アニメ版『シスター・プリンセス』視聴のための参照リスト

 20周年サイト公式チャンネルにて期間限定で少しずつ公開中の『シスター・プリンセス』(以下シスプリ)アニメ版作品、現在は第1作の『アニメ シスター・プリンセス』(以下アニプリ)の前半数話が視聴可能です。

 本放送された2001年から数年間は、当時隆盛を誇った数多のシスプリファンサイトで感想・分析・情報などを拝見できましたが、さすがに現在はそのほとんどが閉鎖されたり関連ページを削除されたりしています。そこで、当時ぼくが拝見していたサイトのうち今でもアニプリに関する内容を掲載されている方々を、自分の備忘録も兼ねてリストアップしご紹介したいと思います。たぶん確認ミスが多々あるはずなので、随時追加予定。

 

Shanghai亭(上海亭)さん『12人いる!』

 最初期からのシスプリファンサイトの代表的存在。シスプリに関する最新情報も今なお更新されてます。「CONTENTS」のところに、アニメ版に限らずシスプリについての膨大なテキストやイラストなどが掲載されており、シスプリという作品全体と当時の受容の姿について教えていただけます。アニプリ感想は辛口。

 

貴也さん『貴也の館』

 アクセスカウンタがシスプリ妹たちだー。思わず声が出ました。原作・ゲーム版なども事項対象に含めた「シスプリ小辞典」は、とくに人名を調べるのに助かります。

 

東雲大尉さん『東雲組』

 原作のキャラクターコレクションシリーズについて、「シスプリ文化保存研究委員会」に考察テキスト2本が掲載されています。

 

桜木天さん『Ballon d'or』

 原作・ゲーム版・アニメ版それぞれのコラムなどを、「Sister Princess」タグから閲覧できます。

 

ちぐまやさん『栄光は誰のために』

 「Anime&Comic」中に複数のアニプリ関連ページが掲載されてます。舞台である島内の各地とその位置について説明されている「プロミストアイランド案内板」、白雪の手料理リスト「白雪のお料理教室」はとくにありがたい。「鈴凛発明リスト」も助かりますが、「メカリンリン」という名称記載がアニプリでの呼び方(だいたい「プロトメカ何号」、ただしムックの『完全ビジュアルブック』では1号・2号を「プロトロボ」と表記)と異なっている点に注意です。

 

26さん『Sister Freedom』

 「Contents」の「シスプリ考察・読み物」に、作品やキャラクターについてのテキストが多数掲載されています。どちらかといえば原作・ゲーム版をベースにされている感じですが、もちろんアニメ版準拠のイラストも。

 

天野拓美さん『夜想曲 愛情に満ちたあたたかい空気』

 「シスター・プリンセスイラストギャラリー」、とくに「『アニメ版シスター・プリンセス考察大全 改訂新版』挿絵解説」では、後述のぼくの考察を編集した同人誌に描いていただいたアニメ各話モチーフの挿絵が閲覧できます。

 

くるぶしあんよ『ページの終わりまで』

 ぼくのサイトです。アニメ版シスプリ全話考察や原作キャラクターコレクション考察などを多数掲載しています。アニパロコンテンツ『魔法のシスター マジカル・ヒナ』とかもどうぞ。

 

 いやしかし、本当に少なくなった……。ぼくが未訪問のサイトがまだまだあるはずですが、それにしても。などと後ろ向きに構えずに、これからまた増えるんですよねきっと。

そして、それは、今月からも

 シスプリ20周年を記念して、なんと可憐が誕生日の9月23日にVTuberデビューする、という衝撃のニュース。

sister-princess20th.com

 ああ……長生きはするもんじゃて……。とか言いつつ、ぼくは配信界隈からずっと距離をとってきましたので、このニュースに接したときは少々わたわたしましたが。

 そんなことよりも、この可憐の姿を見てすぐに目が引き寄せられたのは、三つ編みの描写でした。あれ……? 裏編みじゃなくて普通の表編みになってる……?

 ファンの方ならご存知のとおり、可憐のこの三つ編みは、幼い頃に泣いていた自分を慰めるため兄が編んでくれた思い出の髪型です。公式ムックの天広直人公野櫻子作/電撃G'Z Magazine編集部編『シスター・プリンセス ~お兄ちゃん大好き~ Sincerely Yours』(メディアワークス 2004年)p.10-11 に、そのことがはっきり描かれています。可憐にとっては、兄と自分とつなぐ固有の絆の象徴であり、兄が自分を思いやってくれる証であり、それゆえ兄と一緒に暮らせなくなった今でも「あの日からいつもこうして……三つ編みをしています」というわけです。他の妹たちに比べて特徴がないなどと言われやすい可憐ですけど、この三つ編みという何気ない髪型に彼女の兄への想いの深さが示されているのです。そして、その編み方が裏編み(頭部から先端に向かって>>>ではなく<<<のように編む)になってるというのは、つまり兄がしてくれた編み方ということであり、それゆえに可憐はずっとこの裏編みで通してきた、というふうに理解できます。

 ところが、今回のVTuber可憐はどうやら表編みっぽい?

 

 このことをついったーで呟いたところ「三つ編み警察」「シスプリ警察」などと呼ばれもしましたが、べつに表編みだからいけないとか間違ってるとか否定したいわけじゃないのです。むしろ直後に呟いたとおり、画面のこちら側のお兄ちゃん(視聴者)が編み直すと正しい向きに戻るといった展開があったら悶絶するし、表編みにした理由が可憐の口から語られたら転げ回るし、ただたんに間違いだったとしてもそれはそれで面白い。

 もともとぼくは最初のアニメ版シスプリからこの世界に入ったくちで、そこから原作・ゲーム版・アニメ版を包摂する「シスター・プリンセス界」の拡大発展という視点を得た人間です。ちょっと原作準拠じゃない程度でガタガタ言わないし、その逸脱めいた部分からシスプリの新たな可能性が、妹たちの新たな魅力が発見できるのであれば、どんとこいというのが基本的姿勢です。なので、指摘は指摘として、VTuber可憐の今後が楽しみであることは間違いありません。

