逃げるライオスたち

 アニメ『ダンジョン飯』とTRPGをからめる話を目にしますが。『D&D』の経験者としては、そこまであのゲームに近くはないと感じつつ、しかし自分の知ってるのは赤箱時代と3.5版のみなので、最新システムだとまた違うんですかね。

 ぼくが観ていて強く印象を受けるのは、ライオスたちがちゃんと逃げるところです。原作の九井諒子ダンジョン飯』(BEAM COMIX 2015-2023年 全14巻)で確認していくと、例えば最初のファリン蘇生(第4巻)までの間でも、第6話(動く鎧)、第11話(霊)、第12話(生ける絵画)、第13話(ミミック)、第18話・第19話(ウンディーネ)、第24話(炎竜)とちょくちょく逃げてる。もちろん敵を罠に引き込むための戦術的撤退も含まれますが、敵に対して分が悪いと認識したときに退却を選べるというのは、冒険者として大切なことだと思います。これは、そもそもライオスたちがファリンを失ったのがきちんと退却できなかった(悪い条件で無理して炎竜と戦った)ためだということと対比するまでもなく、ファリンの魔法による援護や十分な仲間・装備を欠いている状態ではタスクと無関係な戦闘リスクをなるべく避けたいという事情ゆえでしょう。

 

 しかし、この「逃げる」という行動は、ぼくの(あまり巧くはない)TRPG経験からすると、けっこう選びづらいものでした。

 ダンジョンマスターをやってるときは、なんでプレイヤーたちこんな無謀な戦いを挑むんだと何度も首をかしげたものです。一度撤退したうえで、得られた情報をもとに装備や呪文を整えてから再戦するほうが効率的だと分かるはずなのに。プレイヤーみんな馬鹿なの?

 ところがいざ自分がプレイヤーになると、モンスターを避けることで経験値や宝を得る機会を失いたくないとか、手持ちの呪文や装備で対処可能ではないかと(誤った)判断をしたりとか、ダンジョンマスターがわざわざ出してくるんだからこのパーティで倒せるはずだと皮算用したりとか、イニチアチブダイスを振ってしまうともはや戦う以外の選択肢を思いつかなくなる(プレイヤー全員で相談しようとするよりも個々人の行動決定が先立ってしまう)とか、いろんな理由で逃げようとしなくなる。ついでに言えば他のRPG作品に比べてD&Dは、「逃げる」ことについてのプレイヤー向けアドバイスや、ゲームシステムへのメリット組み込みなどが、ほとんど欠けているように思います。それゆえプレイヤーが「逃げる」ことを選びたくなるようにするためには、ダンジョンマスターが情報や状況説明を注意深く行う必要があり、つまりそこがマスターとしてのぼくの課題だったわけです。

 

 さて、ライオスたちは状況に応じて「逃げる」判断ができるというこの一点においても立派な冒険者だなーと思えるのですが、ダンジョン探索ではなく各人の生き方に目を向けてみると、「逃げる」ことの陰影がたちまち現われてきます。

 ライオスがなぜ冒険者になったかというと、生まれ故郷の村から逃げ出したから。彼が語っているように、幼くして霊術の才能を発揮したファリンを村人どころか父親さえ忌避するのを、ライオスは憤っていたはずなのに、その彼自身が嫌気のあまりに妹を置いて村から逃げてしまった(第52話、第67話)。そのことをずっと申し訳なく思っていたライオスが、それ以外のことも含めて「色々なものから逃げてここまで来た」自らの「覚悟」のなさを直視し克己する過程そのものが、この作品の冒険譚であります。

 マルシルは孤独の不安に自らの優れた知性で真正面から立ち向かっているようだけど、その不安は心の傷として奥底に抱えたままであり、しかも冒険仲間たちとの日々でさえその行く末にある離別を絶えず想像させてしまう。それでも踏ん張って努力してきた魔法の研鑽が、大好きなファリンを魔物にしてしまった原因なのではないかという後悔と恐怖(第42話)。じつはこれはマンドレイクのときの「みなさんのために何も力になれないのは寂しいです」(第4話)という言葉とつながっていて、マルシルはけっきょく自分が何もできないのではないかという不能感から全力で逃げているとも言えます。

 チルチャックは妻との不和(第56話)に、センシはグリフィンのスープ(第47-49話)に向き合うことから逃げていたし、イヅツミは己の信じる自由を求めてあらゆる束縛から逃げようとした。他の者たちもそれぞれに抱える事どもから逃げたりなんだりしていて、そこが弱みでもあり人間くささでもあるという。

 そんな彼らが「逃げる」ことは、しかしまたダンジョン探索とある意味で同じく、戦術的撤退でもありました。ライオスが逃げてくすぶる生活のなかでそれでも忘れられないファリンへの兄らしい思慕を温めていったように、魔物への興味を執着へと煮詰めていったように。みんな逃げながら何かを得て、それは予想もしなかったし欲しがってさえいなかったものかもしれないけれど、やがてその力も活かして自らの傷に向き合い、大切なものを、大切な者たちを守ろうとする。いつもそううまくいくとは限らないし、逃げずに解決できるにこしたことはないかもしれないけど、逃げることもまた時と場合によって自分を形作るかけがえのない一部なのだということを、この作品は教えてくれるように思います。逃げている間にたまたま育んでしまったものが、本来の問題に向き合うための助けともなり、遠回りなアプローチを可能にしてくれる手がかりともなってくれるのではないか、そしてそのきっかけを人々がぶつかったり食い違ったりしながらお互いを認め受け入れて折り合いをつけていく交わりの中で見いだしていけるのではないかという希望や信頼を、感じ取らせてくれるように思います。

 そしてそこには、各人のそのような行きつ戻りつや交わりを包みこんで推し進めていく時間の流れが――マルシルがあれほど恐れてきたものであり、しかし明らかに相貌を異にする時間の流れが、たしかに存在するのです。