べびプリ麗考察を9年近くぶりに公開しました

 昨24日の『Baby Princess』(べびプリ)10周年記念には間に合わなかったのですが。九女の麗に焦点を当てた考察「間に合わない妹、間に合う長男 ~きょうだい関係にみるべびプリの可能性~」を公開しました。

 このテキストは最近書き上げたものではなく、クインテッサさんと26さんのサークル緋燕白昼夢企画による2009年2月11日刊行の同人誌『うらプリ』に寄稿させていただいたものを、およそ9年近く経ったいま自サイトへの転載許可を得て公開するものです。

 『うらプリ』はその名のとおり麗メインの合同誌で中身がものすごく濃く、参加メンバー発表時にはその面子のすさまじさに当時のぼくはおののきつつも気合いを入れ直して執筆した覚えがあります。過去日記ではこのあたりに記されてますね、いやーほんと楽しく熱い冬でした……。声をかけていただけただけでも嬉しかったし……。

 こんな素晴らしい企画の末席に連ねていただき、クインテッサさん・26さんにはあらためて感謝申し上げますとともに、サークルのますますのご発展をお祈りいたします。なお冬コミC93では金曜東ヨ34bにて新刊ご予定とのことです、詳細は26さんのこちらのついーとをご覧下さい。

アニメ版シスプリ再放送で初心に帰る

 昨年末から今年の秋にかけて、『アニメ シスター・プリンセス』と『アニメ シスター・プリンセスRe Pure』が再放送されていまして。その期間ぼくは、これも昨年発売された両作品Blue-Rayソフトを放送時間にあわせて再生し、Twitterで視聴実況しておりました。いやー面白かった。シスプリ大好き。

 第1作(いわゆるアニプリ)の本放送といえば2001年の上半期、今から16年も前のことです。あの頃を知る方々、あの頃にファンサイトを開かれていた方々の実況感想も、拝見させていただきつつ。ぼくは当時のことを懐かしく思い出しながらも、しかしいくぶんかの屈託を抱きました。

 

 そもそもあの第1作の本放送、ぼくの当時の住居環境では直接視聴できなかったのです。友人に録画してもらったビデオテープで飛び飛びに観てはいましたが、DVDを購入して全話を視聴できたのは翌2002年の夏。つまり考察を書き始めたあとで、ぼくはアニプリをちゃんと知ったというわけです。リピュアも同じくテレビ視聴できなかったため、やはりビデオテープを送ってもらって週遅れでの鑑賞(いやほんと世話してもらってありがとう>某氏)。

 なので、これまでずっとぼくは、間に合っていないファンという意識を持ち続けてきました。シスプリにはまったのもアニメ版からなのでずいぶん遅れて参入したわけですが、それに加えてアニメ版についても、本放送を同じ時間に鑑賞しサイトや掲示板などで感想を伝え合うなどといった場の共有を、得られないままに来たのです。

 ところが今回の再放送では、ソフト同時再生によって疑似的にではありますが、他のファンの方々と同時に鑑賞することができました。Twitterを通じて同時に感想を述べ合うことができました。あのときできなかったことをこうして体験できたというのは、何というか、青春の忘れ物がいま届いたような気分でした。

 

 しかし反面この体験は、あの頃と自分がどれほど離れているかについても気づかされるものでした。まぁ加齢の影響はもちろんなんですが、作品鑑賞の点で。

 さっき記した遅参ファンという意識ですが、そう自覚する当時のぼくは先達の方々に敬意と気後れを抱いてきましたし、逆に新参者ならではの怖いもの知らずというか開き直りで、いろいろ思い付きのままに行動できたとも言えます。ぼくの一連のアニメ版シスプリ考察も、そういう勢いなしには完成しなかったでしょう。

 それらの考察を書くにあたって、ぼくはアニプリとリピュアの各話を何度も繰り返し視聴しながら、そこに込められているはずの意味をくまなく見出そうと努めました。それは、遅れて来たがゆえに先行解釈とは異なる独自のアニメ版シスプリ像を形作らなければならないというような、差異化ゲームとしての切迫感とは無縁だったと思います。ぼくの解釈は最初から珍奇な少数派でしたので、差異化を図るまでもなかったし。それよりも、自分が大好きな作品を自分の視点で丹念に見つめ続けていくうちに、様々な描写をたえず新たな意味をもつものとして再発見し、作品全体をもっと素晴らしいものとして把握でき、そうして自分の作品愛がいっそう深まっていく……そういう過程を毎回楽しんでいたように感じます。