 

 などと考えていたところ。

 ふと、(あれ、でも本当に可憐の三つ編みはいつも裏編みだったっけ……?)と不安がよぎりました。ネットで画像検索してもそうだと思われるけど、原作絵をきちんと確認したわけではありません。かつてぼくがアニメ版シスプリ全作品全話を考察したさいに座右の銘としていたのは、作品内の描写を必ず確認して考察の根拠とすること、でした。それがあって初めて、世評の一部を支えていた無根拠な先入観を乗り越えることができたわけです。その戒めを自ら破るのもどうかと気づき、原作ムックと天広直人画集に掲載された可憐の髪型を確認することとしました。

 その結果、いきなり最初のムック『オフィシャルキャラクターズブック』(メディアワークス 2000年)に、普通の三つ編みの可憐絵が存在していました(p.33)。水着姿の可憐ですが、海水に浸かるとき表編みのほうがよいなどといった特別な理由でもないかぎり、この絵は明らかに裏編みでない可憐の証拠です。

 しかしこれは最初期なので設定も揺らいでたのではないか? その可能性も考えつつさらに探すと、ありました『天広直人画集2 The Art of Sister Princess』(メディアワークス 2004年)に4枚。うち1枚 (p.69)は『オフィシャルキャラクターズブック』掲載の絵と同一なので、それ以外の3枚(p.46, p.81, p.87)の可憐が表編みっぽい(少なくとも裏編みっぽくない)感じです。

 ここまでの原作絵確認を通じて、割合としてはやはり裏編みが普段どおりではあるけど、表編みもないわけではない(もちろん編んでいない姿もわりとある)、というのが、結論となるでしょう。可憐なら必ず裏編みだ、とか、表編みだと兄との思い出を無視してしまうことになる、とかいった批判は、ちょっと言い過ぎになりますね。ぼくも確認してみて自分の先入観に気づかされました。いや、やはり基本が大切。思い込みよくない。

 

 などと反省していたところ。

 ふと、(あれ、もしやアニメ版もときどき裏編みじゃなかったりする……?)と不安がよぎりました。いやいやさすがにあれだけ何度も視聴したアニメ版でそんなことあるはずが。という予断を抑えていざ確認。

 ……ああーっアニプリ(最初のシリーズ)の可憐が表編みだーっ。

 思わず口を突いて出る「そんな馬鹿な!?」しかしこれが最後の真実。リピュアはAB両パートとも裏編みでしたが、アニプリ可憐はムック掲載絵も含めて設定段階から表編みでした。いやーお兄ちゃん失格ですわー。思い込みほんとよくない。

 さてこうなりますと、VTuber可憐は原作準拠とすればわりとレアな編み方をしてるということになるのみならず、編み方ゆえにアニプリ準拠だとする見方さえ可能になってきます。当初は、原作設定を踏襲していないのでは? というあまり前向きではない疑問から始まった確認作業は、こうして新企画を様々な視点から受容し楽しむきっかけを、ぼくに与えてくれたのでした。もしかするとゲストにプロトロボや山田が登場するかも(それはどうか)。

 もちろん同じように、ゲーム版からの見方も試せますよね。VTuber可憐が語る言葉や仕草を、可憐ぽい・可憐ぽくないの二分法で受け止めるのではなく、ここは原作ぽい・ゲーム1のここを思い出す・アニメのあの場面だ・素の桑谷夏子さんだ等など、シスター・プリンセス界に存在するいろんな視点から、それぞれの立場で楽しんできたファンが反応し、お互いに交流し、この豊かな世界をさらに発展させていくことが、ぼくたち兄のつとめであり喜びなのでしょう。(追記:もちろん、この機会に初めてシスプリに出会う方々もおられますよね。その新鮮な受け止め方からぼくも気づかされることがきっとあるのでは、と思います。)

 

  そういえば可憐の三つ編みの向きについて、考察を書いてたころ利休さんが何気なく「これ逆向きですよね、お兄ちゃんに編んでもらったからかも」と指摘されてたのを思い出しました。後日の原作でそのとおり描写されてるのを見て、さすが利休さん……と驚嘆したものです。ちなみに、のちのアニメ版シスプリ考察本の解説を書いていただいたお方。

 さらにうろ覚えながら、そのあとアニプリ可憐が表編みなことに気づいて、この可憐はこれから航お兄ちゃんに(裏編みで)編んでもらえるのではないか、などと話してたような記憶が……うっすらと蘇り……。これが本当なら、ぼくは今回の一件で完全にうっかりしていたことになりますけど、こちらはぼくの記憶の捏造かもしれません。過去の日記のどこかに残してあればと思うのですが。こういうの、そのつどちゃんとまとめて文章にしておくべきですね。

 

 というわけで、ごちゃごちゃ述べてまいりましたがともかくも、今後の展開が楽しみです。アニメ版も20周年チャンネルにて期間限定で順次公開されますし、ついでにぼくの考察などもご笑覧いただければもっけの幸い。

ガルパン最終章第2話感想(追記あり)

 第1話から1年半……完結まであとどれだけかかるのかこの作品。以下ネタバレ感想です。

 

 いやーボカージュきれいでしたね。『パットンズ・ベスト』(VG/HJ)のマップを思い出しちゃいました。でも戦車砲の一発であんなふうに啓開できるものなんでしょうか。ヘッジロウカッターいらなくないですか。

 

