逃げるライオスたち

 アニメ『ダンジョン飯』とTRPGをからめる話を目にしますが。『D&D』の経験者としては、そこまであのゲームに近くはないと感じつつ、しかし自分の知ってるのは赤箱時代と3.5版のみなので、最新システムだとまた違うんですかね。

 ぼくが観ていて強く印象を受けるのは、ライオスたちがちゃんと逃げるところです。原作の九井諒子ダンジョン飯』(BEAM COMIX 2015-2023年 全14巻)で確認していくと、例えば最初のファリン蘇生(第4巻)までの間でも、第6話(動く鎧)、第11話(霊)、第12話(生ける絵画)、第13話(ミミック)、第18話・第19話(ウンディーネ)、第24話(炎竜)とちょくちょく逃げてる。もちろん敵を罠に引き込むための戦術的撤退も含まれますが、敵に対して分が悪いと認識したときに退却を選べるというのは、冒険者として大切なことだと思います。これは、そもそもライオスたちがファリンを失ったのがきちんと退却できなかった(悪い条件で無理して炎竜と戦った)ためだということと対比するまでもなく、ファリンの魔法による援護や十分な仲間・装備を欠いている状態ではタスクと無関係な戦闘リスクをなるべく避けたいという事情ゆえでしょう。

 

 しかし、この「逃げる」という行動は、ぼくの(あまり巧くはない)TRPG経験からすると、けっこう選びづらいものでした。

 ダンジョンマスターをやってるときは、なんでプレイヤーたちこんな無謀な戦いを挑むんだと何度も首をかしげたものです。一度撤退したうえで、得られた情報をもとに装備や呪文を整えてから再戦するほうが効率的だと分かるはずなのに。プレイヤーみんな馬鹿なの?

 ところがいざ自分がプレイヤーになると、モンスターを避けることで経験値や宝を得る機会を失いたくないとか、手持ちの呪文や装備で対処可能ではないかと(誤った)判断をしたりとか、ダンジョンマスターがわざわざ出してくるんだからこのパーティで倒せるはずだと皮算用したりとか、イニチアチブダイスを振ってしまうともはや戦う以外の選択肢を思いつかなくなる(プレイヤー全員で相談しようとするよりも個々人の行動決定が先立ってしまう)とか、いろんな理由で逃げようとしなくなる。ついでに言えば他のRPG作品に比べてD&Dは、「逃げる」ことについてのプレイヤー向けアドバイスや、ゲームシステムへのメリット組み込みなどが、ほとんど欠けているように思います。それゆえプレイヤーが「逃げる」ことを選びたくなるようにするためには、ダンジョンマスターが情報や状況説明を注意深く行う必要があり、つまりそこがマスターとしてのぼくの課題だったわけです。

 

 さて、ライオスたちは状況に応じて「逃げる」判断ができるというこの一点においても立派な冒険者だなーと思えるのですが、ダンジョン探索ではなく各人の生き方に目を向けてみると、「逃げる」ことの陰影がたちまち現われてきます。

 ライオスがなぜ冒険者になったかというと、生まれ故郷の村から逃げ出したから。彼が語っているように、幼くして霊術の才能を発揮したファリンを村人どころか父親さえ忌避するのを、ライオスは憤っていたはずなのに、その彼自身が嫌気のあまりに妹を置いて村から逃げてしまった(第52話、第67話)。そのことをずっと申し訳なく思っていたライオスが、それ以外のことも含めて「色々なものから逃げてここまで来た」自らの「覚悟」のなさを直視し克己する過程そのものが、この作品の冒険譚であります。

 マルシルは孤独の不安に自らの優れた知性で真正面から立ち向かっているようだけど、その不安は心の傷として奥底に抱えたままであり、しかも冒険仲間たちとの日々でさえその行く末にある離別を絶えず想像させてしまう。それでも踏ん張って努力してきた魔法の研鑽が、大好きなファリンを魔物にしてしまった原因なのではないかという後悔と恐怖(第42話)。じつはこれはマンドレイクのときの「みなさんのために何も力になれないのは寂しいです」(第4話)という言葉とつながっていて、マルシルはけっきょく自分が何もできないのではないかという不能感から全力で逃げているとも言えます。

 チルチャックは妻との不和(第56話)に、センシはグリフィンのスープ(第47-49話)に向き合うことから逃げていたし、イヅツミは己の信じる自由を求めてあらゆる束縛から逃げようとした。他の者たちもそれぞれに抱える事どもから逃げたりなんだりしていて、そこが弱みでもあり人間くささでもあるという。