 だから、あの頃アニメ版の各話を視聴することは、そのつど何かに気づくことでした。この作品にはまだまだ隠された何かがある。それらを見つければ、この兄妹たちをもっともっと好きになれるはず。そういう高揚した飢えのような好奇心が、当時のぼくを突き動かしていたのでしょう。プラトンの『饗宴』でも、ソクラテスが「愛」をそんなものとして論じていたように思います。

 

 ところが今回視聴実況したとき、ぼくはあの頃と同じ姿勢をとったつもりで画面に向かったつもりだったにもかかわらず、ぼくの実況に繰り返し登場していたのは、過去に自分が書いた考察の引用でした。作品を鑑賞しながらぼくの脳裏には、当時のぼくがたどり着いた解釈がたえず浮かび上がっていたのです。あるいは、考察での解釈というフィルター越しにしか作品を観ることができなくなっていた、と言いますか。

 もちろん、あれだけ真剣に積み重ねた考察がぼくのその後のアニメ鑑賞姿勢をおおよそ定めてもいますから、その内容を一切忘れて作品に向き合うことは不可能です。自分の考察内容をだいぶ忘れてるので読み返すと、よくこんな解釈思いつくなーと呆れつつ感心することもありましたし。しかしそれでも、ぼくが今回鑑賞したのは作品そのものではなく自分自身の作品解釈だったのではないか、という問いは、ここに留めておこうと思います。

 まぁ実際のところ、この機会に過去の考察をみなさんに読み返してもらいたいというスケベ根性があったことも、非常によろしくないわけでして。以前にも同じ罠にはまりましたが、こういうときに大切なのは、作品に誠実に向き合うこと。謙虚な挑戦者として作品に臨むこと。過去の考察時に気づけなかったことを、今回の視聴時にふと発見できたりもしましたから、またしばらく経って再鑑賞すればきっと新しい何かに出会えるはず。そうやって作品はぼくの前に、いつも・いつまでも開かれているのだと信じます。

ガルパン最終章第1話感想

 ようやく第1話を映画館で観てこれました。以下ネタバレ感想です。

 

 まず、45分にあれだけの新キャラを盛り込んで全員きっちり印象づけるあたり、さすがだと思いました。短い放映時間ながらじつに濃厚で、しかしだからこそもう少し長めの映画として鑑賞したかったというか。これ6話続けるんでしたっけ……? 今回なかなか暇がとれず、もう観に行けないかとあきらめかけてたほどなので、続編をこまめに追っかけていけるか心配でなりません。

 とはいえ、ぼくが相当に浮き足立ってわくわくしてることも事実です。これは。ずっと観たかったものが、最終章を通じてついに観られるのではないか。

 

 さて第1話の中身について。

 BC自由学園の戦力にびっくり。ええーARL44って……。ヴィシーと自由フランスの混成ということからM4シャーマンは装備してそうと予想してましたが、こうきたか。まぁ貴族やブルジョワのお嬢様が中高一貫で学んでるらしいので、財政的には恵まれているのでしょう。

 隊長・副隊長は明らかに美しく咲いている方々のアレですが、フランス革命ネタを用いて優香里の偵察行動を逆利用するという策略はお見事でした。カウンターインテリジェンスというんでしょうか、全国大会の対サンダース戦でみほが試合中に臨機応変に行った欺瞞情報発信を計画的に行ってるわけですね。これによる一気呵成な勝利が得られなかったため、次の手をどう用意しているかが楽しみです。

 相手の作戦に今回もみほはその場のアイディアで対応しましたけど、まさか追加戦車がMk.Ⅳだとは思いませんでした。でかいわりに装甲が薄すぎるのでは。ただ、新たなメンバーたちが海賊モチーフであり、この世界初の実用戦車シリーズでランドシップと呼ばれていたものもあったような記憶もあるのでそのへんも被せてたんですかね。塹壕を越えるための全長や形状をうまく用いての脱出劇、大会決勝戦のようにヘッツァーが犠牲になるなどせずに安心しました。

