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好きな作品に対する異論への向き合いかた

 ついったーTLで、自分の苦手な批評家などが自分の好きな作品について論じたときどういう反応をするか、という話題があがり、ぼくの場合はと考えておりました。ぼくが考察を書くときの姿勢とも関わることなので、それについてはずいぶん前に書きましたけど、久々にあらためて文章にするとどんな塩梅なのか。

 

 ぼくの苦手な批評家、はいっぱいいます。というか、批評家や批評というものがだいたい苦手。アニメ批評などをたまたま読む機会があっても、その内容がさっぱり理解できないということがあまりにも多く、ああこれはぼくの頭では届かない世界なのだな、と自分の能力に見切りをつけて現在に至ります。批評に触れるということは、そういう自分の頭の悪さを再確認させられるということでもあるので、まぁ気分的にしんどいですね。

 また、それらの批評を読むことはぼくが作品を楽しむうえで必要不可欠なものではないし、読んで(自分が誤読する可能性もあって)腹を立てたりモヤモヤしたりするくらいなら、最初から近寄らないでいたほうが幸せではないか、という快楽計算もあります。ぼくは批評を作品と切り離して楽しむということができないたちで(理解できないんだから当然ですけど)、作品にまつわるたいていのものは、他人の批評だろうと感想だろうと二次創作だろうと公式展開だろうと、ぼくがその作品をよりいっそう楽しめるようにしてくれる手引きとして(のみ)ありがたい存在なのです。もちろん批評で飯を食ってる人たちには彼らの真剣な理屈があるだろうからそれはそれとして、ぼくはぼくで趣味を楽しむ範囲内で受け取らせていただく、というわけです。

 だから、ニュースサイトなどで批評系テキストが紹介されていても、それが好きな作品について新たな享受の手引きになりそうだという予感を得ないかぎり、ぼくはまず辿りません。ついったーでは、プロアマ問わず批評系の方々をほとんどフォローしてません。気楽に作品を楽しみたい場で毎日、他人の論争に耳を傾けられるだけの余裕は、ぼくにはないからです(知己を得ている批評系の方の呟きを時折まとめて拝読することはよくあります)。自分の能力や耐性や関心にあわせてネット視野を調整しているつもりですし、その外部がずんどこ広いことも一応意識しているつもり。

 

 そういう穴熊タイプのぼくが、苦手な批評家がぼくの好きな作品について論じているという情報のみならずその内容について知ってしまう機会は、意外とあるっちゃあります。例えばついったーTLでも、こちらがフォローしてる方々が話題にされてたりするし、RTが飛んでくることもあるし。RTの文字色を白に設定してそのままでは目に入らないようにしてますけど、それでもつい読んじゃったりして。

 そんなとき、気になったまま放置できない場合は、思い切って当の批評を自分で読んでみたりもします。そして、やっぱりまるで分かんないや、となれば放置&忘却。なるほど面白く分析してくれてるぞ、と思えれば以後の作品鑑賞の手引きのひとつにさせていただきますが、そのとき誰が書いたのかはあまり気にしません(著者の存在を無視するのではなく、苦手意識をそこだけ和らげたり、その批評家へのぼくの認識を改めたり、ということ)。

 さて、問題となるのは、その批評で示される作品像が自分の作品解釈とあまりに異なるだけでなく、何度読んでも「この人は本当にあの作品を視聴したり読んだりしてるのか……? この人にとって都合のいい枠組みに合わせて、作品をてきとーにはめ込んでるだけじゃないのか……?」と感じてしまった場合です。

 まず、ネット上でお付き合いのある方々が、その批評についてきっちり批判を行われている最中ならば、ぼくはその方々にお任せして「ふんふん、なるほどー」と学ばせていただくことにしています。両方の見解をもとにして、ぼくなりに考え直せることもありますし。ありがたいですね。

 次に、ぼくのネットご近所で、どなたもその批評について反論されていないならば、ぼくの熱量が低いときは「まぁ否定も肯定もされてないからいいか。こういう批評も流通する自由があるよね」などと割り切ろうとします。

