterでは得難いもので、ネットへの露出はやはり段階的に行うのがいいと実感しつつ、感謝してます。

 また一方で、あれだけ各所で考察を紹介していただけたのは、シスプリのファンダムが活発だったことに加えて、個人ニュースサイト全盛期だったことも影響しているのでしょう。『カトゆー家断絶』をはじめとするその発信力たるや。公開のたびにあちこちで取り上げてもらえたことで、ぼくのサイトではとうてい届かないはずの方々にまで広く伝わったのはじつに大きかったと思います。

 ネットの状況といえば、だいたいこの頃から、ぼくがそれまで巡回していた多くのえろげ感想サイトが次第に更新を停止し閉鎖していきました。それはテキストサイトが廃っていくのと重なるようにして、なのかもしれません。そうなった理由は、たんにあの頃活躍していた方々が社会生活に入っていったから、なのかもしれません。ともかくもこの流れは、ぼくにとっては、えろげ界隈からアニメ・漫画方面へと(あくまでネット上での)重点をずらすことを促しました。とくにぼくが葉鍵以外のノベルゲー(いわゆる抜きげー以外のそれら)を滅多に購入せず、葉鍵にしても『To Heart』『CLANNAD』までしかプレイしていないようなえろげーまーですので、今木さんたちのブログなどを例外とすれば、最近のノベルゲーやそのライターについての批評などには一切関心を寄せずにきています。もちろんえろげ自体はずっと遊んでるんですよ。実用面重視で。

 

 こうしてぼくはアニメ版シスプリと当時のネット界を通じて、自分の作品への向き合い方やネット上でのあり方を再構築していきました。考察時に作品と向き合う基本姿勢や方法論については、後の日記でごく簡単に、考察の書き方でもっとややこしくまとめてます。自意識がこじれ何事も中途半端な一人のオタクが、やっとのことで自分に合った表現方法を得たのであり、アニプリがぼくをいっちょまえのオタクへと一歩近づけてくれたのでした。裏返して言えば、足抜けするタイミングを失っただけかもしれませんが……足抜けできるとしたらですが。また、何が一人前の条件かよく分かりませんけど、好きな作品について百万字近く綴ったというのはそれなりの専心ではないかと思ってます。

 さて、しかし時代はすでに2002年。しばしば最近年の転換点として挙げられる『涼宮ハルヒの憂鬱』アニメ化の2006年までもう一息です。この前後の状況について、ぼくの視点から書いていくことにします。(続く)