 そんな彼らが「逃げる」ことは、しかしまたダンジョン探索とある意味で同じく、戦術的撤退でもありました。ライオスが逃げてくすぶる生活のなかでそれでも忘れられないファリンへの兄らしい思慕を温めていったように、魔物への興味を執着へと煮詰めていったように。みんな逃げながら何かを得て、それは予想もしなかったし欲しがってさえいなかったものかもしれないけれど、やがてその力も活かして自らの傷に向き合い、大切なものを、大切な者たちを守ろうとする。いつもそううまくいくとは限らないし、逃げずに解決できるにこしたことはないかもしれないけど、逃げることもまた時と場合によって自分を形作るかけがえのない一部なのだということを、この作品は教えてくれるように思います。逃げている間にたまたま育んでしまったものが、本来の問題に向き合うための助けともなり、遠回りなアプローチを可能にしてくれる手がかりともなってくれるのではないか、そしてそのきっかけを人々がぶつかったり食い違ったりしながらお互いを認め受け入れて折り合いをつけていく交わりの中で見いだしていけるのではないかという希望や信頼を、感じ取らせてくれるように思います。

 そしてそこには、各人のそのような行きつ戻りつや交わりを包みこんで推し進めていく時間の流れが――マルシルがあれほど恐れてきたものであり、しかし明らかに相貌を異にする時間の流れが、たしかに存在するのです。

サイト開設20周年

 本日2022年3月19日をもちまして、ぼくのサイト『ページの終わりまで』が開設20年目を迎えました。わーぱちぱち。

 

 まぁサイトもこの日記も最近めっきり更新してないわけですが、たとえ断続的とはいえ20年も続けることができたというのは、何事にも飽きっぽいぼくとしては途方もないことです。よくぞここまで。そして開設当時の日記などを読み返すと、まるで成長していない。なんてこと。次の節目も迎えることができたなら、また同じことを感じるのでしょうけれど。

 

 20年前にこのサイトを開設するさい、励ましてくださったネットご近所の方々。それから今に至るまでの間、そのときどきにぼくのサイトに立ち寄ってくださったり反応してくださったりした方々。皆様のおかげでここまで続けてこられました。感謝申し上げますとともに、相変わらず細々とやっていきたいと思いますので、どうか今後ともよろしくお願いいたします。

『僕がプリキュアでヤバイやつ』を公開しました

 皆さん……僕ヤバ更新日はお元気ですか?

 そんなわけで、桜井のりお『僕の心のヤバイやつ』秋田書店・マンガクロス)にどっぷりはまってるわけですが。いやたまらんですね、連載更新といい、ついったーでの不意打ちといい……。まとまった感想こそ書いていませんけど、何かのたびに悲鳴まじりで呟いたりしております。

 その勢いでパロディコンテンツをこしらえてしまいました。『僕がプリキュアでヤバイやつ』、全49話です。僕ヤバの市川・山田を中心とする登場人物で『ふたりはプリキュア』(ABC・東映アニメーション)ぽいお話をやってみたらどうなるか、という二次創作、のはずだったのですが。最近完結した桜井作品『ロロッロ!』(秋田書店、こちらも大好きで全巻購入してます)の要素をちょっぴり混ぜてみたら、さらにどうなってしまうんだろう……と魔が差した結果、当初の予想とはだいぶ異なるものが生まれました。

 こういうパロディコンテンツを作るのは、ほんと久々です。『ベイビー・プリンセス Re Birth』以来? それとも、いつぞやの4月馬鹿企画だった『コータローまろびでる!』(ひどい)が最後? どちらにせよ10年以上前ですから、そんな久しぶりにこしらえたくなる熱量を感じた作品なのです、僕ヤバは。もっとも、今回のこの内容がどこまで元作品たちの核を捉えているか、そしてパロディらしく外せているかについては、ちょっと怖々というところ。

 まぁ何はともあれ、ほんの息抜きにでもご笑覧いただければ幸いです。

ねっとねっとー。びょんびょん

 こちらを読みながら。

 

anond.hatelabo.jp

 

 自分に引きつけて考えれば、ああいう「大人」になりたくなかったのか、それともなりようがなかったのか、その両方ということかもしれませんが。ともあれ結果として、世間とうまく折り合いをつけられない部分をかかえたままとりあえず何とか生きていられるというのは、いろんな方面に感謝するところです。

