「探していた風景」を三たび聴く

 fhána佐藤純一さん作曲によるTVアニメ『長門有希ちゃんの消失』キャラクターソング「探していた風景」(畑亜貴作詞・酒井陽一編曲、『Character Song Series "in Love" case1 Nagato Yuki』 Lantis 2015年 に収録)を聴きました。また、この曲を聴くのとあわせて、漫画作品『長門有希ちゃんの消失』(ぷよ作 角川書店 単行本2010年より第9巻まで刊行中)を第8巻まで読みました。

 

 ぼくは自分の好きな作品の二次創作ものにはほとんど無関心なたちです。原作至上主義というか原作者至上主義というか、とにかく本来の作者による原作こそが唯一絶対であり。たとえ二次創作がどれほど面白くまた原作への理解を深めてくれようとも、原作へのぼく自身の関わり方に横から干渉してくるものとして警戒し、よほどのことがないかぎり手を出しません。この抵抗感はファンによる同人誌にも商業作品にも同じように抱くもので、それゆえ当然『長門有希ちゃんの消失』も読まず、そのアニメ化作品も観ずにきたわけです。そんなぼくが、このアニメ作品に関わるキャラソンCDを購入し、さらにその収録曲を聴くために漫画作品の単行本を揃えたという異例の行為に及んだのは、佐藤純一さんが長門有希のキャラソンを作曲されたと知ったからでした。

 好きな作品にまつわる歌曲であろうともその作詞家・作曲家の名を意識しないぼくですので、この方をそれまで追いかけてきたわけでは(失礼ながら)ありません。ただ、2010年にぼくが谷川流涼宮ハルヒの消失』(角川書店 2004年、以下『消失』)についての考察(接触篇発動篇)を執筆公開したとき、佐藤純一さんはTwitterにて好意的に言及してくださったのですね(直リンは控えます)。ハルヒシリーズの熱烈なファンである佐藤さんが劇場版『消失』を何度も観賞され、さらにネット上の感想・考察などを探されていて、その1つとしてぼくの考察も読んでいただけたということです。そのpostには当時のぼくがお礼を申し上げたところお返事を頂戴しまして、その節はありがとうございました。

 ところが先日のネット巡回中に偶然、佐藤純一さんがじつにハルヒシリーズやとくに長門有希に深いこだわりを持っておられることをようやく知り、またこの作曲家さんがあのときの方だと今更になって気づき、しかもごく最近『長門有希ちゃんの消失』の曲を手がけられたと分かりました。ここで興味がぐんと湧いてきたのですね。正直なところ、ぼくの考察がごくわずかでも作品受容に影響を及ぼしたかもしれない作曲家の方がどんな曲を書かれたのだろうか、という下衆な関心もぼくの中に間違いなくありました。また一方では、あのとき好意的なお言葉を頂戴したことへの感謝としてCDを購入しよう、という気持ちもありました。いやーあの考察、すんごい力を注いで書いたわりにはほとんど話題になりませんでしたからね。内心しょんぼりしてたぼくが、佐藤さんたちからあのときいただいた言葉にどれだけ励まされたかという。

 そんなこんなの思惑もありながら、ぼくは佐藤さんの曲を求めてCDを注文したわけですが、曲そのものを鑑賞するだけでなく漫画作品も読んだうえで味わいたいな、と考えて、単行本を第4巻まで一緒に購入することにしました。アニメ版のキャラソンですから本来そちらを視聴するのが筋ですが、ちょっと懐具合があれなので。

 

 さて、それでもまずは漫画単行本を読まないうちにと、いきなりCDを聴いてみたわけですが。

 この時点でぼくは若干の事前情報をもとに、本漫画作品がいわば”『消失』長門有希キョンをも操作対象に含めてしまった世界”を描いてるっぽい、というイメージを持っていました。そのうえで初めて聴いた「探していた風景」の印象は。

 恐怖。でした。え、なにこれこわい。

 先に述べたとおりぼくは原作至上主義者ですから、『消失』世界はきちんと消失しないといけないのですよ。それが作品世界における唯一無二の展開。そしてまた、原作小説の長門有希自身が、一方でその止むにやまざる欲求を世界改変へと暴走させながら、もう一方でそのような自分を何とか抑制しようとぎりぎりまで試みつつ最終的な決定権をキョンに委ねたはずでした。(その悲劇的な姿とキョンによる部分的救済を、ぼくは考察で描き出したつもりです。)

 ところが、この曲の長門はメタプレイヤー的な相貌がいっさいなく、ひたすら乙女。しかも『消失』のあの内気で無口な乙女どころではなく、意外なほど多弁。もちろん内心の独白だとしても、ここまではっきりと恋心を表現できてしまう長門は、もはや『消失』の長門ですらない。誰だ。君は。

 このときぼくが抱いた恐怖とはつまり、『消失』のキョンが教室で朝倉涼子に抱いたものと似ています。何かまったく異質なものがここにいる。かつて殺意をキョンに向けた朝倉に対して、ここにいる長門はそのような存在否定ではなく、キョン改変というかたちでの存在否定の結果なのではないか。長門、お前そこまでやっちまったのか……。正直、慄然としたのです。

