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自作コンテンツの評価を検索結果にみてみる

その他

 サイト・ブログでのお金稼ぎなどをやらない理由については、以前書きましたが。

 

kurubushianyo.hatenadiary.jp

 

kurubushianyo.hatenadiary.jp

 

 自分の好きな作品について全力こめた考察などのコンテンツを、どれくらい読んでいただけてるのかについては、やはり気になります。それはアクセス数を増やしたいという気持ちよりも、自分が作品に見出した独特のよさ・面白さを多くの方々に知っていただくことで、「なるほど、また観て・読んでみたくなった」と再び作品に触れる機会にしてもらえれば、という思いからです。もちろん、ぼくの解釈を受け入れてほしい、という欲求も同時にあるわけですけれど。

 実際のアクセス数は調べてないんですが、とりあえずの指標として用いてるのが、「(作品名)考察」または「(作品名) 考察」でぐぐったときにぼくの考察コンテンツ(puni.net/~anyo/etc内、ここで一覧)がどの位置に出てくるか。例えば、次のようにです(2016年5月現在)。

 

 「シスプリ考察」で1位。

 「涼宮ハルヒ考察」で5位。

  (「ハルヒ考察」7位、「憂鬱考察」4位、「長門有希考察」「消失考察」1位)

 「べびプリ考察」で2位以内。

 「ハートキャッチプリキュア考察」で10位。

 「ガルパン考察」で2位。

  (「聖グロ考察」1位、「サンダース考察」7位、

   「アンツィオ考察」1位、「プラウダ考察」1位)

 

 だいたい検索結果1ページ目に入ってますかね、と胸を張ってみるの巻。もっとも検索上位だからといって内容の質についての評価も高いとは限りませんが、ひとまず検索後に読んでもらいやすいうえに、引き続き参照・言及してもいただけてるのかな、と勝手に考えています。ありがたいことです。

 自分の全力を注いで完成させたコンテンツが、こうして検索され参照されることでネット上にそれなりの地歩を固めているのだとすれば、少なくともぼくの趣味に関わる場ではアクセス数稼ぎのためのいいかげんなコンテンツに負けていない。これはそのようなファンダムを担われている皆様のおかげでして、またまたありがたいことです。自分の書きたいことや自分にとって面白いことを書きながら、それらを読んでいただけることへの信頼。楽しんでくださることへの感謝。ここしばらく話題となっているネット界の風潮を、笑顔でスルーする力が湧いてきます。

 

 その一方で「ネギま考察」や「アニマス考察」での検索だと、ぼくのはずーっと下のほうにしか出てきません。いずれも作品完結時まで書き続けてませんので、これは当然の結果でしょう。また、ハルヒ考察についても最初の憂鬱考察は公開後しばらくトップでしたけど今や上位からほぼ消えてますので、他所様のより新しいコンテンツに注目が集まるとこちらの位置が自然に下がっていくんだろうな、と想像します。逆に言えば、シスプリハルヒについては今後それほど目立ったコンテンツは登場しにくいでしょうから、現在の位置をこのまま維持できそうな塩梅。

 いや、そんなことに安堵するよりもむしろ、作品再開してファンダムが湧き上がって新規コンテンツが溢れかえるほうがずっと嬉しいんですけどね。そのときはぼくもまた何か書きたくなるはずで。

 

 最近のヒットといえば、ガルパンのとくにアンツィオ考察。ついったーでも時々、読むとペパロニがもっと好きになる・泣いてしまったなどのご感想を頂戴してます。ぼくも大好きですペパロニ。声を担当されてる大地葉さんのガルパン愛が(もともとTVシリーズ以来の作品ファンだったとのお話)、ペパロニというキャラクターによってさらに増幅されほとばしり出てるようにも感じてます。考察にも書きましたけど、「アンチョビ姐さーん! 姐さーん!」とか、もう泣く。皆も泣け。

 これも以前書いたとおり、ぼくは考察作業を通じて自分の作品愛を深めることを目的のひとつにしてますので、その考察を読んでいただくということは、『ハートキャッチプリキュア』(これも大好きな作品)風に言えば「くらえこの愛」なわけです。