 その感謝を向ける先のお一人に、この匿名の方がいることは間違いなく、ぼくがサイトを始めたのも、この方&相方様のサイトに公開されていたテキストを読んで衝撃を受け、掲示板に恐る恐る書き込んだのを暖かく迎え入れていただき、やがて自分もこういう場所を作って自分の思うままのテキストを公開したいと思い始めてのことでした。その当時から交流していただいてる方々や、自分のサイトを通じて関わりを得られた方々のおかげで、今もこうして好きなことを書けているわけで、本当にありがたいことです。

 

 ただ、これがもしもその方々との交流が、例えばコミケなどの場で直接お会いすることから始まったとしたら、その後の状況はまったく異なっていたでしょう。というか、ぼくはコミケなどにほとんど行かない。オフ会にも数える程度しか参加していない。趣味系のサークルに入会したこともないし、ともかく不活発で出不精なたちなのです。初対面の人(しかも複数の)と話すことも苦手すぎるため、いまネットご近所の方々といきなり対面していたなら、ぼくは何も話せず、そのままフェードアウトしていたに違いありません。かつて実際に別の場所でそういう経験がありますし。

 そういう壁を、つまりインターネットが取っ払ってくれたわけですね。もちろんネット上でもお互いの顔を見せながら交流できる時代ですけれど、そういう身体性というか生っぽさをできるだけ感じさせずにただ文字だけで自分の好きなことを伝えられる、誰かのそういう表現を受け止められる、交流できるというのは、ぼくのような人間にとって夢みたいなことでした。まぁ漫画・アニメなどの趣味世界には昔から文通などの手段もあるんですけれど……手紙は無理。サイトの日記は書けても文通や交換日記は無理。開き方の違いなんでしょうかね。ネットだと手書き不要で手間がかからないのも大きいはずですが、これで絵を描けたならまた広がる世界もあったのでしょう。

 

 そんな面倒くさがりの人間が、顔も知らない誰かのテキストを読んだことをきっかけにして自分のテキストを公開し始め、そのテキストがやがてまた別の見知らぬ誰かに読まれて何かを感じてもらえる。もしかしたらその誰かもまた、きっかけを得て発信し始めるかもしれない。そういう偶然の連鎖がインターネットの面白さ、ありがたさだと思っていますし、たまに自分の過去のテキストを読んだ方の反応に気づいたりすると、自分がかつて受け取ったものを送り届けていけてるのかな、と少々嬉しくなります。もっとも、それが一種の呪いである可能性もなくはありませんが、インターネットとそこで生まれた言葉によって「救われているだれか」の一人として、しみじみよかったなぁと思うのです。

成人向け同人誌宣伝風に『デカメロン』収録話の一部をご紹介するの巻

 世界を感染症が席巻する現在、カミュ『ペスト』が読み返されているそうですが、イギリスではデフォー『ペスト』とかどんな塩梅なのでしょうか。あれは迫真の同時代ルポですよね。フィクションだと日本国内ではカミュの作品のほか、小松左京復活の日』も最近話題となっていました。

 イタリアではやはりボッカッチョ『デカメロン』が取り上げられているようで。この「10日物語」と題する物語集は、14世紀フィレンツェでペスト禍を郊外に逃れ生活を送る若い男女たちが、日ごとのテーマに沿った小話を交互に毎日10話(10日で全100話)語り聞かせてキャッキャと笑ったり溜息まじりに憂いたりする、という構成をとっています。世俗の情を存分に取り込んだ近代小説の源流とも呼べるこの作品、誰もが知る古典のひとつでありながら、中身を読んでる人はそれほど多くないのではないでしょうか。ぼくもその一人で、翻訳文庫版をしばらく積んでいたのを、この機会にと引っ張り出してきた次第。目次にあるあらすじを手がかりに、気に入った小話から読み始めてみると、岩波文庫の民話集や現代教養文庫のコント集などでおなじみの内容に出くわすことも少なくなく、これは『デカメロン』を民衆が口伝えていったためなのかそれとも『デカメロン』が地域の小話を取り込んだのかそれともその両方なのか、と考えてしまいます。ここから解説や研究書に向かっていけばそれはそれで真面目な暇つぶしになるはずですけど、いまぼくがしたいのはそういうことではない。