 この搭乗員であるサメさんチーム、あれだけの集中砲撃を浴びながら隊長をはじめ車外にためらいなく飛び降りてますよね。最初の登場場面で示した度胸が見せかけのものでないことや、それだけ桃への報恩の念が強いことなどを伺わせています。

 

 そう、今回の戦いの目的は、桃を立派に進学させること。

 いろいろいじられやすい彼女ですし、本人にもその原因が間違いなくあるのですが、しかし彼女が生徒会の一員として、学園生徒の一人として、大洗女子学園の存続のため全身全霊で頑張ってきたことは疑いようもありません。ウサギさんチームの1年生たちが劇場版冒頭のエキジビジョン試合で応援していたように、なんだかんだで尊敬され愛されてる先輩だと思います。

 その先輩が受験で失敗しそうというニュースを聞いて、すわ、と立ち上がる隊員一同。学園存亡とはレベルが異なりながら、これはこれでけっこう重大です。無理せず浪人すればいいんじゃないの、とも思いますけど、自分達の学園を守ってくれた、そしてこの戦車道チームという素晴らしい居場所を作ってくれた先輩の一人に、みんなの感謝の心をこめた恩返しをしたい。それは共に学び生活する者同士の誠意であり、先輩のおかげで後輩達が成長できた姿を示すことでもあります。

 はい、ぼくがわくわくしてる理由はもうお分かりですね。後継者育成。ぼくが聖グロ考察に始まる一連のテキストで扱ってきた主題が、このたび前面に描かれる気配が強いのです。しかもしかも、海外留学するまほに黒森峰チームを託されたエリカの不安な横顔が登場したことで、大洗女子だけを対象とするものでないことが分かります。やった……とうとうエリカの戦いが描かれる……。劇場版での不満を解消するときが来る……。

 もうね、ほんと嬉しい予感に小躍りしてるんですよ。しかも桃がどう成長するか(あるいは彼女の毅然たる本領を発揮するか)まで期待できそうですし。そして第6話で、またはディスクおまけ映像で、他校チーム3年生の卒業場面などが描かれた日にはあなた。ねえ。どうしますか。

 

 まぁ、勝手に期待して勝手に裏切られる可能性もあるわけですが。今はとにかく楽しみにしております。

自戒として

  昨年秋からしばらく、将棋棋士が将棋ソフトを用いた不正行為を行っているのではないかという疑惑が、さまざまに取沙汰されました。これについては日本将棋連盟公式サイトにも第三者調査委員会の調査報告書(概要版pdf)が掲載されているとおり、疑うに足る根拠はひとつもないという検証結果がすでに示されており、これを受けて今回の処分で三浦九段が受けた損害をどう補償するのかをはじめとして、あまりにも多くの課題がなお残されたままとなっています。

 その中にはもちろん、日本将棋連盟とその執行部が拙速な処分を行ったことへの責任追及・原因究明が含まれます。人によっては、問題化のきっかけを作った久保九段・渡辺竜王らに何らかの責任を問いたいという向きもあるでしょう。また、メディアの問題についてはぼくも、この問題を煽った週刊誌などのマスコミ(今後それらの出版社の発行物は一切購入しないつもりです)やその情報に半ば依拠して煽ったまとめサイトなどのネットマスコミ(今後それらのサイトは一切閲覧しないつもりです)へ思うところがあります。

 しかし、この日記でぼくが記そうとするのは、そのような他者への批判や糾弾ではなく、ぼく自身がこの問題をめぐって反省すべきことについてです。ぼくは指さない将棋ファン(いわゆる「観る将」)の一人であり、連盟発行の月刊誌『将棋世界』やNHK将棋番組を長らく楽しんでいるもののそれ以上の積極的な行動を一切とってきていません。そういう後ろ向きファンでも今回の騒動にはだいぶ慌ててしまったのですが、その慌てぶりをいま振り返ってみると、自分の判断・憶測のしかたにずいぶん危ない面があることに気づかされました。その危うさについて記すことで、三浦九段へのお詫び、将棋ファンとしての反省とともに、似たような状況下で同じ過ちを犯さないための備忘録を、ここに留めたいと思います。