 

 いま取り組んでるのは、ガルパン黒森峰考察。この考察シリーズはもちろん大洗女子が最後に控えてますので、あと2篇でいちおう完結ですね。

 あと以前からずっと抱えてるのが、まず『ローゼンメイデン』考察。真紅のあの台詞「だって 闘うことって 生きるってことでしょう?」の具体的なありようを、真紅たちやジュン・めぐそれぞれの闘いかたに見出すというもの。これは昔の日記で台詞登場時点の感想・予感を書きましたが、作品完結後しばらく経ちますし腰を据えてやってみたいところです。

 次に、『とらドラ!』考察。これはアニメ化されたタイミングでぼくが原作を読んで感想を綴ってたとき、ついったーで要望をいただいだんですが、当時ぼくも注目してた「『「食』への執着」という観点から全編読みなおすというものです。こちらはまったく手付かずですが、往時の勢いが戻ればハートキャッチ考察の形式で各描写の分類と解釈を行うことになるでしょう。

 実際これらは絵に描いた餅ですし、それより遥か以前より未完成のままなコンテンツも少なくないので、どこまでも気分次第ではありますが。ぼちぼち進めてまいります。

考察紹介のお礼

その他

 『駄文にゅうす』様(5/11)、プラウダ考察を紹介いただきありがとうございました。

 こうしてお礼を書くのはアニメ版シスプリ考察の頃を思い出してなんか懐かしい……。いや、『駄文にゅうす』様にはガルパン考察も聖グロ篇からずっと紹介いただいてるわけでして、失礼いたしました&感謝申し上げます。

 自分のテキストを取り上げていただいたからというわけじゃないですが、かつてのニュースサイトの多くが閉鎖しニュースパクリサイトが横行する現在、「ニュースは鮮度より品質で勝負 『駄文にゅうす』のネタ探し術」をあらためて読みなおすと、技術のみならず考え方や作法についても学ぶことが多いです。

 

 参考になるテキストといえば、今世紀初頭の抜きえろげレビュー界を代表するサイトのひとつ『エロゲカウントダウン』内の「エロゲカウントダウンの作り方」を、ぼくはいまでも何かの作品の感想を書くとき参考にしてます。一方、そこで学んだはずの配慮事項にほとんど背を向けて、もうひとつのスタイルをひねりだしたのが考察形式。軽いタッチで作品愛を語るのであれば感想、作品内描写をどっぷり解釈することを通して作品愛を深めるのであれば考察、という使い分けをしてきてます。

ガルパンプラウダ考察を公開しました

アニメ

 というわけで、「アニメ『ガールズ&パンツァー』にみる後継者育成と戦車道の諸相・その4 ~プラウダ高校篇~」を公開しました。元となった日記はこちらですが、相変わらずほとんど原形をとどめていません。前回アンツィオ考察からほぼ1年ぶりという、ずいぶん苦労しての完成となりましたが、そのぶん文章量がとんでもないことになっております。ぼくの考察単体では最長かも。何はともあれ、皆様どうぞご笑覧くださいませ。

「探していた風景」を三たび聴く

音楽 漫画

 fhána佐藤純一さん作曲によるTVアニメ『長門有希ちゃんの消失』キャラクターソング「探していた風景」(畑亜貴作詞・酒井陽一編曲、『Character Song Series "in Love" case1 Nagato Yuki』 Lantis 2015年 に収録)を聴きました。また、この曲を聴くのとあわせて、漫画作品『長門有希ちゃんの消失』(ぷよ作 角川書店 単行本2010年より第9巻まで刊行中)を第8巻まで読みました。

 