 最後に、ぼくのネット視界内で身近などなたかがその批評に賛同されているならば。さぁ困りました。と同時に、心が沸き立つときです。

 

 最後のケースで、ぼくはつねに、自分の中に生まれた攻撃性が向かう先を確認することにしてます。いやーすんごくカッカときますからねそういうとき。できるだけ平穏に保ちたいネット視界がいきなり土足で踏み荒らされたような気持ちから、瞬時にテンパりやすいのです。ただし、そのとき例えばついったーでは、その制約内で表現できる程度の簡単な意見(自分の作品解釈)を表明するにとどめて、なるべく論争に持ち込まないようにしてます。いや、たぶん周囲の皆様がぼくの瞬間沸騰に反応するのを我慢してくださってるんだと思いますが……。ぼくとしては、ご近所の方々の賛同意見に対してねちっこく反論し続けたところで相手にも自分にも嫌な思いを与えるばかりですので、反論すべき本来のターゲットが当の批評そのものであることを、ここで多少のガス抜きをしたあとで確認し直します。テッカマンエビルが悪いんじゃなくて、寄生したラダムが悪いんだ。こいつが。こいつさえいなければ。

 もうね、こういうときは趣味に関わる防衛機制が働いてますから、自分の中に生まれた攻撃的衝動をいくら抑えようとしても無理なのですよ。我慢してもろくなことにならない。だったらせめて、その矛先を正しい方角に向けましょう、ということで、不快の根源たるその批評さえ打破してしまえば、ぼくの溜飲はとりあえず下がるはずなのです。

 

 え? ぼくの反論程度でその批評や批評家についての評判が動揺するわけないって? そんなもの最初からどうでもいい。だってそんな評判を気にするってことは、いつまでも自分の苦手な批評家をヲチし続けなきゃいけないってことでしょ? 不毛の極みです。それよか、自分の考察がネットご近所でその批評についての認識を若干考え直していただくための材料になりさえすれば、そしてネット視界に再び平穏が戻りさえすれば、だいたい目的の半分は達成されたことになるんですから。

 残りの半分の目的は、好きな作品についての半端な批評を目にしてしまったことで生まれたぼくのドロドロした衝動を、さらなる作品愛へといかにして昇華するか、です。さっき溜飲が下がるとは言いましたけど、その批評や批評家やシンパをいくら批判したり罵ったりしたところで、ぼくが得るものって何もないんですよ。どうしたって自分の負の面を露呈させるわけだし、そんな自分の切り売りで飯が食えるわけでもないし、なにより今後ぼくの好きな作品を鑑賞する楽しみをそういう記憶が汚染してしまうというのが心底つらい。深刻さに雲泥の差はあるにせよ、犯罪被害者の心境ってこういうのなんですかね。自由言論ですから犯罪でもなんでもないわけですけど。

 だから、ぼくはこういうとき、

(1)その批評をできるだけ受け止めたうえで、作品をもう一度観直して、作品内からその批評の根拠のなさを指摘できるような具体的箇所を確認する

ことに加えて、

(2)むしろ、それらの具体的箇所も含めてこんなふうに解釈しちゃったほうが、その批評よりも作品に即しながら別方向に突き抜けてて面白くね? と自分なりに思える作品像を提示する

ことを、同時に目指すことにしています。そして、その結果まず間違いなく、

(3)ぼくがその作品の新たな魅力に気づいて、その作品をもっと好きになる

のです。

 ここまできてようやくぼくの攻撃性は作品愛へと昇華されるというめんどくささですが、(3)まで辿り着きますと、最初はぼくに苛立ちを与えていた批評も、ぼくと作品との関係をいっそう深化させるための手がかりとして役立ってくれたことになるわけで、自分の中では「結果的にありがと!」という気持ちになれるのですね。他人へのヘイトを蓄えずにいられるのは、ぼくの趣味生活にとっては本当に大切なことです。そうすれば、「ああ、馬鹿みたいな分量と内容のテキストを一つの作品に捧げてしまった」という満足感と、「やっぱこの作品好きだわー」という愛情に、手放しでひたれますし。

