オタクとしての自分史その2

 さて続きです。80年代の経験について、つまり主に中高時代。

 

 あの頃のアニメで重要なものといえば魔法少女作品がありますけど、ぼくは『魔法のプリンセスミンキーモモ』も、ぴえろの『魔法の天使クリィミーマミ』以降のシリーズも、本放送当時は視聴してません。また、『アニメージュ』を読んでなかったので、『風の谷のナウシカ』もまだ知りません。このときはリアルロボットアニメばかり好んでました、というかメカが登場しない作品を遠ざけてました。

 とはいえ、そちらについても本腰入れて毎週観てたのは『超時空要塞マクロス』『超時空世紀オーガス』『巨神ゴーグ』『銀河漂流バイファム』『重戦機エルガイム』『機動戦士Zガンダム』……くらい? つまり、ザブングルダグラムボトムズなどにはほとんど触れずにいたわけです。年に2、3本しか連続視聴してませんので、アニメというジャンルそのもののファンとは到底言い難い状態でした。

 

 ただ、その一方で、自分が明らかに「そっち側」へ踏み込んだな、と実感していたことも事実です。その原因のひとつは、アニメ系の雑誌を読み始めたこと。それも『アニメック』と『OUT』。ただし、それらは好きな作品の特集時に購入する程度で、はるかに甚大な影響を及ぼしたのは『ファンロード』の定期購読でした。ちょうど隔月刊から月刊に切り替わる頃でしたか、ある友人から雑誌の存在自体は聞いていたのですが、自分で本屋で発見したのが運命というか。アニメ雑誌とは違った、表向きの宣伝臭のない拵えが、ちょうど厨二病のぼくには直球で届いたのかもしれません。

 そこでまず、自分が知らない様々な作品・作家をシュミ特その他で知る機会を得られたのがじつに大きかった。例えば新井素子の諸作品(最初に読んだのが『グリーン・レクイエム』)、栗本薫グイン・サーガ』(30年以上読み続けてる)。そして投稿者からは、ながいけん(2コマ漫画!)。次に、好きな作品をこうやってどっぷり楽しめるんだ、と気づけたのも相当大きかった。感想、真面目・パロディとりまぜた二次創作、用語辞典、等々。徹底的に味わい尽くす、自分の好きなやり方で作品を思い切り楽しむ、という姿勢が、雑誌全体を貫いていました。

 その一方で、一部のアニメ雑誌に掲載されていたような作品批評や賛否論争などは、『ファンロード』で目にした記憶がありません。作品批判にしてもユーモアのあるかたちでという。あくまでも「ファン」としての表現を、というあたりに編集長イニシャルビスケットのKさんの方針があったんでしょうけど、本来頭でっかちなぼくが批評へと向かわなかったのは、案外この雑誌の影響とも思えてきます。また、この雑誌をそのまま真似したわけではないですが、小山田いくすくらっぷ・ブック』について調べたり考えたりしたことを書きためたのは、やはり刺激を受けてのことだったかも。あの時たしか、全キャラクターの登場コマ数を全話分数えたりしてたはずで、のちのぼくの地道な考察スタイルが基礎づけられつつあったわけです。まぁ、絵を描けない・お話も創れない人間が、好きな作品について批評以外の何かを書こうとすれば、そういう地味な調査に向かうほかなかったとも言えますが。

 

 「そっちがわ側」の実感をもたらした他の原因はというと、宗教・オカルト・軍事などへの傾斜でした。要するに、ぼくを取り巻く世間とは無縁のものに強く惹かれていったという。『ファンロード』と並んでこのとき購読し始めたのが月刊『ムー』でして、いわゆる「世界の隠された真実を知っている」感がぼくを包んでくれたのでした。いつだったか「ユリ・ゲラーのテレパシー実験」というのが誌上で予告されて、特定日時に彼が1つの数字と1つの図形を念じて送るので読者が受信するというものでした。ぼくも自宅で受信を試みたところ、図形のほうは「成功」したのを覚えてます。ええ、かなり本気ではまってました。どれくらい本気かというと、『ファンロード』で『ムー』を揶揄する投稿が掲載されたとき、怒りのあまり『ファンロード』講読をやめたくらい。それも振り返れば、すでに惰性となっていた雑誌講読をやめる言い訳を、たまたま与えてくれただけなんでしょうけれど。事実、『ムー』のほうもその後ほどなく買わなくなってしまいましたし。

