『りゅうおうのおしごと!』第3巻感想と、続巻を購読しないことについて

 白鳥士郎りゅうおうのおしごと!』(GA文庫)第3巻の感想と、今後この作品の続巻を購読しないことの確認です。以下ネタバレ。

 

 退会に最も近い位置にいる桂香を中心にして、こんな過酷な勝負の世界なのにそれでも登場人物たちが将棋に打ちこむのは何故なのかを描く本巻。もちろんぼくは銀子を真ん中に置いて読んだわけです。

 もうね、ほんと劣等感との戦いですよ銀子の毎日。女性的魅力は桂香に、主婦的能力は桂香とあいに、ことごとく負けている。だからこそ将棋では最強であり続けなければいけないのだけど、その最も大事な将棋でこそ、まだ奨励会を突破できない自分と、とっくに棋士になるどころか最高タイトルまで獲得している八一との差を認識させられてしまう。そして、あの幼かった当時は自分の方が上だった棋力がいつしか追いつかれ、さらに追い抜かれて差がどんどん開いていったこの数年間、八一と一緒にいる日常が決していつまでも続くものではないということを、銀子は身に染みて理解せざるをえなかったわけです。

 この喪失への感覚を、八一はほとんど持っていない。彼はまだずっと先を見据えているから。銀子と過ごした日々を自分のかけがえのない礎としながら、その上に立って遥か高みを目指しているから。八一の中では銀子との「五万局」と現在のA級棋士との対局と、近い将来に実現するであろう名人との対局は、もっと強くなるという意志のまっすぐな直線上に並んでいる。同期の奨励会員との別れなど、少なくない喪失は経験しているはずだけど、根本のところで揺らぐことはない。

 でも、銀子はそうではない。桂香がもがきながら戦うさまをぼろぼろになりながら見守るしかないように、喪われてしまう大切なものに手を伸ばしても届かない。何より自分自身が、指し手が、八一に届いていない。私生活モードでも渾身の勝負手が空振りする。なんなの。頓死しろ。

 頓死しているのは自分なのではないか。

 そんな不安を認めることなど絶対にできないから、銀子は最善を尽くす。自分自身を冷酷に認めてその長所短所を分析し、相手についても同様に分析してその長所を殺しにかかる。まさにプロ。ただし恋愛面では自分の長所が分からない、というか誰しも認めるその美貌という武器はほかならぬ八一にだけはまったく通用しないように思えるので、相手の手を封じることに専念するしかない。すなわち八一にとって異性との重要な接点である将棋で、他の女子を完膚なきまでに打ち破る。不器用すぎる。どう考えても他の女子たちから恐れ嫌われる。それでもいい。八一とは違う意味でまっすぐな、棒銀のような生き方。

 銀子が幸せになってくれないと困るんですよ。

 

 で、今後この作者が銀子を幸せにしてくれると信じ切れないので、続巻を購読するのをやめます。

 その最たる理由は、先日書きましたとおり第2巻「感想戦」が先行テキストに酷似していることと、第3巻のあとがきでそのことに対する作者コメントがなかったこと、です。

 いや、第3巻あとがきには、その代わりにこんな一文が記されていました。

 

「小手先のテクニックではなく、剥き出しの魂をぶつけることで、読む人の心を揺らしたい。私はこれからも、そうやってこの物語を書いていくつもりです。」(p.316)

 

 どう理解したらいいのでしょうか。

 他者の文章を「小手先のテクニック」で模様替えした文章を堂々と単行本に載せておくことが、「剥き出しの魂をぶつける」ことなのでしょうか。この作者は「これからも、そうやってこの物語を書いていくつもり」なのでしょうか。

 先行テキストの執筆者は、ほかでもない先崎学九段ですよ。内弟子時代を姉弟子とともに過ごした、八一の設定の元となっている棋士ですよ。そして自分の写真に「元天才?」と記された雑誌記事を目にしたときの先崎奨励会員の煩悶が語られたあの有名なエッセイを、この作者は当然知っているはずです。そんな棋士がかつて発表した文章を、しかも彼の大親友の郷田九段も登場している文章を、棋界が舞台の小説でそのまんま模倣できるプロ作家とは、一体どのような魂の持ち主なのでしょう。

 

 もっとも、「感想戦」ひとつで作家を評価してはいけないのかもしれません。あれはおまけみたいな、とってつけた、つい軽い気持ちで棋士への愛情をもってやってしまった手すさびの掌編にすぎず、作品全体が面白ければ無視してさしつかえないような瑕瑾なのかもしれません。