 1回戦をなんとか乗り切った大洗女子でしたが、対戦相手のBC自由学園はエリート校と庶民校が合併してできた過去があるんでしたね。するとこのBC自由学園、もしも大洗女子が他の学園艦に併合されてたらどうなっていたか、を想像する一つのモデルでもあります。
 もちろん(みほが黒森峰に戻りかけていたように)生徒が複数の学園艦に分散転校させられる可能性も高かったでしょうし、受け入れる側の問題についてはサンダース考察の1(3)で記しましたが、例えば大洗女子がもう一つの弱小校と対等なかたちで合併させられたとするならば。そこには、安藤と押田のようにお互いの文化・伝統をできるだけ尊重しようとしながらも、しかしどこかで相容れない部分を残し、時にはあからさまにぶつかり合わざるを得なかったかもしれません。
 その意味で、BC自由学園は大洗女子の一つの未来を映し出す鏡であり、またそこでマリーがああ暢気に見えて2つの伝統の間でどれほどバランスをとる努力を続けてきたかを想像させます。そのストレスで甘いものも食べたくなるし薔薇風呂にも入りたくなる。いやそれは本人の贅沢趣味でしょうけど、角谷前会長の干し芋と似たような気配を感じたりもしたわけです。
 さらにいえば、これがフランス・アンシャンレジュームの貴族階級と市民階級の(そしてベル薔薇の)パロディだからまだ何とかなっていますけど、第二次世界大戦中のヴィシー政権と自由フランス政府をモチーフにしていたらどんな修羅場が待っていたことか。背筋が寒くなります。

 

 さて、トーナメントは他の1回戦も終了した模様。2回戦の組み合わせは記憶のかぎりでは、大洗女子と知波単、サンダースと継続、黒森峰とプラウダ、聖グロとアンツィオ、でしょうか。右側の山では、聖グロが勝ち上がって大洗女子と公式トーナメント初対決となるのか。それともエリカ率いる黒森峰がみほの大洗女子に挑むのか。ぼくとしては第1話感想でも書いたとおりエリカとみほの戦いを期待するばかりですが、黒森峰伝統の・西住流王道の規律ある正面からの戦いぶりを垣間見せたエリカが、さてカチューシャやダージリンにどう立ち向かうか。見ものです。(あれ、アンチョビは……?)


 そして大洗女子では、桃の家族の姿が描かれました。なんとかの子だくさん。さらに母親は病身、自営業の文具店は旧態依然であまり景気は良くなくといった具合。パンの耳を揚げたのが出てきたときは思わず(うっうー!)と心の中で叫びましたが、あの場面でいくつか腑に落ちることがありました。
 まず、桃の頑張り屋さんだけど不器用な性格の、育つ由来がここにある。あの愛想のない店長が父親だとして、今風の店内にする気が一切なさそう。昔ながらの商売を真面目に続け、それが客離れを生んだとしてもどうもしないし、どうすればいいか分からない。家族を養う立場としてあんまり無策にも思えますけど、でも何ができるかと言われれば世の中たしかにそういうものですし、逆に桃たちがこの学園を守るためにみほを掲げて戦車道大会で優勝するという一手に縋らざるを得なかったというのも、たまたま結果オーライでしたが同じようなギャンブルを一家の主が選ぶわけにもいかない。でも、桃自身の経験は、彼女が現実に突破口を開こうとするとき、決して小さくない推進力を与えるような気もするのです。
 次に、桃が生徒会室であんこう鍋を囲んだり、トンカツ屋で戦車カツを食べたりしてたTVシリーズ場面を思い出すと、あれ家族みんなとだとなかなか食べる機会ないのかもしれないなーとふと。もちろん桃は自分だけよければいいという子じゃないけど、逆に自分だけおいしいもの食べる後ろめたさに縛られる時期も過ぎているはずで(角谷たちとの楽しい時間そのものは素直に満喫したいだろうから)、自分がおいしいもの食べたぶんをどこかで家族にお返ししてるんじゃないかな、と想像したりします。試合で遠征するとき、甘味のお土産買ってたりするんですかね。生徒会費で(いけない)。
 そして、沙織が学内連絡のIT化を提案するとき、桃はいかにも古くさい文書掲示などにこだわるんですが、これは融通が利かないというよりは桃自身が述べているとおり、相手と直接会う・言葉を交わすことの大切さを、生徒会広報としてこの巨大な学園艦全体を導いてきた実感のうえで示しています。お銀たち船舶科のメンバーが桃にだけは一目おいているのも、そうやって艦底にまで不器用に誠実に足を運び顔を合わせようとしてきた桃に、言葉のうわべだけでない一貫した信念や学園生徒への分け隔てないまなざしを、看取したからなのでしょう。それがいま、桃を助けてくれているという。よかったね桃ちゃん。

 

 追記:知波単学園のこと書き忘れてました。

 西隊長・福田隊員の成長ぶりは、劇場版の大学選抜との一戦ですでに道筋がつけられていましたので、そこのとこはまっすぐ来たなーという印象です。あとマレー半島かどこかみたいな密林が怖い。地形に合致した車輌による水陸からの挟撃や夜襲という、いかにも日本軍モチーフらしい戦いぶりですが、つまりこの大会は夜中もそのまんま試合続行なんですね。プラウダ焦土作戦もいけるのか。観戦者はどうしてるのか。完徹のダージリンオレンジペコがいつもの調子で紅茶を嗜んでたりして。

 

 追記その2(7/8):思い出したら気になってきた場面について。

 桃の実家訪問に続く生徒会室の一幕。沙織が華と優花里と作業をしながら、桃先輩は私立難しいかも(家計的に)という感じの話をしてるんですが、その背後わりと近い位置にあるソファー周りに当の桃たち先代生徒会メンバーがいるという。すぐ近くに本人がいるのに、けっこう大きな声でそういう話をしちゃう子でしたっけ沙織。先輩たちがいることに気づいていないはずはない描写だったと思うんですが、このあたりどう解釈したらいいのか。ぼくが大事な情報を掴み損なっている可能性もありますけど。

 もう一つ、知波単の戦車があの窪地に滑り落ちてしまった場面で、罠にかけた側の大洗女子は上方からもっとじゃんじゃんばりばり砲撃してもよかったのでは。場面としてはいくらか明るかったけど実際の光景ははるかに闇が深いのだとすれば、そう簡単に狙い撃てないということかもしれませんし、みほたちも砲撃しやすい位置をまだ確保できてなかった(車体下部を晒してしまうと逆に装甲薄い場所を狙われてしまう)ということかもしれませんが。なんとなく、西・福田たちのやりとりを続けさせる猶予を得るため、砲撃をゆるめにしてたかの印象があります。