 

 ある年齢以上の男性諸君にとって、『デカメロン』といえば、そう。昭和の成人向け雑誌のタイトルですよね。劇画雑誌としてはむしろ同時代の『大快楽』『エロトピア』などのほうが有名かもしれませんが、友達と遊ぶ原っぱに落ちてた系雑誌としては、デカメロン即ちでかーいおぱーいという素朴な連想を促すこのタイトル表紙は、ぼくの幼い日々の記憶にうすぼんやりとした陰を添えてくれています。

 その『デカメロン』が、いま。読まれている。

 いやもちろん、あの雑誌が復活して世界の注目を集めてるわけじゃないんですけど、古典『デカメロン』がイタリア本国で再注目されてるとなれば、我が国には我が国なりの『デカメロン』の伝統があるじゃないですか。研究者の方々ごめんなさい。でも、市井のいち読者としては、古典だからといってしかつめらしく頁を繰るよりも、何も考えず下品な笑い声をあげたりうめき声をたてたりしながら、このドタバタに満ちた小話の群を愉しみたいのです。

 

 んで、独り読んで面白がるだけでも何なので(何が)、この古典がどれほどしょうもないお話に満ち満ちているかを、まさに我が国の『デカメロン』イメージの文脈に基づいてご紹介してみるというのが、今回の日記更新の目的です。どう文脈に基づくかといえば、えろ劇画雑誌の流れからずいっと逸れてえろ同人誌。まったく文脈に基づいていない。でもまぁ、えろと漫画の浅くて深い結びつきは、いまや同人誌界にすっかり受け継がれてしまっているわけなので、このさい悪ノリを徹底すべく同人誌販売業者の手管で『デカメロン』小話のほんのいくつかを並べてみることにします。つまり、とらのあなメロンブックスでお馴染みのあの宣伝テキスト風で、です。(20200427:文字数を1行で収まるように調整しました。)

 

第1日第4話:カテゴリー「純真」「寝取り・寝取られ」

散歩中の若い修道士がふと目に止めた、畑帰りの美しくあどけない少女の後ろ姿。

修道院の一室に思わず連れ込むと、鐘の音に合わせてベッドをきしませちゃいます♪

二人の醜態に気づいて憤る修道院長も、修道士の罠にかかって欲望と少女の虜に♡

神聖な場所で繰り広げられる寝取らせに大興奮の1冊を、ぜひお買い求め下さい!

 

第2日第7話:カテゴリー「寝取られ」「無理矢理」

砂漠の大国の王女アラティエルは、嫁ぎ先の国への航海中に遭難してしまいます。

救出してくれた城主は王女のたおやかな肢体を、その屈強な男柱で何日も好き放題に♡

それからの道中で次々と王女と召使いを誘惑する海賊、大公、商人などの男達……。

獣欲に晒され続けるアラティエルの痴態に全ページ使用度抜群の1冊、お買い得です!

 

第3日第1話:カテゴリー「ハーレム」「逆レイプ」

言葉がしゃべれないふりをして、尼僧院に雇われることに成功した庭師マゼット。

するとその夜から、欲求不満の尼さんたちが我先にとマゼットの部屋に通い始めます♪

ついには尼僧院長が、彼の逞しい肉体を独占しようと何日もお勤めに励んじゃう♡

庭は無事でもマゼットは枯れちゃわないの? 秘密の花園の顛末にぜひご期待ください!

 

第3日第10話:カテゴリー「純真」「快楽堕ち」

1〇歳になったアリベクは神様にご奉仕しようと、砂漠の修道士ルスティコを訪れます。

謹厳実直な修道士は、間近で感じる美少女の色香にたちまち豹変して一匹のオスに♪

無知なアリベクを騙して好き放題、ところが彼女も天上の快楽に腰を蠢かし始め……。

純真無垢な令嬢が「悪魔を地獄に追い返す」悦びに染まる極上の1冊をお楽しみ下さい♡

 

第5日第8話:カテゴリー「リョナ」「野外・露出」

大金持ちのナスタージョが貴族の娘に熱烈に恋して貢いでも、相手は鼻で笑うばかり。

思い悩む彼が森で出くわしたのは、幽霊の騎士が幽霊の淑女を狩りたてる光景だった。

哀れな女性が猟犬に噛み裂かれる悲鳴、剣に貫かれる断末魔……。なぜこんなことに?