  もっとも、漫画単行本を読まない時点でそのような解釈はやや勇み足。じつはキョンはあのときエンターキー以外を押すことを選び、その最終的決定を自覚的に担ったうえでキョンはこの長門と付き合っているのかもしれませんから。そうであるなら、キョンに受け入れてもらえた(メタ的にもですが、この長門にとってはあくまで個人的に)ことによって、眼鏡長門がずんずんと乙女ぢからを開放していったとすれば、この曲での描かれ方も納得いくものとなります。

 

 さて、では漫画単行本を開いてみると。

 ……ああ、これはこれで面白い。えへへかわいい。とくに妹ちゃんが。長門がんばれ。そしてこの朝倉には頭下がる。最初は第4巻まで購入したんですが、すぐに第5巻以降も注文しちゃいました。でも最新刊の第9巻だけ未入手なので、いま飢えてます。

 途中あちこちで、あれぇこの作品世界はいったい

  1.『消失』の中でキョンがその改変世界を選んだ結果なのか、

  2.『消失』を越えてキョンの人格・記憶まで操作してしまった結果なのか、

  3.『消失』と登場人物設定を流用しつつオリジナル恋愛物語に仕立ててるのか、

どれなんだ? と悩むことになりましたが、1.はそもそもキョンが朝倉をすんなり受け入れてる時点であり得ないとして、だんだんに3.で落ち着きました。その最大の理由としては、ハルヒが違いすぎる。つまり、物分りが良すぎる。原作小説でもハルヒは社会的に意外と物分りが良いんですけど、唯一キョンをめぐってはわけわからなくなるのがハルヒですから。たとえ長門の恋心に気づいてこれに配慮したのだとしても、『消失』のハルヒなりにもうちょっとこじれていいはずです。

 そう理解したとたん、ぼくの恐怖心はみるみるうちに溶け去っていきました。なぁんだ、よかった。これは純然たる二次創作なんだ、原作小説の世界とははっきり別の世界での話なんだ。あの連中は今までどおりあのまんま。こっちはこっちで独自の組み換えをして恋愛ものを描いてる。そのように両者を切り離すことができたとき、ぼくは安心してこの漫画作品に浸れるようになったのです。それはまた、原作の長門キョンの人格改変にまで手を染めたのではなかった、ということへの安堵感によるものでもありました。長門は自分を保てた。よかった。本当によく頑張った。ではこの漫画作品の長門は自分を保てなかったのかというと、こちらの長門はもはや情報統合思念体のインターフェースでさえなさそうですので、その問い自体が成り立ちません。そこでぼくは布団に寝転がってページを繰り、ああこの子はやくキョンとくっつくといいなー、と温かく見守る作業に勤しむのでした。

 そんなラブコメにニヨニヨした後、再び「探していた風景」を聴いてみたところ。ああ、これはなんと幸せな……まさしく「小さな幸せ」をもたらしてくれた「出会いの奇跡」をこっそりどきどきしながら歌った、可愛らしく微笑ましい恋する乙女の……

 え。涙が。なんで。

 ……そうか、これが……この風景が、『消失』の長門も求めてやまなかったものなのか。必死に求めてなお、届かなかったものなのか。

 この届かなさは二重の意味をもっています。まず、世界改変を成し遂げようとする長門が、改変後の世界で手にしたかった自分とキョンとの関係に対する、届かなさ。次に、改変世界内の長門が、都合よく改変されたはずのその世界にいるにもかかわらず望んで得られなかったという、届かなさ。長門の不器用さ、ためらい、自己存在への疑問、キョンというかけがえない他者への相互に矛盾する思い。そういったものが彼女自身に二重の挫折を与えたのが『消失』だったとするならば、この曲を歌う長門はまさしく夢の姿であり、遥か彼方にある。この「小さな幸せ」を掴むために『消失』の長門がどれほど取り返しのつかぬ犠牲を払おうとしたかを想像すると気が遠くなるけど、でも、だからといってここで歌う長門が、こうやって歌えるようになるために奮い起こした勇気や、乗り越えようとした不安は、『消失』の長門よりもちっぽけだなんて言えやしない。どちらの長門もそれぞれに精一杯に全力なのであって、どちらが楽とか上とかいうものではない。

 でも『消失』の長門は、こうなることができなかったのです。

 ああ。この歌詞が、この旋律が、胸にぐうう。

 

 同じ曲を聴いているのに、こんなに印象が、喚起される感情が変わるものなんでしょうか。前もっての予想も多少あったんですけど、ここまで極端だとは思いませんでした。そしてその感情は、元の作品それぞれに対するぼくの解釈にも影響していったわけでして、こういう相互作用を自覚的に記すのは初めてのことです。

 ……いや待てよ、ぼくは「曲」を聴いたと書いてはいるけど、実際には歌詞とともに「歌」を聴いている。このCDには off vocal の「探していた風景」も収録されてるから、そちらで「曲」だけを聴いたならまた違ったイメージを抱くのだろうか。そう考えて曲だけを聴いてみましたところ、