開店休業ではありますが

 こちらを読んでつらつらと。

ertedsfdsddty.hatenablog.com

 インターネット上の「本業」という感覚、ぼくもかなり強く持ってます。以前も何度か書いた覚えがありますが、自サイト(このブログではなく)を開こうとした16年ほど前に、メインコンテンツ(閲覧者へのおもてなし)をどうするかを結構まじめに考えてました。当時の錚々たるえろげレビューサイト・テキストサイト群、そのうちぼくが日参していたえろ・ネタ系(『エロゲカウントダウン』や『国際軽率機構』など)と批評・叙情系(今木さんのところ(夏葉さんによる保管)や『アシュタサポテ』など)の2大グループのいずれかに加わる能力も自信もなく。さらに、サイトを開こうとした直接の原因は、箭沢さん・MK2さんの『づしの杜』や、しのぶさんの『魔法の笛と銀のすず』に憧れてでしたから、この方々の独特の文章を真似できないのは当たり前だとしても、得意分野がなるべく重ならないような、しかも自分も閲覧者も楽しめる隙間はないものかと、探してたわけです。

 まぁともかく読み物を書いてみようということで、最初はゲーム感想をネタ系と叙情系の中間くらいな感じで書き出し、あわせて日記を綴り、両方がある程度溜まったところでサイトを公開しました。そう、閲覧者というお客様を迎えるのだから、ちゃんとした店構えをこしらえておかなければ、という感覚があったのです。ただ、始めてしばらくは方向性が定まらず、どうしたものかと思案に暮れていました。

 ところがアニメ版シスプリと出会ったのをきっかけにして、作品に感じたことだけでなく、作品内容について自分の中であれこれ考えを巡らすようになりました。この作品はネット上での評価があまり芳しくなかったのですが、ぼくはすんごい高く評価しており、ずれが気になってもいたのです。そこで、まず第3話をとっかかりにして、この作品の面白さや、理屈がちゃんと通っている証拠を、説得的かつ読んで楽しめるものとして文章化しようとしたとき、考察というスタイルを発見しました。

 これがぼくにはぴったりの隙間でした。一見大真面目な、しかし本気と冗談の境目が分からない文章。作品愛を理屈っぽさで照れ隠ししてるわけですが、このスタイルは先達の得意分野とうまいこと重ならず、しかもぼくの性格・能力と噛み合ったのです。もちろん、ただ自分と相性がよいというだけで書けるものでもなく、当時の閲覧者から寄せられる反応は、ぼくの文章を読んで楽しんでいただけている、という嬉しい実感を与えてくれました。

 そして、そういう遠方からのお客様よりに先んじてぼくを支えてくれたのが、ネットご近所の方々です。考察をサイトに公開する前に読んでチェックしてくださったり、新たな視点を提供してくださったり、何よりぼくが店の“前”や“外”で何かやらかしても、この内々で慰めや諭しをいただけました。本当にありがたいことでしたし、たしかにそこには「商店街」というイメージがかなりしっくりします。ただし、ぼくの場合はこのように、ネットご近所の方々の店がうちと隣り合って並ぶ感じですが。そして、ご近所の店ですでに素敵なものをいろいろ提供していただいてるから、自分の店では別のものをお出ししよう、という。何かの流れで商店街のお祭りもしましたし、そこには近い趣味・性癖を持つ者同士の協同意識と、お互いの大切な領域には干渉せず得意分野は尊重するという距離感、そして似たような方向を向きながらそれぞれ違ったルートを選んでお互いが負けじと張り合うような穏やかな競争意識とが、混じり合っていたように思います。今では管理者のサイト同士ではなくSNS上でのやりとりが専らではありますが、そんな空気はあまり変わらずにあるのではないでしょうか。

 今のネット界では巨大なショッピングモールもあるし相場師の寄り合いみたいな場所もあるけど、ぼくはやっぱり商店街のつきあいの中で、たまに「本業」のシャッターを上げてみたくなるのです。この流行遅れのものはたぶんここにしかないよ、と。

時代論を語れるほどの距離を、好きな作品に対してとれない

 最近、『涼宮ハルヒ』シリーズの何が新しかったのかとか、時代の変化をどのように表現していたのかとか、話題となっていましたが。

 以前にも記したとおり、ぼくは作品を用いた批評や時代論というものに好んで触れることはありません。読まないのは読まず嫌いだとして、自分でも一切試みようとしない理由は何よりまず、ちゃんと事実を確認して分析を行う方法論を持ち合わせていないためです。そしてもうひとつ大きいのは、例えばこの作品について言えば、作品を時代・社会の中に位置づけるために必要なはずの、作品との距離を確保することができないためです。ぼくはこの作品に出会ってから今までずっと、一人のファンとして作品を深く味わって楽しむことや、ハルヒたち登場人物をよりいっそう好きになることだけを求めており、そのために時代論などが役立つとは(自分の性格・能力上)あまり思えません。

 あえて語るとすれば、現代日本において若い男性がその社会的地位の低下によって自尊感情を動揺させゆく状況下で、キョンのようなさしたる能力のない男子がハルヒという超越的能力を持ちながら生きづらさと寂しさを抱えている女子に必要としてもらえ、しかもその女子の世話を一手に引き受けることが許されるという内容が、落ち目の男性に自尊心の手がかりとしてのパターナリズムの幻想を提供したのではないか、などと論じてみることはできます。しかし、こういうのは他所様のところで間違いなく既出のものでしょうし、しかも自論の根拠となる事実や社会事象を示すことができませんし、何よりぼく自身がこういうの論じても楽しくない。ぼくが作品をさらに深く楽しめるようになるわけではないし、ましてハルヒたちをもっと好きになれるわけでもない。

 つまるところ、ぼくは現役の・ほとんど作品とのみ向き合うかたちでの享受者であって、それゆえ作品を俯瞰したり位置づけたりするための距離をとれないのです。もちろんあの頃と比べれば機会はぐんと減りましたが、ぼくは今でもシリーズ単行本を開くことがあります(ぼくはアニメよりも原作にはまったくちです)。そしてあの頃ぼくがどのように作品に向き合い、登場人物たちに向き合ったかは、当時のぼくの考察に示したところです。正直、本作品に向けて今後これ以上の文章を書ける気がしません。