 一方、軍事方面は長続きしました。とはいっても軍事雑誌を購読するとかエアガン等のミリタリー趣味に走ったとかではなく、いわゆるシミュレーションゲームへの道です。小学校高学年時あたりでバンダイ『203高地』に出会って以来、ボードウォーゲームに興味を抱いてきたのですが、エポック『D-Day』を自費購入するに至ってとうとうそっちの趣味が花開いてしまいました。いや面白かったですね『D-Day』、何度もプレイしたものですよ。ただし対人プレイはたった2回。あと全部ソロプレイ。それ以降もゲームサークルなどに通ったためしなし。嗚呼、ここでも人見知りで引きこもりの性格が、趣味生活を左右していくのであります。『シミュレイター』や『タクティクス』といった雑誌は立ち読みばかりで、むしろ貯めた小遣いは新作シミュレーションゲームにまとめて使うものでした。そうしないとあの値段では買えない。そしてそこに金が要るので、優先順位の低くなった趣味分野への出費はどんどん切り詰められていきます。『ムー』などを買わなくなったのもそうですが、しかし好きな漫画や堅めの本を読むことはやめませんので、一般男子らしい趣味へと踏み出す気などますます起きようもないのでした。

 このような状況は、さらに高校時代にTSR/新和『ダンジョンズ&ドラゴンズ』と出会うことで、いっそう拍車がかかりました。それまでに『火吹山の魔法使い』など一連のゲームブックで下地が整えられていましたが、TRPGはその後ずっとぼくの趣味生活に根を下ろしていきます。人見知りなのによくもまぁ、と思われるでしょうが、つまりほとんど高校時代の友人だけとプレイしてきたわけです。海外ファンタジーの翻訳を読み始めるのは、このあたりからですね。

 

 そして再び漫画やアニメに立ち戻ると。ぼくはこの時期の各段階において、まず週刊少年チャンピオンにて内山亜紀『あんどろトリオ』に、また『ファンロード』記事にて『くりぃむレモン』シリーズに、そしてアニメイトにて森山塔『よい子の性教育』に、それぞれ遭遇していました。

 こういうの、ありなんだ。

 理想化された二次元美少女キャラがえっちい漫画やアニメでもんちっち。ここでのオタクの一性質として、「二次元で性的興奮を得られる」というものが含まれるとすれば、当時のぼくはまったくもってオタクの一員となっていたのでした。後のHENTAIである。

 この流れのままに雑誌『レモンピープル』などにも目覚めていくなかで、当然ぼくは自分が世間の「健全な男子」ではないことを再確認していました。そして、そこから戻る気がないことも。さらに、そういう自分が世間の人たちから白眼視されるであろうことも。まずもって家族から向けられる目が疑念と不安に満ちているわけですから、そりゃ分かりますよね。学業面でそこそこのレベルを維持することで体面を繕いつつ、また「勉強のストレスをこうして発散」などと言い訳もしつつ、一応は他人の目を気にしながらこそこそ趣味生活を営むという習慣が、この頃に備わりました。もっとも、こそこそしてたというのはぼくの主観に過ぎず、家族からすれば「もう少し隠せ」と言いたい有り様だったかもしれません。ただ、自室にその手のポスターを貼ることは中学時代でやめましたし、眉をひそめられそうな本は書架に並べないというのも早くから行ってました(だが母はつねに全てを探しだす)。