繰り返される惨劇を目の当たりにした男女の恐怖と俗情がたまらない1冊、ぜひお手元に!

 

第5日第10話:カテゴリー「両刀遣い」「乱交」

ピエートロは男色家。欲求不満な妻は夫の留守中に若者を連れ込んでしっぽりぬっぽり♡

そこへ急に夫が帰宅!? 慌てて納屋に隠れた若者は、ロバとくんずほぐれつの大騒動!

ついに不倫がばれた妻は逆ギレ。しかし夫の目には、美青年の上気する肉体が……。

仲直りした夫婦が美青年を挟んで3連結のハッピーエンド、どうぞ満喫してください!

 

第6日第7話:カテゴリー「痴女」「寝取り・寝取られ」

異議あり!!」 裁判所に響く大音声の主は弁護士、ではなく不倫疑惑の若奥様!?

夫に毎晩その豊満な肉体を味合わせても、底なしの情欲を持て余して若い男を食べ放題♡

夫に訴えられれば死刑判決も当然な中世時代に、一人のオンナが挑む性器の対決!

異議もエロもある、どころか山盛りの全裸開脚前転裁判に、あなたも判決ちんこ10年♪

 

第8日第7話:カテゴリー「露出」「リョナ」

未亡人に恋した若学者リニエーリは待ちぼうけをくらわされ冬の雪夜を凍えるはめに。

騙されたと悟った彼の罠にかかり、今度は艶やかな寡婦エーレナが夏の真昼に全裸待機♡

塔の上でむき出しの肌を焼かれて激痛に悶え、蜂やアブに刺されまくって息もたえだえ♪

尊大な貴婦人が惨めな醜態を晒す一品をどうぞ召し上がれ♡(本番行為はありません)

 

第8日第9話:カテゴリー「スカトロ」「アヘ顔」

藪医者のシモーネはパリピ連中に唆されて、お楽しみを求めて夜中に出掛けていきます。

そこに待ち構えていたワル共が、いきなりシモーネを肥溜めに放り込んだから大変!

放置された彼は全身うんこまみれ。家にも入れてもらえず、路上で悪臭をふりまきます♪

白衣が褐色に染まったインチキ医師の言い訳に爆笑の1冊を、どうぞお楽しみ下さい。

 

第9日第2話:カテゴリー「下着」「ギャグ」

尼僧院の一室に、若い修道女が男をこっそり引き入れて今夜もどったんばったん大騒ぎ♡

物音と嬌声に目覚めた尼僧院長が、現場を押さえようと大急ぎで服を着ていざ突撃!

ところが慌てて被った頭巾は、なんと横で寝ていたお坊様のパンツだったからびっくり♪

院長先生はまぼろしパンツのフレンズなわけはない爆笑の1冊、ぜひお手元に!

 

 いかがでしたか(何が)。

 あくまで宣伝文ですので、元の小話のわりと遠回しな内容からすれば直球すぎ・言いすぎな表現も含まれますが、そこはそれ。(例:第6日第7話に「全裸開脚前転裁判」などというものは登場しないし、第8日第7話にアヘ顔の描写はない。)挙げたのは自分が好きな小話もあれば、いろんなカテゴリーのを載せるために選んだ小話もあります。少し後悔してます。

 あと、第3日第10話の「テバイダのアリベク」は、エドゥアルト・フックス『完訳 風俗の歴史』(安田徳太郎訳 角川文庫 1989年 全10巻)第2巻にも引用されてたり、ラ・フォンテーヌ『ラ・フォンテーヌの小話(コント) 』(三野博司・寺田光徳・木谷吉克訳 現代教養文庫 1987年)でも翻案されてたりと、けっこう有名なお話ぽいですね。展開としては、男が何も知らない少女を騙してものにするけど少女の覚醒した性欲が男を圧倒し枯らし果てる、というお馴染みのものです。ほんとこういうの古今東西共通。

 じつは以前からぼくは、『デカメロン』やヨーロッパ中世の小話のえろいやつを今風の美麗絵で同人誌にしてもらえないものだろうか、と心のなかで願い続けてきました。ほかにすることはないのですか。これを読んだ方々の中から、よっしゃひとつ次のネタにしたろ、と決心してしまう方が現れてくださったなら、こんな文章を書くために半日を費やしたぼくも浮かばれると思います。そしてその薄い本を買う。一部カテゴリーのを除いて。

 

