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「面白さ」に向き合って

 「面白さ」の覇権争いといったものが、ちょいと話題になってましたが。

 

 先日ぼくが記した「同調圧力」への対応も、つまるところ自分が好きな作品をめぐる解釈・受容態度についての衝突と言えます。この作品は、こう受け止めたほうが面白い、少なくとも自分にとっては面白い。同じような人がいるかもしれないので、届くことを期待して語ります。というわけですが、それは一面において伝達のみを求めていながら、実際には同意者からの反応を得ることによって集団形成を目論んでもいます。そして集団というものは必ず力を帯び、周囲の圧力から自衛するためと言いながら自らが圧力を周囲に及ぼしていく。そういうものでしょう。

 そもそもこういう話題に乗るか乗らないかの判断でさえ、ネットのある狭い世界の中での政治的力学とからんでいますし、ぼくがこの話題を論じている他所様のサイトにリンクをはらないのも、一定の距離を保ちたいというぼくのその手の判断に基づいています。だから、そういう要素について考え始めるときりがないし、考えたところでその影響から免れられるわけでもないけど、一応は自重・自嘲するための視点としてなるべく維持しておきたいな、という塩梅。

 

 そしてその一方、ぼく自身にとっての「面白さ」がこの10年で、あるいはサイト開設後の15年でどれほど変化したかを顧みると、……細かいとこはさておき、さほど変わってないように感じます。

 もう少し具体的に述べると、例えば漫画やアニメの絵柄の好みは変化しているかもしれない。変化というか、新たに好きになった作品の影響で範囲が広がってきているはず。でも、物語の展開や人物造形の好みは、たぶんほとんど変化してないし、幅も広がっていない。そこのところに目を向ければ、ぼくは時代の流れに適応する力が弱いのだと思います。もう固まっちゃったらその安定をあんまり崩したくないと感じるのが元々の性格なうえ、加齢の効果も上乗せされてますます自分の変化を受け入れ難くなってきています。

 感受性の柔らかさを失うのはやはり寂しいことなのですが、しかし逆に、それはそれでまぁいいかな、と思えるときもあります。例えば自分の過去の文章を読んで、今なお面白がれるときとか。書いた内容や表現は忘れてしまっていても、あらためて読めば「ああ、こんなこと書いてたのかー」の次に「けっこう面白いねこれ」と顎に手をやるわけです。自画自賛を言葉にするというのは品性の疑われる行為ですが、どのみちたいした品性の持ち主ではないので問題なし。当時の日記を読むとその時々の話題選びや意見表明に違和感を抱くこともありますけど、根本的な趣味判断や人間理解の点ではそんなに大きく変化してはいないと感じられるということ。これは、ぼくがまるで成長していないという証であるとともに、自分の中にぶれない軸があると信じられる根拠でもあるのです。

 

 もっとも、ぼくの文章が取り上げている作品が忘れ去られてしまえば、そこに寄生しているにすぎないぼくの文章もついでに消えてしまうものでしょう。それはそれで本望です。あるいはもしかするとぼくの文章が、誰かにとってその作品を覚えているための・思い出すための・もう一度みてみるためのきっかけになるかもしれません。そんなことが起きたなら、ぼくは好きな作品へのわずかばかりの恩返しができたことになるわけで、じつにありがたい話です。

 ともあれ、元のサイトを続けられるかぎりは過去の自分のコンテンツを(表現の微修正などはあるにせよ)1つも消すことなく残していくつもりです。時代の変化や自分の移ろいを映し出しながらも、そこに何か変わらないもの・変われないものが潜んでいるのだと信じて。