劇場版ガルパンのペパロニが「姐さん」と呼ばないわけを想像してみるの巻

 ガルパン考察のうちアンツィオ編については、読者の方々から「ペパロニのとこで泣いてしまう」という感想をよく頂戴します。お読みくださりありがとうございます、ぜひあのOVAを再視聴のうえペパロニの「アンチョビ姐さん、あぁうちの隊長なんだけどもう喜んじゃって」と語る満面の笑顔を見たとたん目頭を熱くしていただければと思います。後半の試合場面ならともかく、こんな何気ないとこに意味を感じてしまうようになるのが、ぼくの考察の効力です(邪悪な笑み)。

 

 さて、そのような感想をついったーで呟かれていた金曜日さんと久遠さんのお二方が、劇場版のペパロニがアンチョビを「姐さん」ではなく「ドゥーチェ」と呼び続けている、と指摘されてました。(お二方のご許可をいただきましたので、お名前を追記しました。ありがとうございます。)なるほど、たしかにそのような。ぼくの考察ではペパロニによるこの呼称の使い分けが重要な鍵となってましたので、もしもぼくの考察をもとに劇場版について考えてくださったのであれば、これはほんと嬉しくありがたいことです。そしてまた、ぼくがこの日記で述べた考察の基礎づくり「数えよう」の実例がここにあります。(ぼくも確認してみたところ該当箇所は「ドゥーチェ、まじっすか?」「ドゥーチェ、前!?」の2回、姐さん呼ばわりは0回でした。)

 さらにその方々のやりとりでは、なぜ劇中のペパロニが「ドゥーチェ」呼びで通したかについて話し合われてました。これは考察のもうひとつの基礎づくり「ぶつけよう」の実例となります。OVA版のペパロニの振る舞いと劇場版のそれとが相容れないように見えることから、その理由を探そうという営みです。

 ではどのような理由が考えられるのか。そこで提唱されていたのは、劇場版で初めてガルパンを知る観客のために監督が配慮したのではないか、という製作者側の論理でした。つまり「姐さん」と聞くとアンチョビがペパロニの実姉かと勘違いされかねないので、その誤解を避けるためというわけです。これはこれでぼくもなるほどと思った説明です。劇場版の冒頭にはあの解説映像が流されていたという状況証拠もありますから、分かりやすさのための配慮という可能性は十分に考えられます。

 しかし、ぼくの考察はそのような作品外論理ではなく、できるだけ作品内描写に即して筋道を見出していくというのが売りです。なので、(いつ書き上がるか分からない劇場版考察に先立って)今回は感謝の気持ちとともにこの問題をとりあげ、ペパロニがアンチョビを「姐さん」と呼ばなかった理由について作品内論理に基づいて検討してみましょう。つまり、「ぶつけよう」から具体的考察へ至る過程の実践例です。

 

 問題をあらためて確認すると、これは同一人物(ペパロニ)における行動原理・表現形式(アンチョビへの呼称)の不一致です。この種の問題を扱うさい、ぼくがまず用いる視点は、「同一人物における描写の不一致は、その人物(あるいは重要な他者との関係)の変化を暗示する」というものです。ぼくも皆さんも、同じ性格や信念や能力や生活習慣などを一生保持するわけではないでしょう。同一人格でありながら、時とともに成長したり退化したり好みが変わったり傷がふさがったりするはずです。それと同じようにペパロニというアニメキャラも、アンチョビを「姐さん」呼ばわりしないということはそこに彼女なりの変化がある。何らかの考えが、感情が、想いがある。それは何なのか、なぜなのかをペパロニの内側から想像していくというのが、ぼくの毎度のやり口です。

 さあ、それでは仮説を2つ挙げてみましょう。それぞれ異なる理由から説明を試みますが、両立できないものではありません。(さらに、金曜日さん・久遠さんご提示の誤解回避という作品外論理とも矛盾しません。)

 

 

A.ペパロニが「姐さん」呼ばわりを遠慮した説

 

 これは、製作者側の配慮としてではなくペパロニ自身の配慮として、試合中に「姐さん」と呼ばないようにしていた、という仮説です。しかし一体どうして、何のために。言うまでもなく、「姐さん」を「姉さん」と聞きとってしまう人のためにです。それはもちろんガルパン初視聴の観客ではありません。ペパロニたちがまさにこの試合で関わる大切な仲間である、西住姉妹です。カルロ・ベローチェの車内からペパロニの声が他の車輌へ届くかどうかは分かりませんが、おそらくペパロニは車内だろうと車外だろうと「姐さん」呼ばわりを自覚的に抑えていました。