 

 そんなわけで、基本的には自分自身の作品享受に寄与するかどうかだけが焦点なのですが、 いわゆる承認欲求というものを一切求めないかといえばそれは違います。そりゃやっぱり自分の主張を誰かに認めてほしい。できれば賛意を得たい。多くの読者を得たい。「こいつすごい馬鹿だw」という声もわりと嬉しい。

 ただし、「ぼくのことを認めてほしい」という気持ちは、「ぼくの考察をきっかけにして、誰かがこの作品を初めて好きになったり、今まで以上に好きになったり、もっと面白く感じたりしてほしい」という気持ちに、上書きされがちです。それは、ぼくの書いたテキストが、作品にとって役に立った、ということだからです。ぼくに喜びを与えてくれている作品への恩返しが図らずもできた、ということだからです。これが作品の評判をわずかでもプラスに変えたということであるなら、もう最高。

 このとき、その人たちが、ぼくが反論した批評からもそういう手がかりを得ていたとしても、それはそれでかまわないわけですよ。ぼくが受け入れないけど別の誰かが受け入れる意見もいっぱいあるし、ぼくの意見は誰かにとってまったく受け入れられない不快な意見であり得るし。実際、そういう反応をいただいたことが過去にあります。で、解釈の議論は議論として活発なうえで、そういう多様性が相互尊重のもとで確保されているファンダムは、作品をより豊かに楽しむことのできる場となるのではないか、と考えている次第です。ただし、日頃のぼくは「自分なりのしかたで作品を楽しめれば十分」と閉じこもっているわけですので、このへんは我ながら都合よく使い分けてますね。

 

 いまちょっと触れましたけど、自分を嫌ってる人が自分の作品解釈を読むことによって、自分が好きな作品を嫌いになってしまう人もいるんじゃないか? という不安(これも関連話題でした)について補足しておきます。

 この不安は、アニメ版シスプリ考察を書き進めていた頃にずっと抱いてましたし、忘れられない失敗経験ももってます。そこは反省するとして、しかしそれでも、自分の解釈や作品愛を一定のルールのもとで表現することにためらいはありません。一定のルールとはつまり、「比較の度を越えて他作品を見下さない」とか、「誹謗中傷しない」とか、「自分の頭で理解できていないことを書かない」とか、「自分に都合の悪い事実を無視しない」とか、そういう当たり前のものです。

 まず、そういう危険性に(配慮するだけでなく)囚われすぎてしまうと、何も書けなくなるというのがひとつ。無理ですそんなの。

 次に、ぼくと感性や判断基準が対照的な人にとって、「ぼくが好きな作品」は「すぐには手を出さずともよい作品」の標識として役立つかもしれない、というのがひとつ。(事実、ぼくにとってそういうサイト管理者がいるのです。その人が本気でオススメの作品のいくつかを実際購入してみるとぼくに7割くらい合わない、という。)

 さらに、ぼくの文章を読んで作品から離れてしまうなら、その人と作品との関係がその程度だったということ、というのがひとつ。その人が本気でその作品を好きであるなら、ぼくの解釈など押し流す勢いでご自身の言葉を示せばいいんじゃないかな、と。もちろん、好きになる前の作品に触れる第一歩を失うこともあり得ますけど、世の中ぼくの文章以外にもその作品について語っているものはたくさんありますし、そもそも作品そのものの創作物としての魅力は、いちファンの存在で完全に消せるほどヤワじゃないと信じています。

 最後に、ぼくの作品考察は、ぼくを嫌ってる人がそう手軽には読みきれない分量で書かれてますので、読む意欲をあらかじめ奪うことによって危険を回避できてないかしら、というのがひとつ。長いよ。毎度長いよ。もっとも、本文を読まずにタイトルに掲げられた作品名だけ見て判断しちゃうような人がいるかもしれませんが、どのみちそういう人はぼくの趣味生活とは無関係です。