アニメ版シスプリ再放送で初心に帰る

 昨年末から今年の秋にかけて、『アニメ シスター・プリンセス』と『アニメ シスター・プリンセスRe Pure』が再放送されていまして。その期間ぼくは、これも昨年発売された両作品Blue-Rayソフトを放送時間にあわせて再生し、Twitterで視聴実況しておりました。いやー面白かった。シスプリ大好き。

 第1作(いわゆるアニプリ)の本放送といえば2001年の上半期、今から16年も前のことです。あの頃を知る方々、あの頃にファンサイトを開かれていた方々の実況感想も、拝見させていただきつつ。ぼくは当時のことを懐かしく思い出しながらも、しかしいくぶんかの屈託を抱きました。

 

 そもそもあの第1作の本放送、ぼくの当時の住居環境では直接視聴できなかったのです。友人に録画してもらったビデオテープで飛び飛びに観てはいましたが、DVDを購入して全話を視聴できたのは翌2002年の夏。つまり考察を書き始めたあとで、ぼくはアニプリをちゃんと知ったというわけです。リピュアも同じくテレビ視聴できなかったため、やはりビデオテープを送ってもらって週遅れでの鑑賞(いやほんと世話してもらってありがとう>某氏)。

 なので、これまでずっとぼくは、間に合っていないファンという意識を持ち続けてきました。シスプリにはまったのもアニメ版からなのでずいぶん遅れて参入したわけですが、それに加えてアニメ版についても、本放送を同じ時間に鑑賞しサイトや掲示板などで感想を伝え合うなどといった場の共有を、得られないままに来たのです。

 ところが今回の再放送では、ソフト同時再生によって疑似的にではありますが、他のファンの方々と同時に鑑賞することができました。Twitterを通じて同時に感想を述べ合うことができました。あのときできなかったことをこうして体験できたというのは、何というか、青春の忘れ物がいま届いたような気分でした。

 

 しかし反面この体験は、あの頃と自分がどれほど離れているかについても気づかされるものでした。まぁ加齢の影響はもちろんなんですが、作品鑑賞の点で。

 さっき記した遅参ファンという意識ですが、そう自覚する当時のぼくは先達の方々に敬意と気後れを抱いてきましたし、逆に新参者ならではの怖いもの知らずというか開き直りで、いろいろ思い付きのままに行動できたとも言えます。ぼくの一連のアニメ版シスプリ考察も、そういう勢いなしには完成しなかったでしょう。

 それらの考察を書くにあたって、ぼくはアニプリとリピュアの各話を何度も繰り返し視聴しながら、そこに込められているはずの意味をくまなく見出そうと努めました。それは、遅れて来たがゆえに先行解釈とは異なる独自のアニメ版シスプリ像を形作らなければならないというような、差異化ゲームとしての切迫感とは無縁だったと思います。ぼくの解釈は最初から珍奇な少数派でしたので、差異化を図るまでもなかったし。それよりも、自分が大好きな作品を自分の視点で丹念に見つめ続けていくうちに、様々な描写をたえず新たな意味をもつものとして再発見し、作品全体をもっと素晴らしいものとして把握でき、そうして自分の作品愛がいっそう深まっていく……そういう過程を毎回楽しんでいたように感じます。

 だから、あの頃アニメ版の各話を視聴することは、そのつど何かに気づくことでした。この作品にはまだまだ隠された何かがある。それらを見つければ、この兄妹たちをもっともっと好きになれるはず。そういう高揚した飢えのような好奇心が、当時のぼくを突き動かしていたのでしょう。プラトンの『饗宴』でも、ソクラテスが「愛」をそんなものとして論じていたように思います。

 

 ところが今回視聴実況したとき、ぼくはあの頃と同じ姿勢をとったつもりで画面に向かったつもりだったにもかかわらず、ぼくの実況に繰り返し登場していたのは、過去に自分が書いた考察の引用でした。作品を鑑賞しながらぼくの脳裏には、当時のぼくがたどり着いた解釈がたえず浮かび上がっていたのです。あるいは、考察での解釈というフィルター越しにしか作品を観ることができなくなっていた、と言いますか。

 もちろん、あれだけ真剣に積み重ねた考察がぼくのその後のアニメ鑑賞姿勢をおおよそ定めてもいますから、その内容を一切忘れて作品に向き合うことは不可能です。自分の考察内容をだいぶ忘れてるので読み返すと、よくこんな解釈思いつくなーと呆れつつ感心することもありましたし。しかしそれでも、ぼくが今回鑑賞したのは作品そのものではなく自分自身の作品解釈だったのではないか、という問いは、ここに留めておこうと思います。

 まぁ実際のところ、この機会に過去の考察をみなさんに読み返してもらいたいというスケベ根性があったことも、非常によろしくないわけでして。以前にも同じ罠にはまりましたが、こういうときに大切なのは、作品に誠実に向き合うこと。謙虚な挑戦者として作品に臨むこと。過去の考察時に気づけなかったことを、今回の視聴時にふと発見できたりもしましたから、またしばらく経って再鑑賞すればきっと新しい何かに出会えるはず。そうやって作品はぼくの前に、いつも・いつまでも開かれているのだと信じます。