 ぼくは自分の好きな作品の二次創作ものにはほとんど無関心なたちです。原作至上主義というか原作者至上主義というか、とにかく本来の作者による原作こそが唯一絶対であり。たとえ二次創作がどれほど面白くまた原作への理解を深めてくれようとも、原作へのぼく自身の関わり方に横から干渉してくるものとして警戒し、よほどのことがないかぎり手を出しません。この抵抗感はファンによる同人誌にも商業作品にも同じように抱くもので、それゆえ当然『長門有希ちゃんの消失』も読まず、そのアニメ化作品も観ずにきたわけです。そんなぼくが、このアニメ作品に関わるキャラソンCDを購入し、さらにその収録曲を聴くために漫画作品の単行本を揃えたという異例の行為に及んだのは、佐藤純一さんが長門有希のキャラソンを作曲されたと知ったからでした。

 好きな作品にまつわる歌曲であろうともその作詞家・作曲家の名を意識しないぼくですので、この方をそれまで追いかけてきたわけでは(失礼ながら)ありません。ただ、2010年にぼくが谷川流涼宮ハルヒの消失』(角川書店 2004年、以下『消失』)についての考察(接触篇発動篇)を執筆公開したとき、佐藤純一さんはTwitterにて好意的に言及してくださったのですね(直リンは控えます)。ハルヒシリーズの熱烈なファンである佐藤さんが劇場版『消失』を何度も観賞され、さらにネット上の感想・考察などを探されていて、その1つとしてぼくの考察も読んでいただけたということです。そのpostには当時のぼくがお礼を申し上げたところお返事を頂戴しまして、その節はありがとうございました。

 ところが先日のネット巡回中に偶然、佐藤純一さんがじつにハルヒシリーズやとくに長門有希に深いこだわりを持っておられることをようやく知り、またこの作曲家さんがあのときの方だと今更になって気づき、しかもごく最近『長門有希ちゃんの消失』の曲を手がけられたと分かりました。ここで興味がぐんと湧いてきたのですね。正直なところ、ぼくの考察がごくわずかでも作品受容に影響を及ぼしたかもしれない作曲家の方がどんな曲を書かれたのだろうか、という下衆な関心もぼくの中に間違いなくありました。また一方では、あのとき好意的なお言葉を頂戴したことへの感謝としてCDを購入しよう、という気持ちもありました。いやーあの考察、すんごい力を注いで書いたわりにはほとんど話題になりませんでしたからね。内心しょんぼりしてたぼくが、佐藤さんたちからあのときいただいた言葉にどれだけ励まされたかという。

 そんなこんなの思惑もありながら、ぼくは佐藤さんの曲を求めてCDを注文したわけですが、曲そのものを鑑賞するだけでなく漫画作品も読んだうえで味わいたいな、と考えて、単行本を第4巻まで一緒に購入することにしました。アニメ版のキャラソンですから本来そちらを視聴するのが筋ですが、ちょっと懐具合があれなので。

 

 さて、それでもまずは漫画単行本を読まないうちにと、いきなりCDを聴いてみたわけですが。

 この時点でぼくは若干の事前情報をもとに、本漫画作品がいわば”『消失』長門有希キョンをも操作対象に含めてしまった世界”を描いてるっぽい、というイメージを持っていました。そのうえで初めて聴いた「探していた風景」の印象は。

 恐怖。でした。え、なにこれこわい。

 先に述べたとおりぼくは原作至上主義者ですから、『消失』世界はきちんと消失しないといけないのですよ。それが作品世界における唯一無二の展開。そしてまた、原作小説の長門有希自身が、一方でその止むにやまざる欲求を世界改変へと暴走させながら、もう一方でそのような自分を何とか抑制しようとぎりぎりまで試みつつ最終的な決定権をキョンに委ねたはずでした。(その悲劇的な姿とキョンによる部分的救済を、ぼくは考察で描き出したつもりです。)

 ところが、この曲の長門はメタプレイヤー的な相貌がいっさいなく、ひたすら乙女。しかも『消失』のあの内気で無口な乙女どころではなく、意外なほど多弁。もちろん内心の独白だとしても、ここまではっきりと恋心を表現できてしまう長門は、もはや『消失』の長門ですらない。誰だ。君は。