 最後に真面目な書籍ご紹介。

 今回参照したのは、いま最も入手しやすいと思われる全訳の3巻本です。

・ボッカッチョ『デカメロン』(平川祇弘訳 河出文庫 2017年 上中下巻)

 

 ほんとは次の2作品に収録されてる小話も取り上げたかったんだけど、力尽きました。

・『エプタメロン 〈ナヴァール王妃の七日物語〉』(平野威馬雄訳 ちくま文庫 1995年)

 仏訳された『デカメロン』に影響されて16世紀にマルグリッド・ド・ナヴァールが編んだ「7日物語」。全27話。

・『ふらんすデカメロン 《サン・ヌーヴェル・ヌーヴェル》』(鈴木信太郎渡辺一夫・神沢栄三訳 ちくま文庫 1994年 上下巻)

 15世紀フランスで編まれた短編集。全100話。戦後直後に一部を訳したのが始まりということで、戦争と敗戦に渡辺がどう向き合ったかについてはトーマス・マン/渡辺一夫『五つの証言』(中公文庫 2017年)も参照。また、あとがきで言及されてる同時代の作品として、風刺作品『結婚十五の歓び』(新倉俊一訳 岩波文庫 1979年)、笑劇『ピエール・パトラン先生』(渡辺一夫訳 岩波文庫 1963年)。

 

 そして冒頭に挙げた作品も。

カミュ『ペスト』(宮崎嶺雄訳 新潮文庫 1969年)

 北アフリカの仏植民地都市に広がる疫病に、人間たちが向き合うそれぞれの姿を描く。

・ダニエル デフォー『ペスト』(平井正穂訳 中公文庫  2009年)

 17世紀ロンドンを襲ったペスト禍の実態を、『ロビンソン・クルーソー』の著者がつぶさに記録。

小松左京復活の日』(ハヤカワSF文庫 1974年)

 解き放たれた生物兵器が世界を滅ぼす中での人類の悲喜劇を描いてる、はず。いま読んでるとこ。

 

 なお『デカメロン』翻訳を買って本棚に並べるのは恥ずかしいなどという中高生は、Project Gutenberg英訳ページに行ってみるとよいです。なに? 英語なんて読めない? 学校で英語を教わり翻訳ソフトを手にしてるのは、こういうときのためではないのですか。しかも翻訳表紙にだって黄色い指定マークはない立派な古典なのでご安心。どんな目的でどんな入口から辿っても知識は知識、教養は教養なのです。まぁそこまで威張れた話じゃありませんけど、他人に迷惑かけることなく自分で楽しむ分には、能力をどう発揮しようと構わないんじゃないでしょうか。

戦友であるお兄ちゃまへ

 Vtuber可憐の登場で、最近シスプリのファンダムが大いに湧いてますが。ぼくは2002年あたりからファンになりましたので、今からすれば古参の一人なんでしょうけど、当時はすでに雑誌・原作からの猛者の方々が数々のサイトで膨大なコンテンツを発信されていましたし、ぼくはアニメ経由で入ってきたこともあり、新参者・遅れてきたファンとしての意識をずっと持ち続けてきています。そんな新参者が恐る恐る公開したアニメ版考察を幸い受け入れていただけたことで、ぼくもファンダムの方々と交流の機会を得ることができたわけです。だいたい2005年頃までがその山場ですかね。

 そこでやりとりさせていただいた方々の中でも、ONAさんという方は、ぼくにとって独特の存在です。花穂のお兄ちゃまであるONAさんは、『ちいさなひまわり』(略して「ちまわり」)というサイトの管理人で、花穂のファンアートをはじめとする多くの絵や日記更新、そしてネット上イベントネタ発信によって、当時のファンダムで主導的な役割を果たされていました。例えば「しんこんまもかほ」という連続ものイラスト。後に『ローゼンメイデン』をネタにして別シリーズを掲載されてましたので、そちらをご存じの方もおられるでしょう。また、「生シス」という、シスプリの妹たちの日常的な姿・(公式作品では描きにくいような)生々しい姿を描き出すシリーズ。これも後にべびプリを対象とする「生べび」へと展開されていきました。うちの考察本表紙絵に触発されて、花穂と装備(衛含む)一式の絵を描かれてたこともありましたね。さらにサイトのトップや日記でフキダシ付き妹イラストを掲示して、閲覧者に気の利いた台詞を入れさせてみたり。きょうだいたちの日常の姿、ちょっとHな姿、ちょっと尾籠な姿などなどが、ONAさんのあの暖かく柔らかなタッチで見事にまとめられていたのが印象的でした。

