『りゅうおうのおしごと!』第2巻感想と「感想戦」感想

 白鳥士郎りゅうおうのおしごと!』(GA文庫)第2巻の感想、と「感想戦」の感想です。以下ネタバレ。

 

 第1巻感想の末尾で、あいが対局時に盤面しか見つめていないことを指摘しましたが、まさしくその点でも対照的なライバルが登場しました。天衣。読み方はあいと同じ。これ第3巻から、どうやって呼び方に区別をつけるんでしょうか主人公。そこでひと騒動あるんですかね。

 

 天衣は性格や対人技能にくわえて勝負術、棋風などでもあいと好対照ですが、それと同時に、あいと銀子の間に位置づく存在でもあります。

 あいの側の、可愛い女子小学生・稀に見る棋才・可能性と表裏一体の未熟さ・やきもちやきなど。

 銀子の側の、人を遠ざけつつも人を見る能力・自分に将棋しかないことの自覚・大切な人から認めてもらえないことへの極度の恐れ・それゆえの力への依拠など。

 あいが銀子に挑むには、研修会員と女流タイトルホルダーにして奨励会二段の間にとてつもなく大きな溝があるがゆえに、だいぶ先の話になるのかなーと思っていたのですが。ここで身近な、しかもあらゆる面で対照的な天衣がいるおかげで、それより手前の段階での勝負(とそれを通じた成長)が可能となりました。物語を適度な緩急で進めるうえで、これはなるほどな展開です。

 

 そしてまた、天衣が銀子の役割の一部を引き受けることによって、銀子自身の物語はますます遅延可能となりました。

 銀子は八一より2週間早く弟子入りし、研修会に入って女流棋士として11歳でタイトル戦に登場してますが、この第2巻で明らかにされたとおり、奨励会に入ったのは八一が奨励会が入会した翌年(p.37)。これを八一は「姉弟子の才能ならプロ棋士になれると師匠が判断したからだと思ってた」わけですが、その師匠はというと「女流棋士ならかなりのところまで行くと思った。生意気で、根性があったでな」(p.172)。つまり、師匠は八一の棋才を手放しで認めている一方、銀子にはあくまで「根性」についての評価であり、とうてい八一と並ぶ可能性を見出していません。たぶん、奨励会の二段として戦っている銀子自身にも、そのことは分かっています。しかし、分かってはいるが分かるわけにはいかん(島本和彦無謀キャプテン』)。八一と「同じ土俵で戦いたい」「ただそれだけのために」(p.37)、銀子は根性で女流棋士奨励会を掛け持ち続けます。

 ところが、その片側の女流タイトル戦が、すんごいぬるい。第1局など情報戦のレベルで片付いてしまう。銀子はたしかに八一の想像通り「欲求不満」(p.81)でとんぼ帰りしたのかもだけど、不満とともに、こんな対局やってて八一に追いつけるのかという不安をも抱いたのではないでしょうか。だから真っ先に八一の部屋に飛び込んだ。なのにそこにいたのはあい。邪魔の限り。なで斬り。

 八一が見る銀子は(過去の記憶も加味して)すんごい強いし、実際それだけの力を持っているのでしょうが、しかし客観的に見れば奨励会二段にすぎません。このあと三段に上がり、三段リーグの上位2人に入れて、初めてプロ四段として八一と対等な立場で対局できます。もっとも女流枠ですでに竜王戦予選6組などに出場してるんでしょうけれど、それは本意ではない。あの頃と同じように、八一と対局し、八一が自分だけに向き合ってくれるようになるためには、もうプロ棋士になるほかないのです。もともと銀子自身がそれを目指していたのでもあり、それが二人の夢なのでもあり。

 その道のりを描く作品内の時間的余裕は、第1巻の時点で相当に長く確保されていました。奨励会は20歳までに初段にならないと退会しなければなりませんが、初段に上がったなら(降段さえしなければ)25歳あたりまで留まれます。四段になるのか、それとも強制退会となるのかは、銀子の場合あと10年以上も先まで不確定であり得るのです。しかし、物語の展開を考えると、あいがすくすく育っていく一方で、その最後の(八一を除けばですが)戦いの相手となるはずの銀子もまた、どのような道を進むのかをある程度描かざるを得ないのではないか。その道行きがあいの先を進みながらも、あいと対照をなしていくことになるのではないか。ぼくはそう想像していたのです。

 しかし、第2巻で天衣が登場したことで、あいの道行きには豊かなふくらみが生まれた(そして天衣もまた同じ)と同時に、銀子の道行きはそれほど重要な意味を持たなくなる可能性が生まれました。銀子の要素を天衣もだいぶ共有してますので、あい・天衣を軸に物語が進んでかまわないわけですよ。これは、銀子にだいぶ肩入れしているぼくとしては、あくまで予測にすぎないにせよ、だいぶ痛手でありました。

 とはいえ、天衣とあいのやりとりを通して八一が銀子を再発見することも、けっして想像できないわけではなく。とくに天衣vs銀子というのはなかなかの血戦になりそうですので、そこでどんなことが起きてしまうのかはこれからの楽しみとなりそうです。

 

 と、思っていたんですけどね。

 

 第2巻末には、作者あとがきに続いて「感想戦」と題する短編が掲載されています。第1巻と同じく女流棋士のトップ達と八一の一幕、今回はタイトル戦で鎧袖一触された月夜見坂燎のその後の姿も描かれました。

