『りゅうおうのおしごと!』第1巻感想

 白鳥士郎りゅうおうのおしごと!』(GA文庫)第1巻の感想です。以下ネタバレ。

 

 こないだアニメ版が終了した本作品ですが、ぼくは全話録画しておきながらも加齢による気力減退によりいっこうに再生せずにいました。それがつい先日、容量が限界に近づいてるので少し消化するかな、と重い腰を上げて第1話を視聴したところ、あいの入浴シーンが流れて何故みんなもっと早く教えてくれなかったんだ(いつものパターン)。するとネットご近所から原作をまず読んでみてはとのご助言をいただき、翌日には本屋の平棚に第1巻と第2巻が1冊ずつだけ残ってたのを購入。アニメ版視聴もいったん第2話までで止めて、そこに対応する原作第1巻を読むことにしました。
 もっとも、アニメ版第1話でひっかかったのはそういうシーンだけでなく、冒頭の竜王戦終局直前の場面であいが八一に水を飲ませてあげてるとき、コップを持っていない方の手でハンカチを八一の顎の下に添えてますでしょ。あとで原作を確認したらハンカチについての叙述はないのでアニメ版独自の描写なんですが、水差しではなくコップなので飲ませづらいため水が和服にこぼれないようにハンカチを添えるというこの細やかな心遣いが、少女の人となりを、あるいは(これもぼくは後に知ることですが)老舗の旅館の一人娘として教育されてきた過去の蓄積を、この一描写だけで伝えてくれたのですね。こういうこと丁寧に表現する作品は、わりと信頼できる。そういう勘が働いたことも後押しとなりました。

 

 さて原作第1巻。
 ぼくはほぼ四半世紀にわたって『将棋世界』を購読している、しかし自分で将棋を指すことはめったにないという、いわゆる“観る将”の典型です。棋力はないに等しいのですが、棋士女流棋士の戦いぶり、それにまつわるエピソード、勝負師としての生き様などにずっと惹かれてきています。将棋関係の書籍もたまに買いますし、NHK杯もネット中継も観戦してます。

 そういう人間がこの第1巻を読めば、各所にちりばめられた将棋界ネタにそりゃもうくすぐられるわけですよ。プロローグはさておき、敗れて放尿(米長永世棋聖の奇行)、カップ麺の味(橋本八段がA級昇級したときのツイッターポスト)、空気清浄機(窪田七段の儀式)など、将棋ファンが知る様々なエピソード。将棋盤の裏側の「血溜まり」(アニメ版で銀子が盤を裏返せと命令した瞬間に気づいて爆笑しました)。そういうくすぐりを入れながら、将棋界や棋士将棋会館などの説明と描写。タイトルを奪取することの、奪取してからのとてつもない重圧。自分には消化試合だが相手にとっては大切な対局こそ全力を尽くせという米長哲学。『将棋図巧』を解くということのとてつもない凄さ。といった現実の棋界に即した情報が、作品世界を裏付けていきます。

 

 その裏付けの最も根底にある、最も重たいものが、奨励会と研修会の描写。プロの棋士女流棋士になるための狭き門。
 年齢差のある教育的バディものってわりと好物なんですが、一方の主人公の八一はすでにプロの棋士であり、竜王という最高タイトルを手にしており、物語の開始時点で相当苦悩しているものの、棋士の中ではこの若さで棋史に名を刻んでいるトップ中のトップです。自身では無知ゆえの一発と謙遜してますが、勢いで一発入れられるだけでもう図抜けてる。名人位が実力制になって以来、将棋タイトルを獲得できた棋士は40人に満たないんですよ。これを多いとみる人もいるかもですが、大多数の棋士はタイトルに挑戦するまでに至らず、挑戦してもあと1勝が届かない。とくにこの20年ばかりは羽生世代の分厚い壁に阻まれて、上の世代も下の世代もずいぶん割を食ってきました。もっとも羽生世代の棋士達も羽生永世七冠のおかげで以下略。タイトル以外の棋戦優勝だって大変なことです。そういう世界でタイトルを、しかも竜王を、しかも中学生で棋士になった者が獲得したというのは、藤井六段以前の中学生棋士がみな名人か竜王になっていることもあり、さらなる将来が約束されたも同然なのです。
 だけど、そういう周囲の評価はともかく、八一自身はどん底にいる。それはもう作中でこれでもかと述べられているとおりで、その辛さをぼくも否定するものではありません。そして、その闇から抜け出せずにいる中で、あいが自分の言葉をきっかけに勇気をもって来てくれたことが、そしてひたむきに将棋に打ち込むその姿、師匠の勝利を信じて読みに没頭するその姿が、彼を立ち直らせていくこともまた素晴らしいことであり、読みながらおじさん泣いちゃった。
 ただ、やっぱり八一はそれよりも前に、深い闇のトンネルをくぐり抜けてきているのです。本人に自覚がないのか第1巻ではまだ不明ですが。おそらく彼は、奨励会を、三段リーグをすんなりと突破してきている。四段に昇段してプロの棋士となるための、半年に2人しか突破できない狭き門を、中学生のうちにまたぎ越している。それは現実の棋界でも、加藤・谷川・羽生・渡辺・藤井というわずか5名のとんでもない棋士達だけが成し得たことです(追記・最初は中原十六世名人も含めてましたが勘違いでした)。多くの棋士達が、これまで一番嬉しかったことは四段になれた時だったと答えています。三段リーグには絶対に戻りたくないと語る者もいます。素晴らしい才能がありながら、たった1勝の差でそこから抜け出せずに年齢制限で退会する若者が、毎年何人もいます。その残酷さはp.259に記されたとおりなのです、が、ここの描写にご注目ください。完全に叙述トリックですので。