 先の大会終了後、あるいはこの大学選抜チームとの試合に参加する直前に、ペパロニたちはみほが大洗女子に転校したいきさつを知る機会があったかどうか。たぶんなさそうですので、西住姉妹のあれこれについてペパロニが考えることはなかったでしょう。しかし、廃校後は妹が黒森峰に戻ってくるかもしれないのにあえて大洗女子を存続させるために力を貸すまほの姿を見て、何か感じるものがあったのではないでしょうか。

 また、まほ参戦にみほは思わず「お姉ちゃん」と声をあげ感謝していましたが、作戦会議の席ではそう呼びかけた途中ですぐに「西住まほ」と言い直していました(ただしその場面にペパロニはいません)。家族は家族、部隊は部隊。私的情念をぐっと抑えて集団の目的に尽くすという姿勢が、この西住流の姉妹にあります。アンツィオの校風はこれと真逆なのですけど、抑制された振る舞いの中で通じ合う姉妹の姿が、ペパロニたちの日頃のあからさまな親密さとはまた違った深い信頼のありかを周囲に伝えたことでしょう。

 そこでペパロニは西住姉妹に配慮して「姉さん」と聞こえる「姐さん」呼ばわりを慎み、試合に勝って再びみほが素直な笑顔で「お姉ちゃん」とまほに言えるようになるまで我慢していた、というのがこの仮説です。つまり劇場版でペパロニが「ドゥーチェ」と呼び続けていたのは、アンチョビ姐さんに対する自らの情念の抑制と、西住姉妹の心意気に応えようする激しい情念の噴出とが、表裏一体となって現れたものだったのです。

 

 

B.ペパロニが「ドゥーチェ」呼ばわりを貫いた説

 

 これは、製作者の配慮とも西住姉妹への配慮とも関係なく、ただひたすらペパロニがアンチョビを「ドゥーチェ」と呼びたかったのでそうした、という仮説です。もちろん日頃は以前と同じように「姐さん」呼ばわりしてるのかもしれませんが、この試合では違う。断然「ドゥーチェ」でなければならない。

 理由は言うまでもなく、そう遠くない未来にアンチョビが「ドゥーチェ」でなくなるからです。3年生のアンチョビは7ヶ月後に卒業し、それまでに戦車道の隊長の座を後進に譲ります。秋冬にも公式試合・練習試合はあるのでしょうが、最も大きな行事である全国大会が終わった以上、これから先アンチョビがペパロニたちを率いる機会はそれほど多くありません。むしろ来年度を見据えてペパロニやカルパッチョが指揮する試合が増えていくことでしょう。

 アンチョビがいつまでも一緒にいてくれるわけではない。気づきたくないことに気づいてしまったペパロニは、せめてこの大好きな先輩を「ドゥーチェ」と呼べるときには目一杯そう呼ぼうと決めたのではないでしょうか。「姐さん」と呼べる日も限られてるけど、こちらはまだ学園生活のなかでいくらでも機会がある。でも「ドゥーチェ」と呼べるのは戦車道の練習や試合の時間だけ。たとえこの称号が代々の隊長に受け継がれていくのだとしても、自分にとっての「ドゥーチェ」はこの先輩だけだから。

 そして彼女が試合中に「ドゥーチェ」という呼び方を使うとき、それはつい「姐さん」と言ってしまいがちな自分の癖を意図的に正していかねばならないということでもあります。考察3(2)で述べたとおり、これによってペパロニは自らを副隊長の自覚のもとに抑制するわけですが、それは同時に、衝動のまま暴走せずできるだけ冷静沈着な操縦に努めることで、このメンバーで参加できた試合にできるだけ長くとどまり続けることを目指していました。CVに三人乗りというこれっきりかもしれない貴重な機会をできるだけ長く楽しみ、できるだけ「ドゥーチェ」と呼べるように。

 つまりこの仮説によれば、劇場版でペパロニが「ドゥーチェ」と呼び続けていたのは、アンチョビ隊長に対する自らの敬愛の情の噴出と、この3人で参加できた試合からできるだけ脱落しないように努める自己抑制とが、表裏一体となって現れたものだったのです。

 

 

 以上2つの仮説、いかがでしたか。ぼく自身の判断ではBのほうが説得的ですが、AB相容れないわけではないので両方かもしれないなー、などとも思いますし、いずれにしてもペパロニのことが、そしてペパロニが好きなアンチョビたちのことが、もっと好きになりました。きっかけを与えてくださいましたお二方に、あらためて感謝申し上げます。