 供御飯万智の運転する車で夜のドライブ、そこでの話の流れで将棋盤に星が打たれているかないかの議論から勢い女流二人の賭けとなり、銀子に電話確認させられる八一。銀子の返事を伝えたところ、タイトル戦の怒りもあって「銀子の時代も終わったな!」と叫ぶ月夜見坂。じつにテンポいい収束でした、さすがは先崎学九段

 

 

 この「感想戦」後半で描かれた星のある・ない論争の顛末は、『将棋ペンクラブログ』のこちらに部分転載されていますとおり、1998年の『将棋世界』で先崎六段(当時)の連載記事に書かれていた文章に、酷似しています。

 これは、第1巻でも第2巻でも多用されている将棋界ネタのパロディや翻案とは、ちょっと、いやだいぶ意味合いが異なります。実際に文章を比べてみてください。

 棋士女流棋士)同士がある・ないで議論し、それがだんだん加熱する。あると主張する側が、むやみな賭けを提案する。同席していた主人公が、すでに寝ている第三者のすごく強い若手に電話させられ、適当な態度であるんじゃないのと返事される。そのことを報告すると、ないと主張していた側がその若手の「時代」が「終わった」と断言する。そして筆者は読者に対して、ご自分で確かめていただきたい、と一言添える。

 もう、表現も組み立てもまんまですよね。というのが、ぼくの判断です。

 

 例えば第1巻で米長放尿事件をネタに用いたときは、敗北の衝撃を個性的かつ大迷惑に表現という事件の特徴をそのままにしつつも、師匠と弟子の初対局という独自の要素を取り入れることでまったく異なる意味づけができていましたし、台詞回しも独特の喜劇的なものでした。そういうのは全くアリです。元ネタを消化して作品の一部にちゃんと位置付けているわけですし、またそのことによって登場人物の人となりや人物同士の間柄が描かれているのですから。

 ところが、この「感想戦」後半ははっきり違う。現実のエピソードを、そしてそれをエッセイに仕立てた先崎九段の文章表現と組み立てを、ほぼそのまんま流用しているだけです。

 たしかに厳密に確認すれば、月夜見坂が売られたケンカを買うときの威勢のよさあたりは、作品独自の部分であり、登場人物の個性を描くことに寄与していると言えます。「銀子の時代も終わったな!」の一言も、中村修現九段・羽生現竜王の関係と月夜見坂・銀子の関係に違いがある以上、先崎エッセイでの台詞とは異なる意味合いを持ちえているのでしょう。しかし、ここで月夜見坂の人となりを凝縮して伝えるには、この台詞はあまりにも借り物すぎやしませんか。

 また、最後の「答えはぜひ、皆さまの目でご確認いただきたい。」の一文も、先行の「あるかないかは皆さんの盤で確かめて頂きたい。」とそっくりです。その直後に正解を言う・言わないの差がありますが、地の文章でここまで似ているというのは、プロの作家としてどうなんでしょう。つまりは表現と組み立ての両面で人真似の文章を、単行本に収録してるわけですよね。コピー将棋について作品中で言及してるけど、小説はかまわないんでしょうか。あとがきにも先崎エッセイへの言及ないし、これ第3巻以降で何か補足されてるんですかね。

 

 ここでぼくは、剽窃かどうかを客観的に判定したいわけではありません。できるわけでもないし。ただ、以上のようにぼくが感じ考えた結果として、これから本作品に対する態度をどうしたものか、ずいぶん悩みました。せっかく出会えた面白そうな作品なのに、もうその物語に浸ることはできなくなっています。これから登場する人物も含めて、彼らが語る言葉や地の文章で綴られる表現が、作者のもの(少なくとも、作品のために作者の工夫を相当に入れたもの)とは信じ切れないからです。そしてそのことは、ぼくが今後の道行きを固唾をのんで見守りたい銀子についても、当てはまってしまうのです。

 いやもう、ほんとつらい。『知らない。ついてるんじゃないの?』の台詞を読んだ瞬間、羽生じゃーん! と思ったわけですよ。もちろん寝ぼけているにせよ銀子は、八一が真夜中に女流棋士二人とドライブなぞに繰り出していることを聞いてしまったのですから、八一に答える前に『……』と無言のあれこれが生じています。たぶん月夜見坂も供御飯も、銀子の絶対許さないリストにあらためて加えられたことでしょう。でもね、元ネタをアレンジする度合いがそれでもまだずいぶんと小さいと感じるのです。そして銀子が『……頓死しろ』と言わなかったのは何故。この元ネタの流れに乗らないからですか。今後の巻でも銀子は借り物の台詞を借り物の組み立ての中で語らせられるんでしょうか。そんな銀子の姿は見たくない。

 ただし、もしかするとこの作者、素材(元ネタ)に最小限の手を入れて新たな味を引き出す、という手法を好むのかもしれません。ほとんど借り物だからこそ、少しの違いやほんの一言の挿入が大きな意味を持って現れる。例えば銀子の『……』もそういう最小限の手にあたるかもしれない。ぼくもパロディとしてはそういうの好きですし、よくやります。だけど、プロの作家による作品として受け止めようとするとき、ぼくはプロの技を別の方面で期待してしまいます。そして、この作者の文章はぼくにとってその期待から外れます。素材といっても、それはすでに先崎九段の手を尽くした料理ですからね。

 というわけで、ぼくという読者の勝手な結論として、次の第3巻までは読みます。次巻が「最も書きたかったテーマ」(p.290)だそうなので、そこまでは読むのが礼儀かと思ったもので。