 

 p.259の3行目の地の文章は、八一の独白です。「姉弟子」という表現からそれと分かります。そのまま6行目まで、この八一視点の叙述は続いています。
 しかし、奨励会員の台詞をはさんだ8行目、「観戦する奨励会員の囁きが聞こえた。」の一文は、じつは八一視点ではない第三者視点の可能性があります。少なくとも、ここでは「姉弟子」など彼固有の表現が用いられていませんよね。
 そこから続く9行目以降、このページ末尾までの叙述にも、八一自身の言葉と分かる箇所はひとつもありません。つまりこの9行目以降は、作者が棋界の常識として説明している文章なんです。
 ところが、ページをめくってp.260を見て下さい。銀子の無言の台詞を置いた直後の2行目です。ほら、「姉弟子」という文字が復活してるでしょ。
 この部分が、第1巻の肝です。
 p.259をするっと読むと、過酷な奨励会で自らも苦しんだ八一が、その過去を振り返りながら独白しているかのように理解できます。しかし、そうじゃないのです。「姉弟子」という文字を含まない9行目から最終行までは、作者による説明にすぎません。つまり、八一は、奨励会で苦労した記憶がないのです。そのことは、この観戦中であるp.267にはっきり彼の独白として表現されています。「正直、奨励会に入ったとき温いとさえ感じた。」そして事実、八一は「温い」奨励会を難なく突破し、中学生にして棋士となり、その実力どおりに若くしてタイトルを奪取したのです。(追記:p.259の後ろから3-2行目には「十年以上一緒に研鑽してきた」とありますが、p.9によると八一は6年で奨励会を駆け抜けてますね。これも根拠のひとつになります。)

 

 だから、この奨励会についての叙述は、八一に関わるものではありません。では誰にか。いま懸命に戦っているあいのためか。もちろん違います。それは、あいの対戦相手である銀子のためのものです。
 銀子についての描写を最初から確認していけば、まず彼女は八一を同じ内弟子として家族の一員のように思っていますし、おそらく最近になってからでしょうが一人の異性として意識しはじめています。それは、人見知りな彼女にとって甘えられる弟分であることから始まり、しだいに「嫌われた」くない存在として意識されてきているのでしょう(p.75)。それゆえに、八一にべたべたするあいの存在を疎ましく思い、苛立ちもするわけです。
 でも、そこにはさらに、将棋のプロを目指すものとしての屈折があります。かつて同じ尊敬する師匠のもとで内弟子を経験し、幼少期を一緒に生活してきた銀子と八一。しかし、いま奨励会を突破してプロとなっているのは八一だけです。姉弟子の銀子は、まだ二段(p.253)。三段リーグにさえ参加できていない。たとえ女流棋戦でタイトル2つを獲得していようとも、女流棋士に一度も敗れていないのだとしても、同じ釜の飯を食ったはずの姉弟の差は、途方もなく開いてしまっています。五万局もの戦いを重ね、「もう一人の俺」(p.267)とまで八一が認めるにもかかわらず、銀子はいつの間にか八一のずっと後方にいるのです。もはや、弟の背中も見えないくらいに。
 それでも銀子は、自分の精一杯の努力を続けてきました。女流棋戦に参加することは、自分の棋譜奨励会のライバル達に知られてしまうというリスクを伴います。でも銀子はあえて参加し、実績を出しています。ただし女流タイトル初獲得は2013年度(p.107)。八一の四段昇段は2015年度(p.9)。このとき銀子が奨励会のみに集中せず女流棋戦に参加したことを後悔した可能性はあるかもしれません。いや、そういう後悔を絶対に自分に許さない子という印象はありますけれど。そうやって胸を張って気弱さを封じ込めて生きているからこそ、ほかならぬ弟弟子には甘え放題ですよね。というか、八一だけにしかそんな面を一部たりとも曝け出せない。だけど/だからこそ、八一には、自分の将棋指しとしての弱さを見せてはならない。