 

 その危うい判断・憶測とは、今回疑惑対象とされた三浦九段と、疑惑提唱者の一人とされる渡辺竜王に対するものです。疑惑についての報道を目にしたとき、ぼくは反射的に2つの思いを抱きました。「え、まさかそんな」と「あるいは、もしかして」です。しょせんは週刊誌の報道ですから、過去の経験からしてすぐに信じるべき理由はない。しかし、ほかならぬ渡辺竜王による指摘が発端であるのであれば、逆に無視することも難しい。しかししかし、三浦九段が……? ここでぼくの中に宙ぶらりんな判断状態が生まれました。そして、どちらの側にも決定的な一押しがない段階で、ぼくはそれぞれの側の正しさを納得しやすくするための物語を、頭の中で編み始めたのです。

 ここでその具体的内容を述べることはしません。その記述自体がお二方への誹謗中傷にほかならないからです。ともかくぼくは両者の背景事情を妄想し、自分の知る範囲での情報(その真偽を問わず)をもとに理屈づけ、自分が納得できそうな物語をこしらえていきました。そして、これらのわかりやすい物語が一度できあがってしまうと、以後の追加情報を解釈するさいに必ずそのフィルターにかけてしまうという癖がつきました。それでもその妄想内容や騒動についての臆見を記すことだけはさすがに控えてきましたが、しかし頭の中ではそのつどの結論がぐるぐる渦を巻いてもいました。

 ぼくの妄想が結果的に合ってるか間違ってるかは、ここでは問題になりません。そもそも妄想である時点で無意味な内容ですから。ただ、ぼくがそういうことを考え始めてしまったという事実、ぼくがもっと冷静に判断できるときまで踏みとどまれずに自分の納得を優先させてしまったという事実、そういう弱さを自分が持っているという事実は、ここで何度でも強調しておきたいと思います。このことを忘れてしまうとき、ぼくは再び誰かの尊厳を自分の中で無自覚に踏みつけてしまうでしょうし、そんな自分のふるまいの責任を身勝手に当事者になすりつけてしまうでしょう。そういうわけで、自分にとってたいへん恥ずかしいことですが、お詫びと反省を込めて、ここに刻んでおくことにします。義憤にかられる気がしたときにこの文章を読み返すこと>自分。

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劇場版ガルパンのペパロニが「姐さん」と呼ばないわけを想像してみるの巻

 ガルパン考察のうちアンツィオ編については、読者の方々から「ペパロニのとこで泣いてしまう」という感想をよく頂戴します。お読みくださりありがとうございます、ぜひあのOVAを再視聴のうえペパロニの「アンチョビ姐さん、あぁうちの隊長なんだけどもう喜んじゃって」と語る満面の笑顔を見たとたん目頭を熱くしていただければと思います。後半の試合場面ならともかく、こんな何気ないとこに意味を感じてしまうようになるのが、ぼくの考察の効力です(邪悪な笑み)。

 

 さて、そのような感想をついったーで呟かれていた金曜日さんと久遠さんのお二方が、劇場版のペパロニがアンチョビを「姐さん」ではなく「ドゥーチェ」と呼び続けている、と指摘されてました。(お二方のご許可をいただきましたので、お名前を追記しました。ありがとうございます。)なるほど、たしかにそのような。ぼくの考察ではペパロニによるこの呼称の使い分けが重要な鍵となってましたので、もしもぼくの考察をもとに劇場版について考えてくださったのであれば、これはほんと嬉しくありがたいことです。そしてまた、ぼくがこの日記で述べた考察の基礎づくり「数えよう」の実例がここにあります。(ぼくも確認してみたところ該当箇所は「ドゥーチェ、まじっすか?」「ドゥーチェ、前!?」の2回、姐さん呼ばわりは0回でした。)

 さらにその方々のやりとりでは、なぜ劇中のペパロニが「ドゥーチェ」呼びで通したかについて話し合われてました。これは考察のもうひとつの基礎づくり「ぶつけよう」の実例となります。OVA版のペパロニの振る舞いと劇場版のそれとが相容れないように見えることから、その理由を探そうという営みです。