ハルヒの空、SOSの夏 −『涼宮ハルヒの憂鬱』考察−

「あたし」の中の… ―『涼宮ハルヒの消失』長門有希考察前篇―

「お前」にここにいてほしい ―『涼宮ハルヒの消失』長門有希考察後篇―

 ハルヒシリーズの何が新しかったのか。ぼくには分かりません。ただ、これらのテキストを書きたくなるくらいぼくはこの作品を好きになったのだ、ということしかぼくには言えませんし、今もこの作品が好きなのです。たとえハルヒが流行った時代なるものは通り過ぎ顧みられるものだとしても、ぼくの作品愛を注いだ文章がいつか誰かのハルヒとの出会いや再会のきっかけになるとすれば、そのとき作品を介して別々の時が結びつくのだと思いますし、その瞬間にはおそらく新しいも古いもありません。

『モディリアーニにお願い』感想

 購入して読んだのは昨年ですが、相澤いくえ『モディリアーニにお願い』(小学館 ビッグコミックス 現在2巻まで)がとてもよかったので感想。以下、長文ネタバレです。

 

 漫画家と編集者のあれこれがネットで何度目かの話題となっていたとき、その流れで作者ご本人のツイッターでの呟きや4コマ漫画を偶然拝見しまして。当時の担当編集者キリンさんたちとのやりとりがなんとも微笑ましく、しばらく日参してるうちにこういう方々が世に出された作品はどんなものか読んでみようかと思い立ち、近所の本屋に出かけたら単行本がない。それでも気に留めてたところ、ずいぶん経って既刊分をようやく購入できたという塩梅です。

 で、読んですぐはまる。

 作品の舞台は第1話のおそらく1年半前に震災があった東北の、偏差値的にはあまりよろしくない美大で、そこに通う三人の男子学生が主人公。被災の影は深く刻まれているけど、それで全てが包まれるというわけでもなく、つねに中心に据えられているのは彼らが創作すること=生きることにどのように向き合うのか、という問題です。

 

 千葉は考えるより行動しちゃうタイプに見えるけど、頭悪いなりに真面目に考えてます。小学生の時は図工でいつも褒められてて、そのまま努力もせずに画家になれるつもりでしたけど、大学に入ったら周囲の否定的反応からそうではないと気づきました(第1話)。もっとも大学入学後に初めてというわけでもなく、高校時代に幼馴染で同級生の藤本の情念に触れて、自分が「そこまでの温度」では頑張れていない、と親友を羨望したりもしています。そのときは(大学に行ったら、なれんのかなぁ…)と漠然とした期待を抱いてみるけど、でもいま負けたくないのに置いて行かれそうな焦燥感を抑えきれずにいました(第13話)。大学では壁画ゼミで出会った先輩や友人達に刺激を受けながら、不器用に貪欲に努力して突破口をぶち開いていきます。

 

 藤本は幼馴染の千葉に比べて内向的で、家庭の事情もありながら(第11話)、自分が西洋画の道を進んでいいのか、進めるだけの才能があるのか、とひたすら悩んでます。同じ道を志す彼女もできたのにこの野郎。でも、藤本はただただ好きな道を進みたいだけで、そのための力が自分にないではという不安とつねに向き合わざるを得なくて、しかもその不安は最も身近にいる千葉や本吉に対する劣等感によっていっそうかきたてられてしまう。しかもしかも、そんな劣等感を抱いてしまう自分や、同じ志を抱く友人知人達が評価されるたびに自分の至らなさを痛感してしまう自分、さらに彼らに妬み嫉みまで感じてしまう自分が、嫌で嫌でたまらない(第2話、第14話)。繊細で誠実で優しいからこそ陥るぐるぐる渦巻きにからめとられてもがくのが、この藤本です。そう、ちゃんともがく。創作はやめない。

 

 本吉はそんな同級生達から「才能がある」と羨望されるダブリの日本画生。自ら天才と公言するしそれだけの実績を誇るけど、彼の家族やかつての友人達は津波の犠牲となっています(第7話)。第2巻p.72の一番下のコマにいるのは、妹の凪さん(当時15歳)なんでしょうか。全てを消し去ってしまう力の前で、作品とはいったい何なんだろう。作品と自分のいったい何が残せるというのだろう。創作するという行為と自己存在の意味を呑み込んでしまうぽっかり開いた空虚の穴に、本吉はひきずりこまれかけます(第3話)。でも、と先生や仲間に支えられて、再び描き出す。どんなに巨大な穴が開いても、創作するし努力する。ところが、そうやって描くことで評価され、その評価が周囲の羨望や嫉妬を生み、どうせあの人は才能あるから、と周囲の者達が距離をとっていく(第10話)。被災による孤独と、その孤独を抱えてなお進むための創作によって立ち現れてしまう孤独。だけど千葉は、そして藤本は、そんな本吉から逃げずに、かといって境遇に同情もせず、負けずに並んで戦おうとするので、本吉は今日も圧倒的な実力を示しつつ笑って茶化して煽って感謝します。

 

 三者三様の悩みを抱えてもがいているんですが、その三人が美的創作という同じ道を進もうとするからこそ、互いに張り合いながら支え合うことができる。そばにいるから辛いこともあるけど、だからといってやめるわけにはいかないし、やめたくない。優れた作品とその作者しか食べていけない、名前が伝わらない美術の世界で、同じ星を目指しながら相争い、同じ星を目指すことで敬意を抱きあい贈与しあう主人公達。これ三人が例えば全員日本画ゼミとかだったらもっと逃げ場のない話になってたかもしれませんが、そこは異なる分野のおかげで適度な距離感を保ちつつ、それでも分かってしまう才能や実績の差に傷つく姿が、そこからまた一歩踏み出す姿とともに毎回突き刺さります。

 

 いや、突き刺さると言ってもぼくは画家でも美大出身者でもないわけですけれども。

 この作品を読むとき、ぼくは(好きな作品の前でいつもそうであるように)何も考えずその世界に浸ったうえで、少し間を置いてから2つの視点で振り返っているように感じます。