 このときぼくが抱いた恐怖とはつまり、『消失』のキョンが教室で朝倉涼子に抱いたものと似ています。何かまったく異質なものがここにいる。かつて殺意をキョンに向けた朝倉に対して、ここにいる長門はそのような存在否定ではなく、キョン改変というかたちでの存在否定の結果なのではないか。長門、お前そこまでやっちまったのか……。正直、慄然としたのです。

  もっとも、漫画単行本を読まない時点でそのような解釈はやや勇み足。じつはキョンはあのときエンターキー以外を押すことを選び、その最終的決定を自覚的に担ったうえでキョンはこの長門と付き合っているのかもしれませんから。そうであるなら、キョンに受け入れてもらえた(メタ的にもですが、この長門にとってはあくまで個人的に)ことによって、眼鏡長門がずんずんと乙女ぢからを開放していったとすれば、この曲での描かれ方も納得いくものとなります。

 

 さて、では漫画単行本を開いてみると。

 ……ああ、これはこれで面白い。えへへかわいい。とくに妹ちゃんが。長門がんばれ。そしてこの朝倉には頭下がる。最初は第4巻まで購入したんですが、すぐに第5巻以降も注文しちゃいました。でも最新刊の第9巻だけ未入手なので、いま飢えてます。

 途中あちこちで、あれぇこの作品世界はいったい

  1.『消失』の中でキョンがその改変世界を選んだ結果なのか、

  2.『消失』を越えてキョンの人格・記憶まで操作してしまった結果なのか、

  3.『消失』と登場人物設定を流用しつつオリジナル恋愛物語に仕立ててるのか、

どれなんだ? と悩むことになりましたが、1.はそもそもキョンが朝倉をすんなり受け入れてる時点であり得ないとして、だんだんに3.で落ち着きました。その最大の理由としては、ハルヒが違いすぎる。つまり、物分りが良すぎる。原作小説でもハルヒは社会的に意外と物分りが良いんですけど、唯一キョンをめぐってはわけわからなくなるのがハルヒですから。たとえ長門の恋心に気づいてこれに配慮したのだとしても、『消失』のハルヒなりにもうちょっとこじれていいはずです。

 そう理解したとたん、ぼくの恐怖心はみるみるうちに溶け去っていきました。なぁんだ、よかった。これは純然たる二次創作なんだ、原作小説の世界とははっきり別の世界での話なんだ。あの連中は今までどおりあのまんま。こっちはこっちで独自の組み換えをして恋愛ものを描いてる。そのように両者を切り離すことができたとき、ぼくは安心してこの漫画作品に浸れるようになったのです。それはまた、原作の長門キョンの人格改変にまで手を染めたのではなかった、ということへの安堵感によるものでもありました。長門は自分を保てた。よかった。本当によく頑張った。ではこの漫画作品の長門は自分を保てなかったのかというと、こちらの長門はもはや情報統合思念体のインターフェースでさえなさそうですので、その問い自体が成り立ちません。そこでぼくは布団に寝転がってページを繰り、ああこの子はやくキョンとくっつくといいなー、と温かく見守る作業に勤しむのでした。

 そんなラブコメにニヨニヨした後、再び「探していた風景」を聴いてみたところ。ああ、これはなんと幸せな……まさしく「小さな幸せ」をもたらしてくれた「出会いの奇跡」をこっそりどきどきしながら歌った、可愛らしく微笑ましい恋する乙女の……

 え。涙が。なんで。

 ……そうか、これが……この風景が、『消失』の長門も求めてやまなかったものなのか。必死に求めてなお、届かなかったものなのか。

 この届かなさは二重の意味をもっています。まず、世界改変を成し遂げようとする長門が、改変後の世界で手にしたかった自分とキョンとの関係に対する、届かなさ。次に、改変世界内の長門が、都合よく改変されたはずのその世界にいるにもかかわらず望んで得られなかったという、届かなさ。長門の不器用さ、ためらい、自己存在への疑問、キョンというかけがえない他者への相互に矛盾する思い。そういったものが彼女自身に二重の挫折を与えたのが『消失』だったとするならば、この曲を歌う長門はまさしく夢の姿であり、遥か彼方にある。この「小さな幸せ」を掴むために『消失』の長門がどれほど取り返しのつかぬ犠牲を払おうとしたかを想像すると気が遠くなるけど、でも、だからといってここで歌う長門が、こうやって歌えるようになるために奮い起こした勇気や、乗り越えようとした不安は、『消失』の長門よりもちっぽけだなんて言えやしない。どちらの長門もそれぞれに精一杯に全力なのであって、どちらが楽とか上とかいうものではない。

