「わたしはここにいる」が届くとき

 最近、ついったーにて『涼宮ハルヒ』シリーズについてのぼくの考察に言及いただきくことがありまして。最初に公開した『涼宮ハルヒの憂鬱』考察

www.puni.net

は2003年7月、つまりシリーズ第1作刊行時に自分の日記で連載した考察を2006年にまとめたものです。次の『涼宮ハルヒの消失』考察2つ

www.puni.net

www.puni.net

は2010年に公開した前後篇。もう10年以上、『憂鬱』考察なんて17年も前に掲載したコンテンツで、これを日記で書いてた頃に生まれた方々がいまやハルヒたちと同学年ですよ。もうそんな年月が経ったなんて……。

 最近これらの考察に言及してくださった方は、シリーズ作品についての当時の論評・考察などを検索中に発見されたそうで。そこからまた、当時すでに読まれていた方々にも再読いただけたりと、嬉しい反応が続きました。そしてその一方で、最初のアニメ化以前の時期にあれだけネット上を賑わせていた各所のテキストが、現在ほとんど消えてしまっているという事実に、あらためてネット上の記憶の儚さをつきつけられます。もっとも、17年も過ぎれば出版物の多くも書店に並ばなくなるでしょうし、個人サイトをこれだけの間そのまんま維持すること自体がもはや酔狂なことなのかもしれません。

 

 この移ろいの速さを、ぼくは別の点からひねくれたかたちで感じることがありました。

 上に張ったリンクには、それぞれの考察に付されたはてなブックマークの数が示されています。公開当時、『憂鬱』考察には200以上のブックマークが付いていました。また、2ちゃんねるハルヒ板では一時期ぼくの考察urlが何度も貼られたり、いつしかぼくが宣伝してるのではと勘ぐられたりもしました。現在ブクマ数は大幅に減っていますけど、それでも100近くあります。

 これに対して、『消失』考察はどちらも10以下で、しかも公開当時もこれくらいでした。ひとつひとつのブックマークは本当にありがたいですし、数の多寡が問題ではない(そしてはてブのみが閲覧事実の全てでもない)と考えてもいますが、しかし自分の中で、もっと注目してもらってもいい内容なのに……という忸怩たる思いがあったことは、正直に認めます。何しろ考察後篇に至っては、自分で「ひっそり埋もれてたコンテンツを、お読みいただき本当にありがとうございます(礼)。」というセルフブクマを公開からわずか2ヶ月後に付けてるほどですので。

 この『消失』考察は2年以上も悩み続けてようやく形にできたもので、ぼくとしてはその甲斐あっての手応えを感じる出来栄えでした。また、ちょうど『消失』劇場版が上映された時期でしたので、タイミング的に注目してもらえるのでは、という下心もありました。ところが、これがさっぱりですよ。もうこのような長文テキストは読まれない時代なのではないか、作品ファンが7年前から入れ替わり嗜好も変わったのではないか、とか周囲の変化のせいにして納得しようとしつつも、いや結局は自分のテキストに魅力がない、説得力がないからだよね、という話に落ち着くわけです。ただ、後篇公開の数カ月後に『ハートキャッチプリキュア!』の「堪忍袋の緒が切れました!」暫定リストを作成したところ一挙にブクマされたことがあり、じっくり煮込んだ考察よりもこういう消費しやすい刺激物の方が注目されやすいのかな……と感じもしました。(このリストはその後、こってりした考察に仕立て直してます。)

 

 作品に自分が向き合った成果としてはこれ以上もなく満足してるし、そもそも作品自体が広く受入れられてることこそ何よりなんですけど、やはりぼくの考察への反応が欲しいという気持ちは満たされないままにある。そういう欠落感を、そしてそれを感じてしまう自分自身のみっともなさへの引っかかりを抱えたままでいたわけですが。

 この10年の間、たまたま『消失』考察を目にした方々が評価してくださったり、作品をもう一度開いてみるきっかけにしていただけたりするのを、時折経験してきました。自分のテキストをずっとそのまま公開し続けていることで、ネット界がどんどん移ろっていこうともその流れの中に石ころのようにじっと根を下ろし、誰かが渡っていくための足場にしてもらることがある。もちろん言及されればその都度はしゃぎもするのですけど(今回もそう)、短期間のアクセス数を集めなくてもこういうのもいいかな、という気分も、たしかにあるのです。

 以前この日記でも、こう書いたことがあります。

「たとえハルヒが流行った時代なるものは通り過ぎ顧みられるものだとしても、ぼくの作品愛を注いだ文章がいつか誰かのハルヒとの出会いや再会のきっかけになるとすれば、そのとき作品を介して別々の時が結びつくのだと思いますし、その瞬間にはおそらく新しいも古いもありません。」

 ずいぶん格好つけた文章ですが、実際そんな場面を与えていただく幸運に恵まれて、じつにありがたいな、と感じる次第です。それは、ぼくが好きな作品に真剣に向き合ったテキストを通じて、ハルヒ長門のように時間を越えて「わたしはここにいる」という言葉を、こんなふうに作品愛を表現するぼくがここにいるという事実を、受け止めてもらえたという証なのですから。