 1つは、創作者とその作品に向き合う自分として。つまり、創作者ならざる自分として。ぼくは好きな作品の考察などで「表現」こそしてますけど、「創作」をしてるつもりはありませんし、またその能力もないと自覚しています。何か新しい作品を自分の中から生み出したことがない。あくまでも元作品に対するファンとしての二次創作にすぎず、ぼくのコンテンツに面白いものがあるとすればそれは全て元作品がぼくに与えてくれたものです。そういう喜びをくれた作品とその創作者への感謝・敬意をいつも忘れないようにしたいし、そのぼくなりの表現が考察や二次創作というわけです。

 しかし逆にみれば、ぼくが何も感じない作品も世の中にはありまして。鑑賞しても、何も書く気にならない。しばらくすれば忘れてしまう。あるいは、これはぼくには合わない、とだけ記憶に残す。それは受容者・消費者としては当たり前の態度かもしれませんし、作品との相性は人それぞれと言うほかありません。でもこれ、創作する側からすると本当に残酷なことですよね。そんなものだと分かってはいても、誰かに届くかどうかは決定的な重さを持っている。どんなに心血を注ぎ込んだ作品であろうとも、誰にも届かずに世の中から忘れられてしまうことが、ある。それは、自分そのものを否定されることに等しい。ぼくは自分の好きな作品への否定や嘲笑が拡散するようなときに考察などで全力反撃するタイプのファンですが、そのときの激しい感情を思い出してみても、創作者ご当人はそれどころのレベルではないと想像できますから、その過酷さが突き刺さります。だからといって、ぼくが享受した全ての作品から何かを受け止めることなんてできません。なのでせめて、届いたときにはその届いたということを言葉にして、これからも自分なりに表現していければと思います。その言葉が別の誰かに届くかどうかは分かりませんが、少なくともその作品と創作者に向き合う自分がいるということは、示せるので。(ファンレターなどを送る方が直接的でいいんでしょうけど。)

 もう1つは、おっさん目線で。いや、主人公たちの教師にあたる年齢なわけですから、この作品を読みながら(あー若いっていいなー)だの(ぼくにもこんな純粋な時期があったなー)(いや……なかった……)だのと若き日を思い出して自滅エンドにひた走る手もありますし、あるいは(こういう若者たちをちゃんと支えていけるように大人として頑張らねば)と奮起する手もあるんですが、どちらかというと年甲斐もなく(ぼくももう少し頑張るか)と思ってしまうのでした。なんとかの冷や水。でも、そう思わせてくれる台詞がこの作品の中にありまして。第2巻まででいちばん好きな箇所なので抜き書きさせていただきます。

 

 生まれてくる時からずっと、生まれてくる時代を間違えたと思った。

 やりたいことはもう誰かがやってて、あこがれはすぐ過去になる。

 

 何をしたってもう古いんだよ。

 新しいことって結局、忘れられた古いことなんだ。

 同じことを人間はずっとくり返してる。

 

 だから俺は古いことをやる。

 

 古いことのなかに「誰もやらなかったこと」を見つけられたら、

 

 古いことは新しくなる。

 

 (相澤いくえ『モディリアーニにお願い』第2巻 小学館ビッグコミックス 2016 p.134-5)

 

 これを読んだとき、ちょうどぼく自身が加齢による思考の硬直化などで袋小路に入りかけていまして。そうか、後ろを真剣に見直すことは前に進むことなんだな、と気づかされ、背中を押してもらえた気がしたのです。まだやりようはいくらでもある。たぶん。うん。

 

 もうじき第3巻も発売されるということで、楽しみです。

『りゅうおうのおしごと!』第3巻メモ

 最後となります単行本メモ第3巻分。以下ネタバレです。

 

 p.14 「ひたすら走った」、若き日の森内九段がポカで敗れたときに千駄ヶ谷から横浜まで走って帰った(参照)。

 

 p.16 山刀伐八段、複数の棋士の要素を合体させてる? (1)深浦九段、研究家のトッププロ。ただしタイトル獲得3期という凄い実績ありで、振り飛車はほとんどしない居飛車党。羽生王位に初めて挑戦したとき「好きな女の子のことを考えるように」毎日羽生のことを考えている(作戦を練っている)と述べて、恋愛流とのあだ名がついたうえネットでは同性愛者ネタで扱われることがあるが、当時すでに女性と婚約していた(参照)。(2)青野九段、かつてA級にいた大ベテラン。タイトル挑戦1回、鷺宮定跡や最近の横歩取り青野流など序盤研究で有名。ただし居飛車党。(3)長岡五段、20代なのにC級2組で2回降級点をとったが、その後みごとに1つ消した。当時、羽生の研究会に参加している(つまりそれだけ研究内容を評価されている p.41)との話もあった。ただし現在もC2。

 

 p.20 「なぜついて来ようとする」、ごく最近たしか第3期叡王戦本戦で藤井九段がトイレに行こうとしたとき、対局相手の丸山九段が1分将棋でもないのになぜか追随していた。

 

 p.22 「勝手に俺のシャツを着て泊まる」、まじかー。姉弟子まじかー。体どんだけ大きくなったか、よく分かるよね。

 

 p.26 「つるつる」 つ る つ る。 (投了)

 なお銀子が男湯に投げ込む物の一部が八一に命中してるのは、ついたて将棋で身につけた相手「玉」の位置を推測する能力によるかもしれない。

 

 p.36 「男女は年齢が離れているほうが」、八一は経済力あるけど包容力がまだないし、銀子は八一の保護欲を刺激してない現状。

 

 p.42 リップクリームは佐藤天彦名人がタイトル戦中も必須のアイテム。投了直前にリップクリームを塗り、話題になったことも。

 

 p.47 生石充玉将、明らかに当時の久保王将の実績。護摩行も有名。ただし性格設定は振り飛車御三家(久保のほか藤井九段、鈴木九段)などを合体させているかも。

 

 p.54 「女の子のお知り合いが多すぎる」、むしろ棋士など男性の知り合いが登場しなさすぎる。

 

 p.61 「感覚を破壊された」、1984年に谷川名人(現九段)が福崎七段(現九段)との自戦記に記した表現(参照)。福崎九段は振り飛車穴熊の先駆者の一人で、自玉の堅さを活かして大駒を叩き切り寄せてしまう技をして「妖刀使い」と呼ばれた。