 でも『消失』の長門は、こうなることができなかったのです。

 ああ。この歌詞が、この旋律が、胸にぐうう。

 

 同じ曲を聴いているのに、こんなに印象が、喚起される感情が変わるものなんでしょうか。前もっての予想も多少あったんですけど、ここまで極端だとは思いませんでした。そしてその感情は、元の作品それぞれに対するぼくの解釈にも影響していったわけでして、こういう相互作用を自覚的に記すのは初めてのことです。

 ……いや待てよ、ぼくは「曲」を聴いたと書いてはいるけど、実際には歌詞とともに「歌」を聴いている。このCDには off vocal の「探していた風景」も収録されてるから、そちらで「曲」だけを聴いたならまた違ったイメージを抱くのだろうか。そう考えて曲だけを聴いてみましたところ、

 あ。これは、もしや。『消失』の後の長門でもありはすまいか。

 音楽についての知識を一切持ち合わせないので徒手空拳で語るほかないのですが、出だしは有希という名の由来となった雪のイメージ。これは同時に、『消失』ラストでその名の意味をあらためて自分のものとしたことを思い出させます。するとこの出だしは長門の誕生と再生とを重ねて表現しており、つまりそこから続くメロディは『消失』後の彼女の足取りを描くことになります。

  その足取りというと、ぼくの『消失』考察発動篇では「おわりに」の箇所で駆け足にまとめているにすぎませんが、例えば次のあれやこれや。

 キョンの来室に、かけてないのに「まるで眼鏡を押さえるような仕草」をした長門。(谷川流涼宮ハルヒの動揺角川書店 2005年 p.118)

 自分に惚れた男子が現れたと聞いて、キョンを見上げる長門。(同 p.119)

 その結末についてキョンに問われ、答える長門。(同 p.186)

 キョンの電話でのお願いに、「若干長めの沈黙」を返す長門。(谷川流涼宮ハルヒの動揺角川書店 2005年 p.262)

 その帰結として「逆立ちした氷柱のように佇む」長門。(同 p.284)

 驚くほどの気の回しようをみせた長門。(同 p.421)

 キョンにディスプレイを見せまいとする長門。(谷川流涼宮ハルヒの憤慨角川書店 2006年 p.74)

  一仕事終えて「無言でシュークリームを食べている」長門。(同 p.280)

 そんな『消失』以降の長門の姿を、キョンハルヒSOS団の仲間たち、そしてそれを取り巻く者たちとともにいる長門の姿を、この曲は思い出させてくれます。歌詞が重なるはずの部分では、やや寂しげでためらいがちな、だけど開けゆくいまこのときをキョンたちと少しずつ歩んでいこうとする長門の、「ユニーク」な姿を。間奏の部分では、朴念仁なキョンへの溜息まじりな不満と、だけどそんな二人の間だけにあるすれ違いがちな親密さへの信頼を。文庫本をお持ちの方はそれぞれの場面を読み返してみてください、重なるんですよ。長門がいる"風景"に、この曲が。

 長門は求めてやまなかったものを得られなかった、と書いたけど、求めたとおりのものではないにせよ、ちゃんと彼女は得ていた。それを守り育ててきていた。思えば『消失』ラストでキョンから与えてもらったあの救済こそが、その後の長門を力強く支えていったわけであり、ぼくも自分の考察でそのことを指摘していたにもかかわらず、あたかも何も獲得できなかった可哀想なヒロインのように一面化してしまってた。そうじゃないですよね、長門有希という少女はそんなもので片付かない。

