時代論を語れるほどの距離を、好きな作品に対してとれない

 最近、『涼宮ハルヒ』シリーズの何が新しかったのかとか、時代の変化をどのように表現していたのかとか、話題となっていましたが。

 以前にも記したとおり、ぼくは作品を用いた批評や時代論というものに好んで触れることはありません。読まないのは読まず嫌いだとして、自分でも一切試みようとしない理由は何よりまず、ちゃんと事実を確認して分析を行う方法論を持ち合わせていないためです。そしてもうひとつ大きいのは、例えばこの作品について言えば、作品を時代・社会の中に位置づけるために必要なはずの、作品との距離を確保することができないためです。ぼくはこの作品に出会ってから今までずっと、一人のファンとして作品を深く味わって楽しむことや、ハルヒたち登場人物をよりいっそう好きになることだけを求めており、そのために時代論などが役立つとは(自分の性格・能力上)あまり思えません。

 あえて語るとすれば、現代日本において若い男性がその社会的地位の低下によって自尊感情を動揺させゆく状況下で、キョンのようなさしたる能力のない男子がハルヒという超越的能力を持ちながら生きづらさと寂しさを抱えている女子に必要としてもらえ、しかもその女子の世話を一手に引き受けることが許されるという内容が、落ち目の男性に自尊心の手がかりとしてのパターナリズムの幻想を提供したのではないか、などと論じてみることはできます。しかし、こういうのは他所様のところで間違いなく既出のものでしょうし、しかも自論の根拠となる事実や社会事象を示すことができませんし、何よりぼく自身がこういうの論じても楽しくない。ぼくが作品をさらに深く楽しめるようになるわけではないし、ましてハルヒたちをもっと好きになれるわけでもない。

 つまるところ、ぼくは現役の・ほとんど作品とのみ向き合うかたちでの享受者であって、それゆえ作品を俯瞰したり位置づけたりするための距離をとれないのです。もちろんあの頃と比べれば機会はぐんと減りましたが、ぼくは今でもシリーズ単行本を開くことがあります(ぼくはアニメよりも原作にはまったくちです)。そしてあの頃ぼくがどのように作品に向き合い、登場人物たちに向き合ったかは、当時のぼくの考察に示したところです。正直、本作品に向けて今後これ以上の文章を書ける気がしません。

ハルヒの空、SOSの夏 −『涼宮ハルヒの憂鬱』考察−

「あたし」の中の… ―『涼宮ハルヒの消失』長門有希考察前篇―

「お前」にここにいてほしい ―『涼宮ハルヒの消失』長門有希考察後篇―

 ハルヒシリーズの何が新しかったのか。ぼくには分かりません。ただ、これらのテキストを書きたくなるくらいぼくはこの作品を好きになったのだ、ということしかぼくには言えませんし、今もこの作品が好きなのです。たとえハルヒが流行った時代なるものは通り過ぎ顧みられるものだとしても、ぼくの作品愛を注いだ文章がいつか誰かのハルヒとの出会いや再会のきっかけになるとすれば、そのとき作品を介して別々の時が結びつくのだと思いますし、その瞬間にはおそらく新しいも古いもありません。