 

 p.68 「流行」、平成24年度の久保棋王・王将はゴキゲン中飛車などの得意戦法に対する居飛車党の研究によって、タイトル2つとも失いA級からも落ちるというどん底を味わった。しかし翌期にA級復帰、さらに最近は王将にも返り咲いている。

 

 p.69 「かのうせいむげんだい」、藤井九段が『将棋世界』2015年7月号での座談会で実際に「僕は居飛車には3つしか戦法がないと思っている」「一方の振り飛車は、三間飛車中飛車四間飛車とあって、それぞれは全く別の戦法なのですね。それで囲い方が美濃囲いと穴熊に分かれるので2倍の6通り。さらに角を換えるか換えないかで2倍に膨れて12通り。そこに向かい飛車もまぜちゃえば、一気にバーンと増えてくる」などと述べている(参照)。この座談会めちゃ面白い。

 

 p.71 「史上三人目の中学生棋士」、加藤九段・谷川九段に続いたのは羽生竜王

 

 p.79 「大局観」、この差を見せつけた有名な1局を挙げれば、永世竜王位を賭けた第21期竜王戦第1局の渡辺竜王・羽生名人戦(参照)。羽生の振り飛車の恐ろしさも味わえる。

 

 p.87・p.90 「泣きそうな顔」、いまの八一には見せない顔。桂香もまた、八一とは別の意味で、銀子にとって特別な、損得を越えた存在。

 

 p.92 「振り飛車党より振り飛車の勝率が高い鬼畜」、羽生善治データベース『玲瓏』によれば羽生の振り飛車通算勝率(「戦型別」参照)は6割6分、先手番だけなら7割6分。ちなみに純粋振り飛車党の久保王将の通算勝率は6割2分(参照)。

 

 p.93 「ボイラー技士」、何かの資格もってる棋士って昔いたような……。

 

 p.98 「スーパー銭湯振り飛車」、振り飛車党の総帥と呼ばれた藤井九段のあまりにも有名な言葉「こっちは鰻しか出さない鰻屋だからね。ファミレスの鰻に負けるわけにはいかない」(参照)。

 

 p.100 「脳内将棋盤」のイメージ、雑誌『AERA』第25巻38号(2012年9月17日発売)掲載の小暮克洋「天才たちの「脳内パネル」 : 羽生の頭の中で、将棋盤はどう再現されているのか」が元ネタか。たぶん「十一面」も浮かぶ棋士はいない。

 

 p.106 「将棋星人」、2ch由来の「おまえら、もし地球に将棋星人が攻めてきて」で始まる有名なコピペがあるが、それとは無関係。

 

 p.106 棋士や男性奨励会員についての銀子の分析、棋界はそうと思わせるエピソードに事欠かない。

 

 p.108 「捌きのイカヅチ」、「出雲のイナズマ」といえば里見香奈女流五冠、10代半ばから女流棋界にこの10年間君臨し、女流棋士の強さのイメージを一新した。奨励会員として三段リーグにも参加していたが、病気による休場(「身体が弱い」p.134)などもあり、この3月に退会。初の女性棋士誕生とはならなかった。

 

 p.110 「感覚に頼りすぎてる」、棋士がAIに敗れたときのパターンのひとつでもあった。つまり銀子はある意味で、徹底的な研究と読みによって先入観を打破しようとしていることになる。

 

 p.112以下、ここからの銀子の独白はもう。もう。

 

 p.114 「小さくなった石鹸」、意外と細かいな八一。それとも同居人のあいに感化されたか。

 

 p.115 「『超速! 3七銀』を開発したのが奨励会員」、奨励会三段の星野良生(現四段)による開発。これにより星野は2010年度将棋大賞の升田幸三賞を受賞された。

 

 p.119 なぁぴちゃー。

 

 p.121 「夫婦っぽいこと」、もしやシャルの両親は一緒にお風呂に入ってるのか。

 

 、京橋は大阪市内なので『大阪市公衆浴場指導要綱』を見ると、第6の1に「同一世帯に属する者」等に関する例外措置の記述があるのね。

 

 p.135 桂香の父である清滝九段、一人娘とどうやって接していいか分からないほど将棋馬鹿なんですよね……。だから娘の気持ちも聞かないで将棋を教えようとしたし、「寂しいかと思って」(p.136)銀子を内弟子にしたし。不器用すぎる。そして「そういう天才達は、凡人のことが理解できない」(p.137)。お互いに意思疎通を図ろうとすればすればするほど、絶対的な断絶がきわだっていく。

 桂香と清滝九段の間ではその断絶は、親子の絆のつよさと棋力の隔絶の確認と将棋愛の共有によってひとまず超越できたけど、銀子と八一の場合はどうか。姉弟弟子としての絆はつよいけど、八一が思っているほど銀子にとって不変で安心できるものではない。棋力の断絶は八一が表向きまだ気づいておらず、銀子が自覚しながらも表には出すまいとしていて、互いに確認できる状態ではない。将棋愛の共有は今更なほど十分だけど、二人とも将棋愛だけで生きていける道を選んでおらず、むしろ仲間を蹴落としてでも生き残らねばならない。今回の桂香と清滝件の和解は暖かなものであるだけに、今後の銀子と八一の関係を想像すると絶望的な相違点が浮かび上がってきてしまう。ただ、桂香と銀子の間にある情の細やかさこそが、銀子にとっての詰めろ逃れの詰めろの一手を導くかもしれない。