 この歌の歌詞は漫画作品の長門有希のために詠まれてるので、原作小説の長門有希には当たり前のことながらちょっと強すぎるのですね。だけど、曲はそうではない。詞と曲があわさって編曲されて「小さな幸せ」を歌い上げた一方で、その曲だけを切り離すとそれは原作小説の長門有希をも包み込む。この曲はどちらの長門有希にも顔を向けて結びつけている、つまり……長門有希像にとっての「インターフェース」である。

 

 ぼくはこの歌を聴くことで様々な感情を抱き、またそこに映しだされた長門像を受け止めかねて揺らいだりもしました。でも、そんななかでぼくは長門を理解したつもりになっていた自分に気づかされました。そしてこの曲を聴くことで、『長門有希ちゃんの消失』という作品が原作からの逸脱かどうかとかにこだわることなく、また原作小説の長門との相違にとらわれすぎることなく、そこに描かれた長門有希の独特の愛らしさに惹かれながら、原作小説の長門が『消失』後に見せてくれたひそやかな魅力をあらためて再認識することができました。

 そう、この漫画作品の長門有希は、小説原作の長門有希とは改変世界の内外において別人であり、

 

「でも、わたしはここにいる」(『陰謀』 p.119)

 

 たしかに、この曲のなかにいる。そしてこの曲を、この歌を捧げられた長門有希も、たしかに漫画作品という「ここ」にいる。世界が異なるように歌詞は違っていても、同じ旋律がお互いのなかに流れている。別々だけどつながっていて、そのようにハルヒシリーズの世界もまた豊かに広がっている。アニメ版の『長門有希ちゃんの消失』もおそらく、新たな何かを与えてくれるはず。

 

 こんなふうにしてぼくは、この素敵な二次創作漫画も小説原作もともに享受することが、しかもいっそうどっぷりとできるようになったのでした。つまりこの曲はぼくの妙な先入観やわだかまりを作品愛の増大によって”消失”させてくれたわけで、むろん当初ぼくが抱いてた身勝手な思惑などとっくにどこかへ吹き飛んでます。いやぁ音楽というのはこういう力も持っているんですね。

 素晴らしい曲を聴かせてくださった佐藤純一さんに、一人のリスナーとして、そして同じ作品を愛するファンとして、感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

ここからは、ぼくたちの手で

漫画

 小山田いく先生逝去との報、3月25日に。ああ。ああああ。

 

 小山田作品にぼくが初めて出会ったのは、記憶のかぎりでは読み切り漫画『12月の唯』です。これは週刊少年チャンピオンの新人まんが賞に応募・佳作入選された作品だったそうです。この雑誌でぼくが馴染んでいた『ふたりと5人』のような丸っこいタッチの登場人物たちが、しかしギャグ漫画というより情緒あふれるストーリー漫画の世界でいきいきと動いていました。同誌連載の『ゆうひが丘の総理大臣』のように、コメディシーンではギャグタッチを、シリアスシーンでは写実的・少女漫画的タッチを、と使い分けている作品がよく見られたこの時代に、どんな場面でも登場人物のタッチを大きく変えずにギャグもシリアスも貫いて“たしかにそこに生きている”彼らを描いた小山田作品は、後から見れば画期的だったのかもしれません。まぁ漫画史に不明なぼくの言うことですからそれはともかくも、ここで出会った独特な空気に、ぼくは先生の初連載作品である『すくらっぷ・ブック』でどっぷりと浸ることになります。

 

 『すくらっぷ・ブック』。ぼくが自分の小遣いで単行本全巻揃えた、しかも刊行日に行きつけの本屋へ駆けつけて入手した、初めての漫画作品がおそらくこれでした。長野県小諸市のとある中学校を舞台にした、約2年にわたる生徒たちの成長の日々を描いた長編です。柏木晴・市野清文・坂口光明・青木理美・迎麻紀・日生香苗・小宮山雅一郎・五島かがり、ああ今でもこうやって名前を思い出せる彼らの日常。週刊少年チャンピオンを立ち読みするとき、まっさきにこの作品を開いていたものです。勉強とか恋愛とか友情とか挫折とか別離とか進路とか卒業とか、学園もの・ジュヴナイルものの主題をおおよそ描き切っており、このとき小学生だったぼくは中学生の彼らの姿に大いに憧れて、やがて自分もこんな学校生活を満喫するんだ、と期待してたものでした(その期待はきれいに裏切られるわけですが)。また、学園ストーリー漫画として登場人物たちがちゃんと成長し・卒業とともにこの空間が終わってしまうことを初めて実感したのもこの作品であり、雑誌で最終回へ向かう数話を読む頃にはもう寂しくてたまりませんでした。