 ではどのような理由が考えられるのか。そこで提唱されていたのは、劇場版で初めてガルパンを知る観客のために監督が配慮したのではないか、という製作者側の論理でした。つまり「姐さん」と聞くとアンチョビがペパロニの実姉かと勘違いされかねないので、その誤解を避けるためというわけです。これはこれでぼくもなるほどと思った説明です。劇場版の冒頭にはあの解説映像が流されていたという状況証拠もありますから、分かりやすさのための配慮という可能性は十分に考えられます。

 しかし、ぼくの考察はそのような作品外論理ではなく、できるだけ作品内描写に即して筋道を見出していくというのが売りです。なので、(いつ書き上がるか分からない劇場版考察に先立って)今回は感謝の気持ちとともにこの問題をとりあげ、ペパロニがアンチョビを「姐さん」と呼ばなかった理由について作品内論理に基づいて検討してみましょう。つまり、「ぶつけよう」から具体的考察へ至る過程の実践例です。

 

 問題をあらためて確認すると、これは同一人物(ペパロニ)における行動原理・表現形式(アンチョビへの呼称)の不一致です。この種の問題を扱うさい、ぼくがまず用いる視点は、「同一人物における描写の不一致は、その人物(あるいは重要な他者との関係)の変化を暗示する」というものです。ぼくも皆さんも、同じ性格や信念や能力や生活習慣などを一生保持するわけではないでしょう。同一人格でありながら、時とともに成長したり退化したり好みが変わったり傷がふさがったりするはずです。それと同じようにペパロニというアニメキャラも、アンチョビを「姐さん」呼ばわりしないということはそこに彼女なりの変化がある。何らかの考えが、感情が、想いがある。それは何なのか、なぜなのかをペパロニの内側から想像していくというのが、ぼくの毎度のやり口です。

 さあ、それでは仮説を2つ挙げてみましょう。それぞれ異なる理由から説明を試みますが、両立できないものではありません。(さらに、金曜日さん・久遠さんご提示の誤解回避という作品外論理とも矛盾しません。)

 

 

A.ペパロニが「姐さん」呼ばわりを遠慮した説

 

 これは、製作者側の配慮としてではなくペパロニ自身の配慮として、試合中に「姐さん」と呼ばないようにしていた、という仮説です。しかし一体どうして、何のために。言うまでもなく、「姐さん」を「姉さん」と聞きとってしまう人のためにです。それはもちろんガルパン初視聴の観客ではありません。ペパロニたちがまさにこの試合で関わる大切な仲間である、西住姉妹です。カルロ・ベローチェの車内からペパロニの声が他の車輌へ届くかどうかは分かりませんが、おそらくペパロニは車内だろうと車外だろうと「姐さん」呼ばわりを自覚的に抑えていました。

 先の大会終了後、あるいはこの大学選抜チームとの試合に参加する直前に、ペパロニたちはみほが大洗女子に転校したいきさつを知る機会があったかどうか。たぶんなさそうですので、西住姉妹のあれこれについてペパロニが考えることはなかったでしょう。しかし、廃校後は妹が黒森峰に戻ってくるかもしれないのにあえて大洗女子を存続させるために力を貸すまほの姿を見て、何か感じるものがあったのではないでしょうか。

 また、まほ参戦にみほは思わず「お姉ちゃん」と声をあげ感謝していましたが、作戦会議の席ではそう呼びかけた途中ですぐに「西住まほ」と言い直していました(ただしその場面にペパロニはいません)。家族は家族、部隊は部隊。私的情念をぐっと抑えて集団の目的に尽くすという姿勢が、この西住流の姉妹にあります。アンツィオの校風はこれと真逆なのですけど、抑制された振る舞いの中で通じ合う姉妹の姿が、ペパロニたちの日頃のあからさまな親密さとはまた違った深い信頼のありかを周囲に伝えたことでしょう。