 

 p.144 「正座できなくなったら」、それで引退したのが升田九段・実力制第四代名人だったっけ。

 

 p.149 姉 弟 子 に 踏 ま れ た い。

 

 p.153 「予選で当たる確率」、だいたい棋戦の予選トーナメント8つ中2つ半が関西棋士だけのだったりする(交通費等節約のため予選はなるべく関東・関西で固める)。

 

 p.161 「あの人からタイトルを」「二つも」、久保二冠時はこれと異なり、棋王佐藤康光から・王将を羽生から奪取している。奪われた相手もそれぞれ郷田・佐藤康光

 

 p.165 澪ちゃんちょっと胸あるような……? 第1巻口絵を確認したところ横向きでもその気配が感じられないので、この3ヶ月の成長の証ということなのか。時よ止まれ。むしろ戻れ。

 

 p.170 「小児科医に」、立石径・元奨励会三段がモデルか。たていし小児科HP内「将棋」を参照。久保とも奨励会三段リーグで1度だけ対戦している(参照)。なお立石流四間飛車を開発したのは別人の故・立石勝己アマ。

 

 p.173 「C級2組のケツから十番目くらい」、八一は前期順位戦から参加してるので、おそらく4勝6敗くらいでぎりぎり降級点を逃れた雰囲気。新人タイトルホルダーにしては残念な結果だけど、北浜八段をモデルにすれば4勝6敗から10勝0敗でC1昇級・2勝8敗の降級点から8勝2敗でB2昇級と、勝率6割で効率よく昇級する展開もあり得る(参照)。

 

 p.182 「賢王戦」、タイトルホルダーも段位で呼ばれるなどの特徴がまんま叡王戦。この当時はトーナメント戦だったけど昨年度第3期からタイトル戦になった。

 

 p.189 「桂香さんにはたくさん武器がある」以下、銀子の言葉は自分自身に向けた日々の暗示と同じかもしれない。

 

 p.190 「小学生どもを残らず血祭りに」、昔も今も銀子が八一にまとわりつく悪い虫を駆除する方法はただひとつ……。

 

 p.192 「5八金右」、初めて公式戦(しかも竜王戦防衛戦)で指したのはなんと振り飛車党総帥・藤井九段(参照)。

 

 p.203 「高い壁」、八一自身にとっては間違いなく挫折の道のりだった一方で、清滝師匠は6歳児八一との初手合いで「この子は将棋を終わらせるんやないかとまで思った」(第2巻p.172)ことに注意。

 

 p.205 「『読み』を加速させる」、柴田ヨクサルハチワンダイバー』(集英社)の「ダイブ」を思い出す。

 

 p.211 「限定合駒」、第59期王将戦で羽生王将に挑戦した久保棋王は第6局で銀・銀・角の3連続限定合駒によって勝利し、王将位を奪取した。これは後手ゴキゲン中飛車に対する先手5八金急戦の歴史的名勝負で、「桂じゃなくて、香」(p.213)も含めて山刀伐・八一戦はまんまこれ(参照)。

 

 p.213 「あっ……!」、山刀伐は急転敗北直後の頭でも、八一の指摘に「すぐにその意味を理解した」。「同じプロ棋士から『才能がない』と見下され続けた」(p.214)彼であっても、その後の努力の積み重ねもさることながら、一瞬で「見るだけでわかる」(p.107)。ここでも銀子が述べた自分との圧倒的な差が描かれている。

 

 p.221 「最新式のミサイルを」以下、羽生の振り飛車について言われるネットスラングは「アサルトライフルで撲殺」だっけ。

 

 p.235 「ゴキゲン中飛車」の名称の由来は、奨励会時代にこの戦法を開発して棋士になってからも勝ちまくった(2004年度にあわや勝率9割)近藤正和六段が、いつも笑顔でゴキゲンなことから、じゃなかったっけ。

 

 p.239 「左手で将棋を指す」、たしか久保王将もそう。ここでは父・生石玉将に憧れる娘が指し方も真似しているということか。

 

 p.256 『どうして桂香さんの邪魔をするの?』以下、八一が想像するようなことを銀子は思っていないのではないか。銀子は桂香を当たり前のように大切に感じているし、桂香の勝利と昇級を心から望んでいる。だけど、そのためにあいや天衣が邪魔だとは思わない。その二人だって真剣に将棋を指して女流棋士を目指しているのだから。銀子自身があいたちを目の敵にするのも、いまはまだ女流棋士としてではなく私情ゆえにすぎない。けれども八一は銀子が彼を「責めたいのかもしれない」と想像してしまっている。ここで八一は、あいと銀子の戦いのさいに「……恨むぜ。姉弟子」(第1巻p.267)と呟いた自分の心境をそのまま投影している。その想像のうえで、いま目の前にいる銀子を、「将棋から離れた」彼女が「中学三年生の、ごく普通の、悩みを抱える無力な女の子でしかなかった」と捉え、その声をかつての「小さな女の子と同じものだった」と受け止める(p.259)。しかしその銀子は、将棋から離れてなどいない。将棋に向き合い、離れずにいるからこそ、彼女の中に「無力」さが燃え広がる。その業火は自分の研究中・対局中には氷の意志で凍らせているものの、桂香を見守るこのときのように自分の対局する将棋盤を離れたとたんに、いつでも猛威を振るって銀子を焼き尽くしかねない。もちろん八一も「姉弟子だって、自分が盤の前に座って戦うのであれば」(p.258)ときちんと理解してはいる。だが、いまの銀子を「経験したことのない気持ちに戸惑い」(p.259)というのは明らかに異なる。むしろ桂香に近しい銀子は、この気持ちをずっと経験してきているのだから。

 

 p.293 「研究会をしてくれた同世代の奨励会員」、つまり桂香と同じ25歳くらいとすれば、彼もまた奨励会退会目前である。

 

 p.295 「ただ将棋盤だけを見ていた」、あいの(天衣と比べての)未熟な点が、ここでは効果を発揮している。そして第1巻で銀子の盤外戦術に途中までさんざんに苦しめられていたあいが、ここでは桂香の手管にまったく動じていない。これはあいの成長によるものか、それとも銀子との対局でも最終盤では同じ状態だったのか。

 

 p.302 銀は、桂馬と香車の、隣にいるから……(ううう)。

 

 以上です。ところで銀子の鼻毛はやはり銀色なのだろうか。あっちはつるつるなので心配ご無用ですが(最低)。