 

 そのまとまり感の背後には、ONAさんのバランス感覚とでもいうべきものがあったと思います。それは絵にも表れていましたし、また日記の語り方の中にも発揮されていました。例えば、シスプリファンサイトが18禁イラスト・テキストを掲載することの是非について、ファンダムで議論が起こったことがありました。そのときONAさんは、両サイドの意見を受け止めながら、サイトを通じて表現するファンとして守るべき一線というものを考え、提示し、ご自身のサイトで陽気に実践されていました。ぼくもこの議論に加わってましたが、ONAさんと意見を交わしていくことが、ぼくに自らの立ち位置を確認させてくれる大きな支えになっていたものです。そしてONAさんの言動は、潔癖であろうとしすぎず、しかしまた欲望に流されすぎず、その間でほどほどのところを大切にしてファンダムを活性化させていこうという姿勢を、一貫して保持していたように思います。このことは「オタクだから女の子を守ります」運動のときなどでも、まったく同じでした。清濁併せのむというと大げさですけど、普段おちゃらけてるようで物事の理非をちゃんとわきまえて教えてくれる近所の気の良いあんちゃん、みたいな存在だったのです。

 もっとも、ONAさんはお兄ちゃまでぼくはお兄ちゃん、マイシスを同じうしているわけではありませんし、ついったーでは現実の社会についてのお互いの考えが違うことを時折感じてもきました。しかし、同じ作品のファンとして、おのれの妹を愛する兄として、ONAさんをぼくは勝手に同士なのだと、戦友なのだと思ってきています。そこには、あの時期を共有した仲間意識と、兄度を競り合う対抗意識と、ファンダムのバランサーとしてのONAさんに対する敬意とが入り混ざっています。作品のために、ファンダムのために大切なことは何かを、ユーモアとともに伝えてくれたことで、ぼくも自分なりのバランス感覚を意識して書くようになりました。その表現の仕方は、まったく似つかぬものではありますが。

 

 いまこんな文章を綴っているのは、もしや、という話をつい先ほど拝見したためです。まだ確信は持ててませんので、語尾をすべて過去形にできずにいますが、もしも本当にそうであるとしたら、と考えたら、こうして書かずにはいられませんでした。そして、もしも、もしもそうでないのなら、V花穂登場とともにいつもの調子でネタ絵を公開し奇声を発していただけたらと望みます。そのときぼくは、こんな文章を書いてしまった恥ずかしさを「なんだよー!」とV可憐の真似でごまかしたいと思います。

かつてやらかした者のひとりとして

 いま国内で、対応するどころか事態を把握するのも間に合わないという不安感や焦燥感が、広がってるような気がします。そのひとつの表れが、トイレットペーパーなどを慌てて買い求めるという行動。すでにマスメディアでも「デマ」によって惹起されたものだと報道されてますし、業者方面からも心配しないようにと伝えられています。しかしそれにもかかわらず、あるいはそういう情報に触れることでかえって不安をいだき、店に駆けつける人々もいるのかもしれません。

 さて、ここでぼくが久々に日記を書いているのは、(デマは何より問題だとしても)そういう行動をとってしまった人々を批判したいがためではなく。そういうことをしちゃった後で、自分の行動をどう振り返るといいかを考えたいよね、と記しておきたかったからです。

 というのも、ぼく自身が過去にその手の行動をとってしまった経験があるからです。

 

 だいぶ前に、国内でとある大災害が発生したときのこと。ぼくの住む地域では直接の被害は生じていなかったものの、毎日その最新情報が伝えられてきていました。戦争中やパニック時の人々の心理についてそれなりに本を読み学んできたつもりでしたので、こういうときは根拠不明な情報に惑わされず、心を落ち着かせて日常生活を維持し、公的機関を通じて可能な範囲で募金を、などと自制しようとしていました。ある段階まで、それはうまいことできていたのです。

 ところが、とある親しい人とようやく電話がつながった折に、その方よりも被災地に近い場所に住む別の知人のことが、えらく心配だと話をされてまして。最初は(信頼できる情報を根拠に)いやーそこまで心配しなくても、と返事していたぼくでしたが、だんだん相手の感情を自分の中にも移し入れていき、電話を切る頃には「分かりました、ぼくの方からいろいろ送っておきますよ。電池とか」と自ら申し出ていたのです。