 

「おしっこ漏らすくらい、将棋負けるのに比べたら何でもないでしょ?」
「だって将棋ってのは命のやり取りでしょ? 殺し合いでしょ? 殺し合いの最中におしっこが漏れるとか漏れないとか気にする余裕なんてある方がおかしいし」(p.23)

 

 この一連の台詞に八一は半分ヒきながら敬意を新たにしていますが、この銀子の台詞が奨励会二段でもがく彼女の本心とすれば、どうでしょうか。おしっこ漏らして四段になれるのなら喜んで失禁する、という段階すら通り越して、銀子はただひたすらに棋士になるため勝ちたいのです。
 だから八一とVSもする。それは内弟子時代からの習慣であるとともに、自分よりも先に行ってしまった八一から教わる貴重な機会でもあり、また遠く離れていきそうな八一を引き寄せる唯一の手段でもあります。不器用な彼女は、盤を挟んでしか八一と素のまま向き合えないのですから。盤を挟んでしか、VSを通じてでしか「棋は対話」を通じた全面受容関係の維持確認ができないのですから。そしてそこからはみ出てしまう想いや言い訳が、手料理という試みに具体化され、八一は鈍ちんなのでもうまったくもう。
 銀子にしてみれば、可愛い弟分がいつの間にか猛スピードで遠い先へ行ってしまい、自分だけ取り残された気分です。それを払拭するには、将棋の実力で追いすがるしかない。もしも銀子がそのことを諦めたのなら、奨励会を退会してたでしょう。でもそうじゃない。銀子は決して諦めない。諦めてしまったら、それはあの内弟子の日々を、八一と分かち合った日々を否定することにもなるからです。
 そして八一も、銀子のことを心底信じています。そのうち奨励会を突破して四段になるのだと、おそらく確信してる。そうでなければ、研修会の話などを姉弟子にするときにもう少し屈託があるはず。いや、もしかするとそこでの疑念を無自覚に封じ込めてるだけかもしれないけど、いずれにしても「史上最強」の姉弟子への信頼感は、女流タイトルや全勝という客観的事実だけでなく、銀子とのあの「五万局」の日々に裏打ちされています。姉弟子まだ中学生だし。俺と同じ年齢までに四段になるでしょ当然。みたいな感じかもしれません。だから先ほどの奨励会についての叙述でも、八一は奨励会員としての銀子について一言も語りません。語る必要ないから。それほどお互いを認め合えばこそ、なのです。銀子だってそれに一日でも早く応えたい。

 

 ああ、なのに。それなのに八一は、どこぞの小童を下宿に引き入れ、あまつさえ弟子として受け入れてしまうとは……。
 もうこれについては言葉を費やす必要はないでしょう。銀子にとってあいは二重三重に敵対すべき相手です。と同時に、将棋という同じ夢を見てしまった者同士の共感も抱いています。連帯感をもちながらお互いを蹴落とすという奨励会員のありようがここに見出せるわけですが、まだ銀子とあいは同じ土俵にはいません。あいは研修会、つまり女流棋士になる方の道をいまは選ぼうとしています。それはたしかに、勝ち上がることで銀子の持つタイトルに挑むことになりはするのですが、真の対決は銀子の本筋で行われるのではないでしょうか。それは、あいが八一の後を追いかけて奨励会に入り、女流棋士ではなく棋士を目指そうとすることで、現実のものとなります。そしてこの対決は、半年にたった2人だけの四段昇段をめぐる、八一と向かい合うたった1つだけの場所をめぐる、壮絶な戦いとなるはずです。
 とはいえ、そんな先の想像をめぐらすのはだいぶ手順前後な気もします。最初にスルーしたプロローグをもう一度読んでみましょう。完全ギャグなやりとりですが、あいは(八一との初対局以来そうですが)八一の表情を読みながら自分の指し手を考えてはいません。あくまでも盤面没我、局面だけに意識を集中してひたすら読み耽り、論理ゲームとしての将棋に専念しています。ということは、八一が歩夢戦で解説していたような盤外戦術を自分でも使ってみるまでにはまだ至らないということです(あの表面的えっち台詞もそういう技術とは無関係でしょう)。盤を挟んでも八一の顔を見ることはない。銀子との差はおそらくそこにもあるでしょう。そしてやがて手を読み、顔を読み、心を読み始めるとき、あいは自分自身の心をも読み始めねばならないでしょう。そのとき銀子はどうするのか。どうなってるのか。今後の展開を、観る将として固唾をのんで見守りたいと思います。