 ではしかし、もしそうだとするならば、あの「感想戦」で描かれた月夜見坂燎も供御飯万智も、作者からその程度の扱いで済まされる登場人物ってことですよね。

 ぼくは、燎が「銀子の時代も終わったな!」と吐き捨てた直後になぜ「いや、銀子の時代はオレが終わらせる!」と叫ばないのか、ずっと疑問でした。銀子にタイトル戦で3タテ喰らったばかりでも、またしぶとく立ち上がって戦いを挑もうとするのが燎の性格なのではないか、と想像したので。そして、やはり銀子をライバル視している万智が「おや、聞き捨てなりませんなぁ」とからんでいく、というのはどうかな、と。そこまで進めば、これは元ネタの文章を別の文脈に投げ込むかたちで組み替えて、この作品の女流トップ間のライバル関係を描けたのではないかしら、と。

 ただ、もしかするとこの第2巻の時点では燎も万智もそこまで気合の入ってないグループの一員にすぎず、後の巻での展開によって打倒銀子に燃えるとしても第2巻ではまだその前の段階にとどまっている、のかもしれません。登場人物は物語を通じて成長し変化するものですから、それならそれでいいのです。

 しかし、主要登場人物の銀子が両者を「見えてる人間」ではないとばっさり断定しているあたり(第3巻p.107)、おそらく銀子に対抗できるのは現女流の中では「異様な感覚を持って」いると評価されている祭神雷(同p.108)だけなのでしょう。すると、燎も万智もどちらかといえば狂言回しの役を今後も担わされることになるのではないか、と推測できてしまいます。そして、そんな二人のお気軽な幕間劇に銀子も登場させられ、スマホの向こうから先崎の描く羽生とよく似た台詞を言わされたわけです。

 ぼくは脇役にもかけがえのない人生があると思うくちですので、燎と万智には一念発起を期待してしまいます。けれど、この「感想戦」で人真似の台詞を言わされている姿を見るかぎり、そこまで大切にしてもらえるのか疑念が拭えません。そしてこの疑念は、銀子の今後の扱いについてもまとわりつくのです。だって燎と万智って、女流棋界における銀子の姿に厚みをつけていくための大事な存在じゃないですか。その二人がこういう扱いなら、銀子も推して知るべしですよ。

 

 そういう疑念、作者への不信感を抱いたまま第3巻を読むと、例えばp.257のとても重い意味を持つはずの場面。銀子の「私達は、どうして――戦うことしかできないんだろう?」という呟きに、八一が「それは――俺達が、生きているから」と返すという、二人の一致とずれを潜在させつつも棋士とは何かを端的に示すやりとりです。

 が、この数行を読むぼくは、瞬時にひとつの先行作品を思い浮かべました。PEACH-PITRozen Maiden』(初版・幻冬舎コミックス)第3巻 Phase13にて、真紅が「だって 闘うことって 生きるってことでしょう?」とジュンに答えるあの有名すぎる場面です(当時の感想は旧日記のこちら)。もちろん、白鳥がこの先行作品の台詞を真似したかどうかは定かでありませんし、ぼくの脳内で勝手に結びついただけではあります。とはいえ、白鳥が先行テキストをかなりの程度まで真似してはばからない作者である、という認識を得てしまった以上、ぼくはここでも真似の疑いを捨て去れないのです。

  今後ぼくが第4巻以降を読み続けていくとすれば、ページを繰るたびにこういう引っ掛かりを覚えることになるでしょう。自分がこれまで向き合ってきた多くの作品たち、自分の一部となっている作品たち。それらにも完全にオリジナルとは言えない部分があるのでしょう。しかし、真似の度合をここまで意識せざるをえない作品は、ぼくにとって初めてです。そういう意識をつねに抱かざるを得ないというのは、ぼくの読書趣味にとって何の得にもなりません。しかも自分の一番のお気に入りである登場人物について、彼女の未来について、たとえそれがぼくの望むようにではなくずっと厳しいものであるにせよ、それを作者がきちんと自分の言葉で表現してくれるだろうという信頼感を、抱けないのであるならば。ぼくはこの作品をどんなに面白く感じようと、もはや読み続ける気になりません。

 

 この作者が書いた第3期叡王戦決戦七番勝負第1局観戦記棋士たちの陰影を描いたいい文章です。こういうの書ける人が、なんであんなことしたんだろう。残念です。本当に残念です。