 そこでペパロニは西住姉妹に配慮して「姉さん」と聞こえる「姐さん」呼ばわりを慎み、試合に勝って再びみほが素直な笑顔で「お姉ちゃん」とまほに言えるようになるまで我慢していた、というのがこの仮説です。つまり劇場版でペパロニが「ドゥーチェ」と呼び続けていたのは、アンチョビ姐さんに対する自らの情念の抑制と、西住姉妹の心意気に応えようする激しい情念の噴出とが、表裏一体となって現れたものだったのです。

 

 

B.ペパロニが「ドゥーチェ」呼ばわりを貫いた説

 

 これは、製作者の配慮とも西住姉妹への配慮とも関係なく、ただひたすらペパロニがアンチョビを「ドゥーチェ」と呼びたかったのでそうした、という仮説です。もちろん日頃は以前と同じように「姐さん」呼ばわりしてるのかもしれませんが、この試合では違う。断然「ドゥーチェ」でなければならない。

 理由は言うまでもなく、そう遠くない未来にアンチョビが「ドゥーチェ」でなくなるからです。3年生のアンチョビは7ヶ月後に卒業し、それまでに戦車道の隊長の座を後進に譲ります。秋冬にも公式試合・練習試合はあるのでしょうが、最も大きな行事である全国大会が終わった以上、これから先アンチョビがペパロニたちを率いる機会はそれほど多くありません。むしろ来年度を見据えてペパロニやカルパッチョが指揮する試合が増えていくことでしょう。

 アンチョビがいつまでも一緒にいてくれるわけではない。気づきたくないことに気づいてしまったペパロニは、せめてこの大好きな先輩を「ドゥーチェ」と呼べるときには目一杯そう呼ぼうと決めたのではないでしょうか。「姐さん」と呼べる日も限られてるけど、こちらはまだ学園生活のなかでいくらでも機会がある。でも「ドゥーチェ」と呼べるのは戦車道の練習や試合の時間だけ。たとえこの称号が代々の隊長に受け継がれていくのだとしても、自分にとっての「ドゥーチェ」はこの先輩だけだから。

 そして彼女が試合中に「ドゥーチェ」という呼び方を使うとき、それはつい「姐さん」と言ってしまいがちな自分の癖を意図的に正していかねばならないということでもあります。考察3(2)で述べたとおり、これによってペパロニは自らを副隊長の自覚のもとに抑制するわけですが、それは同時に、衝動のまま暴走せずできるだけ冷静沈着な操縦に努めることで、このメンバーで参加できた試合にできるだけ長くとどまり続けることを目指していました。CVに三人乗りというこれっきりかもしれない貴重な機会をできるだけ長く楽しみ、できるだけ「ドゥーチェ」と呼べるように。

 つまりこの仮説によれば、劇場版でペパロニが「ドゥーチェ」と呼び続けていたのは、アンチョビ隊長に対する自らの敬愛の情の噴出と、この3人で参加できた試合からできるだけ脱落しないように努める自己抑制とが、表裏一体となって現れたものだったのです。

 

 

 以上2つの仮説、いかがでしたか。ぼく自身の判断ではBのほうが説得的ですが、AB相容れないわけではないので両方かもしれないなー、などとも思いますし、いずれにしてもペパロニのことが、そしてペパロニが好きなアンチョビたちのことが、もっと好きになりました。きっかけを与えてくださいましたお二方に、あらためて感謝申し上げます。

「面白さ」に向き合って

 「面白さ」の覇権争いといったものが、ちょいと話題になってましたが。

 

 先日ぼくが記した「同調圧力」への対応も、つまるところ自分が好きな作品をめぐる解釈・受容態度についての衝突と言えます。この作品は、こう受け止めたほうが面白い、少なくとも自分にとっては面白い。同じような人がいるかもしれないので、届くことを期待して語ります。というわけですが、それは一面において伝達のみを求めていながら、実際には同意者からの反応を得ることによって集団形成を目論んでもいます。そして集団というものは必ず力を帯び、周囲の圧力から自衛するためと言いながら自らが圧力を周囲に及ぼしていく。そういうものでしょう。

 そもそもこういう話題に乗るか乗らないかの判断でさえ、ネットのある狭い世界の中での政治的力学とからんでいますし、ぼくがこの話題を論じている他所様のサイトにリンクをはらないのも、一定の距離を保ちたいというぼくのその手の判断に基づいています。だから、そういう要素について考え始めるときりがないし、考えたところでその影響から免れられるわけでもないけど、一応は自重・自嘲するための視点としてなるべく維持しておきたいな、という塩梅。