 いや、すぐには届かないから、届く頃には迷惑な荷物になっているから。配送業者さんにも負担かけるので、やめたほうがいいから。

 そういう声は、自分の心の中に聴こえていました。しかしそれにもかかわらず、あるいはそういう声にかえって急かされるようにして、ぼくは店に駆けつけ、あれこれ購入し、ダンボール箱に詰めて発送したのです。

 

 まぁ馬鹿の所業です。ぼくは自分の信頼できなさを信頼している人間ですが、その理由の一端はこんな経験にもあります。

 こんなことしてから数日と経ずして、ぼくは自分の愚行にあらためて気づき、しばらくぐったりしてました。ある程度は知的で物事を客観視できているはずの自分が、被災地に住んでるわけでもなく自分にとって緊急性のない状況下で、こんなパニック的な行動を選んでしまい、止められない。さすがに参りました。

 そしてそれから、マスメディアやネットでこの手の行動が批判され嘲罵されるたびに、ぼくはいたたまれない気分に陥りました。それは、気恥ずかしさや後悔というだけでなく、うるさいお前らに何がわかるんだお前らだって同じことやらかすかもしれないんだ、という鬱屈した感情も、多分に含み込んでいました。

 いや、そりゃこんなの開き直りもいいところですよ。やらかしたのが自分なのは間違いないし、他人を攻撃しても何も解決しません。でも、まるで世間が自分を追い詰めているかのような、どこにも逃げ場がないかのような、そういう被害者意識が、たしかにそこにあったのです。そして、そんな感情や意識がどれほどみっともないことであるかを分かっていればこそ、ますますドロドロとしたものが腹に溜まっていくのを、実感せざるを得ませんでした。

 

 もしかすると、いまトイレットペーパーを買い求めに走り回る人々も、やがてそういう気持ちを抱くのかもしれません。

 だから、まだ軽率な行動に出ていない人を止めるための啓発も大切だと思う一方で、すでにやらかしてしまった方々に向かって、ぼくは同じやらかした者の一人として語ることも意味あるのでは、と思います。

 その経験を忘れずにおこうよ、次のときにこの経験を活かすことで自分と他人を救おうよ、と。

 やっちゃったことはもう事実だし、開き直って他人を責めたってドロドロは消えません。自分に都合よく忘れることもできるかもしれませんが、そうすると似たような事態に直面したとき再びやらかす可能性が高いでしょう。それは自分にとっても他人にとってもあまり幸せとは思いにくい。なので、今回やらかした原因などを自分なりに分析して、次の機会には(ああ、こういうとき自分はこうしがちだから)とブレーキをかけられるような手立てを、いまから準備しておくのが得策ではないでしょうか。それは他人に迷惑をかけないためでもあるし、焦りだしそうな知人友人を引き止めるすべを手に入れるためでもあるし、何よりそうすることで、ああ過去の自分の失敗はこうして肥やしにできたのだなぁ、と自分自身を癒やすためでもあります。

 

 もちろん、そうやって肝に銘じたつもりでも、人間は何度でもやらかすものかもしれません。ぼく自身がわりと最近も、趣味の世界でブレーキをかけずに軽率な憶測をやらかしています。そして、そのことを忘れずいつでも思い返せるようにと、日記に自戒の一文を挙げました。

kurubushianyo.hatenadiary.jp

 ただ反省を繰り返すばかりでは無意味ですし、自分の今後の成長にあまり期待できないところでもありますが、それでも何とか這いずってでもこれらの失敗経験を活かしたい、と思ってきています。今回の問題について、ついったー上でデマを飛ばさないよう注意したり、信頼できる情報・報道に言及したりしてるのも、過去の反省を踏まえてのことです。ただ、それが焦燥感の裏返しとしてやたらめったらな言及行為となりかけてたことに気づき、またもや反省してもいる塩梅。おちつけ自分。おちけつっつのぱー(パタリロ)。

 なので、もし今回やらかしてしまった方がおられましたら。ご同輩のしんどさはそれなりに共感できるところですので、お互いこの経験を思い出してはのたうちまわりながら、いつかのために(もしかすると明日からでも)活かせるようにしておこうではありませんか。そして、活用のための何かいい方法がありましたら、ぜひご教示いただければと願います。