 こういう態度を「中途半端」だと言われればその通りです。当時も今もぼくはどれか一つの分野にこだわろうとしないオタクですし、同じ趣味をもつ仲間を探そうともしませんでした(自分を一人前のオタクと思えないのはこのへんの屈託があるからです)。コミケの存在は知ってましたが、自分で足を運ぼうとは思いませんでした。その趣味に対する世間の目に抗おうともしませんでした。正直なところ、気持ち悪がられるだろうな、まぁそうだよな、と我が身を捉えていましたから。その一方で、ぼくから見て気持ち悪く感じるような趣味にはまっている他人を、そのことによって否定しないようにしたい、とも思いました。内向的な人間として、できるだけお互いに干渉しないという原則を、守りたかったのです。そんなぼくの自室では、岩波文庫コバルト文庫と少年漫画単行本とが、ぼくの好きな作品として同じ書架に収められていました。ちなみに机の引き出しの奥にはエーズファイブコミックと富士見ロマン文庫が。

 

 さて、そんな自分が対人能力において相当困ったことになっている、とあらためて痛感したのは大学入学時でした。下宿での一人暮らしは楽でしたし、講義を聞くことも面白かったのですが、自意識がさらにこじれてきていたこともあって、他の「健全」な学生と一つの場を共有することがひたすらしんどかったのです(まぁあちらは一層しんどかったんじゃないかとは思いますが……)。とくに一部の女子学生から時折向けられる視線は、それはそれはモノを見るような、犯罪予備軍を見るような。あれは宮崎勤事件が起こる前のことですから、オタクへの攻撃はあの事件で強化されこそすれ、オタクが忌避される土壌はすでに出来上がっていたはずです。ただし、あの視線はオタク一般へのものではなく、たんにぼくという「根暗」な個人に向けられたものである可能性も高いので、そのへん留保しときます。

 その宮崎勤事件ですが、あのニュースを知ったときのぼくは(被害者の子供達への気持ちを省けば)「ああ、もっと肩身が狭くなるのかな」と思った覚えがあります。ただ、いわゆるオタクバッシングというものを、その後身近に感じたことはほとんどありませんでした。人付き合いがめっさ狭いのでそういうことしそうな人々と接触する機会がなかったし(先の女子学生たちともとっくに疎遠になってた)、居心地の悪さ・居場所のなさということなら日常的すぎて今更でしたし。また、バッシングされた苦痛を訴えてくるような友人がそばにいなかったというのも理由の一つかもしれません。たくましい友人が多かったのではなく、これまたたんに身近に親しい友人がいなかっただけ。むしろ成年漫画の消しが厳しくなるとか、そういう問題のほうが当時切実だったような気がします。腰の部分がまるごと真っ白とか。ええもう。

 

 もちろん、テレビその他での言われようについては若干触れる機会もあったわけですが、だからといって自分から何か行動する気も起きず。それでも一応、「健全」な人達から攻撃されたら、ということはぼんやり考えてはいました。ただし、そこで「いやオタクはそんな迫害されるべき存在ではなく」という具合に、オタク(としての自分)を弁護する気はあまりありませんでした。犯罪者扱いはさすがにたまりませんでしたが、気持ち悪く見られること自体は、そしてそういう対象を不安視して攻撃しがちな人がいることは、認めていたからです。

 そこには、自分というものへの諦めが横たわっていたようにも思えます。また、いくらオタクと自分の弁護を論理的に行ったとしても、まるで効果がないどころかかえって余計に怪しまれることを、そしてその弁護が本来のどうしょうもない自分の姿を隠蔽してしまいかねないことを、恐れていたようにも思えます。

 だから、当時のぼくは、もしも攻撃を受けたならオタクや自分の弁護を行うのではなく、攻撃してきた相手のどうしょうもなさをつきつけてやろうと考えていました。「うん、ぼくはそうかもね。でもそう言う君もこんなだよね、それはそれでどうなのかな」みたいに。「健全」で安全なつもりでいる者の化けの皮を観衆の前ではがしてやるほうが、どうせ火に油を注ぐなら相手へのダメージが残る分だけ楽しいからです。「死なばもろとも」と教えてくれたのは、映画版イデオンのザンザ・ルブ。

 まぁ実際そういう場面でどこまで頑張れたか分かりませんけどねー。幸か不幸か、そういう人達との接触さえ得ずにすむほど人付き合いのなかったぼくは、その閉じた趣味生活のまま90年代に入り、やがて『新世紀エヴァンゲリオン』と出会うことになります。(続く)