 

 そしてその一方、ぼく自身にとっての「面白さ」がこの10年で、あるいはサイト開設後の15年でどれほど変化したかを顧みると、……細かいとこはさておき、さほど変わってないように感じます。

 もう少し具体的に述べると、例えば漫画やアニメの絵柄の好みは変化しているかもしれない。変化というか、新たに好きになった作品の影響で範囲が広がってきているはず。でも、物語の展開や人物造形の好みは、たぶんほとんど変化してないし、幅も広がっていない。そこのところに目を向ければ、ぼくは時代の流れに適応する力が弱いのだと思います。もう固まっちゃったらその安定をあんまり崩したくないと感じるのが元々の性格なうえ、加齢の効果も上乗せされてますます自分の変化を受け入れ難くなってきています。

 感受性の柔らかさを失うのはやはり寂しいことなのですが、しかし逆に、それはそれでまぁいいかな、と思えるときもあります。例えば自分の過去の文章を読んで、今なお面白がれるときとか。書いた内容や表現は忘れてしまっていても、あらためて読めば「ああ、こんなこと書いてたのかー」の次に「けっこう面白いねこれ」と顎に手をやるわけです。自画自賛を言葉にするというのは品性の疑われる行為ですが、どのみちたいした品性の持ち主ではないので問題なし。当時の日記を読むとその時々の話題選びや意見表明に違和感を抱くこともありますけど、根本的な趣味判断や人間理解の点ではそんなに大きく変化してはいないと感じられるということ。これは、ぼくがまるで成長していないという証であるとともに、自分の中にぶれない軸があると信じられる根拠でもあるのです。

 

 もっとも、ぼくの文章が取り上げている作品が忘れ去られてしまえば、そこに寄生しているにすぎないぼくの文章もついでに消えてしまうものでしょう。それはそれで本望です。あるいはもしかするとぼくの文章が、誰かにとってその作品を覚えているための・思い出すための・もう一度みてみるためのきっかけになるかもしれません。そんなことが起きたなら、ぼくは好きな作品へのわずかばかりの恩返しができたことになるわけで、じつにありがたい話です。

 ともあれ、元のサイトを続けられるかぎりは過去の自分のコンテンツを(表現の微修正などはあるにせよ)1つも消すことなく残していくつもりです。時代の変化や自分の移ろいを映し出しながらも、そこに何か変わらないもの・変われないものが潜んでいるのだと信じて。

「ガルパンはいいぞ」に対する個人的態度

 「ガルパンはいいぞ」は同調圧力かどうかについて、ぼくの経験のみに基いて述べます。

 

 劇場版公開後、あちこちでこの一言感想を目撃しました。「あちこちで」というのは、例えばぼくがついったーでフォローしている方々がご自身で呟いたとか、日参してるサイトで語られてたとか、ではありません。まとめサイトなどでいろんな人達の呟きが転載されてたり、ついったーのRTで流れたり、そういうので何度も目にする機会があったということです。

 まずこの時点で、ぼくにとっての身近な方々からの同調圧力はなかった、と言えます。だってほとんど誰も「ガルパンはいいぞ」って書かないんだもん。逆にまた、これを言ってはならないというような圧力も感じませんでした。どちらの側にせよ同調圧力を自覚的・無自覚的にかけてくる人がそばにいないというのはありがたいことです。もっとも、ぼく自身がそういう人を避けている結果でもありますし、むしろぼくが周囲に圧を加えている可能性は残ります。

 

 とはいえ、あれだけ「ガルパンはいいぞ」が流行し、とくに(1)この単純な感想に批判的な呟きを流す(2)劇場版を観てくる、と呟く(3)鑑賞後に「ガルパンはいいぞ」と呟く、という3段オチのパターンが繰り返されると、その新味のなさに飽くとともに、なんとなく「世間」の同調圧力めいたものを感じなくもありませんでした。べつに特定の誰かがそう強制しているわけじゃないんですが、「この一言でわかるよね」「わかるー」という身振り・クリシェとして広がりつつあるな、という印象をもったのです。