 あ。これは、もしや。『消失』の後の長門でもありはすまいか。

 音楽についての知識を一切持ち合わせないので徒手空拳で語るほかないのですが、出だしは有希という名の由来となった雪のイメージ。これは同時に、『消失』ラストでその名の意味をあらためて自分のものとしたことを思い出させます。するとこの出だしは長門の誕生と再生とを重ねて表現しており、つまりそこから続くメロディは『消失』後の彼女の足取りを描くことになります。

  その足取りというと、ぼくの『消失』考察発動篇では「おわりに」の箇所で駆け足にまとめているにすぎませんが、例えば次のあれやこれや。

 キョンの来室に、かけてないのに「まるで眼鏡を押さえるような仕草」をした長門。(谷川流涼宮ハルヒの動揺角川書店 2005年 p.118)

 自分に惚れた男子が現れたと聞いて、キョンを見上げる長門。(同 p.119)

 その結末についてキョンに問われ、答える長門。(同 p.186)

 キョンの電話でのお願いに、「若干長めの沈黙」を返す長門。(谷川流涼宮ハルヒの動揺角川書店 2005年 p.262)

 その帰結として「逆立ちした氷柱のように佇む」長門。(同 p.284)

 驚くほどの気の回しようをみせた長門。(同 p.421)

 キョンにディスプレイを見せまいとする長門。(谷川流涼宮ハルヒの憤慨角川書店 2006年 p.74)

  一仕事終えて「無言でシュークリームを食べている」長門。(同 p.280)

 そんな『消失』以降の長門の姿を、キョンハルヒSOS団の仲間たち、そしてそれを取り巻く者たちとともにいる長門の姿を、この曲は思い出させてくれます。歌詞が重なるはずの部分では、やや寂しげでためらいがちな、だけど開けゆくいまこのときをキョンたちと少しずつ歩んでいこうとする長門の、「ユニーク」な姿を。間奏の部分では、朴念仁なキョンへの溜息まじりな不満と、だけどそんな二人の間だけにあるすれ違いがちな親密さへの信頼を。文庫本をお持ちの方はそれぞれの場面を読み返してみてください、重なるんですよ。長門がいる"風景"に、この曲が。

 長門は求めてやまなかったものを得られなかった、と書いたけど、求めたとおりのものではないにせよ、ちゃんと彼女は得ていた。それを守り育ててきていた。思えば『消失』ラストでキョンから与えてもらったあの救済こそが、その後の長門を力強く支えていったわけであり、ぼくも自分の考察でそのことを指摘していたにもかかわらず、あたかも何も獲得できなかった可哀想なヒロインのように一面化してしまってた。そうじゃないですよね、長門有希という少女はそんなもので片付かない。

 この歌の歌詞は漫画作品の長門有希のために詠まれてるので、原作小説の長門有希には当たり前のことながらちょっと強すぎるのですね。だけど、曲はそうではない。詞と曲があわさって編曲されて「小さな幸せ」を歌い上げた一方で、その曲だけを切り離すとそれは原作小説の長門有希をも包み込む。この曲はどちらの長門有希にも顔を向けて結びつけている、つまり……長門有希像にとっての「インターフェース」である。

 

 ぼくはこの歌を聴くことで様々な感情を抱き、またそこに映しだされた長門像を受け止めかねて揺らいだりもしました。でも、そんななかでぼくは長門を理解したつもりになっていた自分に気づかされました。そしてこの曲を聴くことで、『長門有希ちゃんの消失』という作品が原作からの逸脱かどうかとかにこだわることなく、また原作小説の長門との相違にとらわれすぎることなく、そこに描かれた長門有希の独特の愛らしさに惹かれながら、原作小説の長門が『消失』後に見せてくれたひそやかな魅力をあらためて再認識することができました。

 そう、この漫画作品の長門有希は、小説原作の長門有希とは改変世界の内外において別人であり、

 

「でも、わたしはここにいる」(『陰謀』 p.119)

 

 たしかに、この曲のなかにいる。そしてこの曲を、この歌を捧げられた長門有希も、たしかに漫画作品という「ここ」にいる。世界が異なるように歌詞は違っていても、同じ旋律がお互いのなかに流れている。別々だけどつながっていて、そのようにハルヒシリーズの世界もまた豊かに広がっている。アニメ版の『長門有希ちゃんの消失』もおそらく、新たな何かを与えてくれるはず。

 

 こんなふうにしてぼくは、この素敵な二次創作漫画も小説原作もともに享受することが、しかもいっそうどっぷりとできるようになったのでした。つまりこの曲はぼくの妙な先入観やわだかまりを作品愛の増大によって”消失”させてくれたわけで、むろん当初ぼくが抱いてた身勝手な思惑などとっくにどこかへ吹き飛んでます。いやぁ音楽というのはこういう力も持っているんですね。

 素晴らしい曲を聴かせてくださった佐藤純一さんに、一人のリスナーとして、そして同じ作品を愛するファンとして、感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。