 この一言が、例えば作品の劇場版やテレビシリーズについて多様な感想・意見をもったファン達がその相違を超えてつながるための挨拶として機能しているのであれば、それはそれで結構なことだと思います。また、劇場版をまだ観ていない人達にネタバレしないため、あえてシンプルな一言だけで感想を伝えていたのであれば、これもまた温かい配慮と言えましょう。たとえそうでなくとも、個人の感想はその人が素直に感じたままの言葉である以上、他人によって優劣をつけられるものではありません。さらにファン発のキャッチコピーとしても、かなり有効だったのではないでしょうか。

 しかし、ぼくが受けた印象ではこれらに加えて、劇場版を全肯定する以外の態度を認めないような雰囲気が作られつつあるのかな、という漠たる危惧がそこにありました。思い込みかもしれませんが、これはちょっと怖い。内輪意識というよりもその安易な思考停止の見せかけが。

 もちろん、よいところを具体的に示してくれる人も決して少なくなかったことは事実です。劇場版の感想をネタバレ込みで綴られてるサイトをぼくも鑑賞後にいくつか拝見しましたが、そのほとんどは完全な賞賛であり、批判的な感想の持ち主はぼくの見た範囲内でお一人だけでした。ではぼくはといえば、すでに感想を公開しているとおり、鑑賞時に少なからず不満を抱いたのです。

kurubushianyo.hatenadiary.jp

 

 これを書くとき、普段以上に気をつかったように覚えています。「ガルパンはいいぞ」勢から短絡的な反発を受けないように、という想像上の多数派に対する警戒心。書き出しがえらい慎重なのはそのせいですね。へいへいびびってるよ自分。

 しかしたとえ腰が引けてるとしても、劇場版を鑑賞して感じた引っかかりはごまかさずに言葉にしないと気がすまないたちですので、これはどうなの・ああしてほしかったという意見はそのまんま書きました。「ガルパンはいいぞ」の連鎖が一部の受け手にとってあたかも同調圧力のように感じられるとしても、それを理由に自分の正直な気持ちを表現することをためらってしまうならば、そこに本当の同調圧力が生まれてしまうからです。つまり、ぼくが自らを被害者に仕立てることで、印象にすぎなかった同調圧力を実在化させてしまうと同時に、ぼくが沈黙するというその行為によって同調圧力に加担してしまう、というわけです。それに今までぼくはネット上で好きな作品に向き合うときに嘘をつかないという姿勢を貫いてきましたので、これを枉げるわけにはいかないのです。

 だからぼくは自分の感想を綴りましたし、これを読まれた方が「じつは私も別の感想を抱いてて」と今まで黙っていた言葉を紡ぎだすきっかけにでもなれば、それはそれで結構なことだと思います。どちらが多数派になるかという勢力争いのためではなく、多様な意見を安心して語り合い聴き合うことのできるファンダムこそがファンにとっても作品にとっても健全だと信じるからです。もちろんそれはお互いへの批判を否定するものではありませんし、仲間の意見に同調することを排除するものでもありません。

 

 というわけで、劇場版感想はそのように綴り、またその一方でテレビシリーズの各校考察は順次進めるという具合に、ぼくは作品への感想・解釈をそれぞれ表現してきています。劇場版についても考察形式でやがて語ることになるでしょう。ただ、それだけでは「ガルパンはいいぞ」の過剰な流行に対するぼくのむずむずした感覚を消化しきれないな、と予感したため、先日は黒森峰考察の基礎づくりのついでとしてこのフレーズをちょいと揶揄しました。

kurubushianyo.hatenadiary.jp

 

 これで個人的にはすっきりしましたし、あとはぼくの近辺で「ガルパンはいいぞ」の声が聞こえたら、その声そのものは否定せずに「どのへんがよかったの」と尋ねることにします。だって具体的な話を聞けば、ぼくの気づかない作品の魅力を教えてもらえるかもしれないじゃないですか。そしてぼくはぼくで、自らの言葉で語り続けるつもりです。流行りの言い回しが消えた10年後も20年後も、自分の全力を投じた文章が作品の素晴らしさとぼくの作品愛を伝えてくれるように、と。