 作品の内容についてもっと詳しく語りたいところなのですが、あの当時から現在に至るまで、ぼくは感想めいた文章を一度も満足に書けずにいます。その理由の一つは、ぼくが何を書こうとも、元作品の描写の美しさや楽しさや統一性にまったく及ばないからです。もちろんファンの未熟な文章とプロの作品を比較すること自体がおこがましいのですけれど、語りたいことはすでに作品の中にこれ以上もなく描き出されていて、そこに何もつけくわえることがない、というのがぼくの率直な思いでした。それくらいこの作品はひとつの物語とそれを包む世界とをぼくの前に提示してくれていて、寝るときに単行本を1、2冊、布団の中に持ち込んではページをめくり、晴ボンたちの賑やかな日々を何十回となく読み返していたのです。

 

 そんなぼくにも、『すくらっぷ・ブック』についてもっと深く味わいたいという欲求がなかったわけではありません。とはいえ同好の士を探すほどの行動力は生まれてこのかた持ちあわせていませんので、感想執筆や絵の模写などといったファンダムの王道にはさっぱり向かわずに、一人でコツコツ分析の真似事をする方向へと向かいました。

 それは例えば、全登場人物の各話ごとの登場コマ数を調べること。たしか1話で100以上のコマに描かれたのは、第1話の晴ボンだけのはずです。数え間違いがないように何度も何度もチェックして、ノートに一覧表を作成していました。ほかにも人間関係の構造変化図めいたものを試みてみたり、名言集を編んでみたり、ともかくデータ分析っぽいことを思いつくままにやってみていたわけです。そこで何が得られたかというと、実際のところほとんど何もなかったのですが、少なくとも手間暇かけた作業に没入しながら、自分がこの作品にどれだけ愛情を抱いているかを確認することはできたのだと思います。

 巧みな言葉で表現できないし、絵で描くこともできない自分の作品愛を、どうやって具体化すればいいのか。『すくらっぷ・ブック』は一人のファンである幼いぼくをこの問題に目覚めさせました。そしてこの問いに自分なりの答えを見つけることができたとき、ぼくは晴ボンたちの年齢どころか正木先生よりも上の年齢になってしまっていました。好きなゲーム作品への、叙情とネタを取りませた感想の書き方。シスプリ原作の妹たちの言葉に登場するハートマークや兄呼称を数え、そこから各妹の特質を発見すること。日常はいつか終りを迎えるからこそかけがえないこと。詩的にではなくあくまでも野暮な論考調で、登場人物の内面や相互関係についての描写をできるだけすくい取りながらその具体性のなかで作品の全体像を語り直し、自分の作品愛をさらに掘り下げていこうとする考察スタイル。現在のぼくの感受性から作品享受のありかた、そしてファンとしての表現方法に至るまで、『すくらっぷ・ブック』はそれら一切の源を与えてくれていたのです。

 他にも、例えば『究極超人あ~る』の連載途中で「この作品も、いつかは『すくらっぷ・ブック』のように最終回を迎えてしまうんだな」と寂しさを覚えましたし、『魔法先生ネギま!』の出席簿を見れば「ああ、『すくらっぷ・ブック』第3巻のあの2話の表紙だ」と連想しましたし、日常生活においても虹を見れば「ビフロストの橋」、霜が降りれば「フロストフラワー・ポエトリー」、雪解けの頃には「雪解雫の行進曲」、三角定規を見れば「気はおかしくてきなこもち」といった具合に、四季折々と学校の中で思い出すことが多々ありました。土砂などを運ぶときには「ふっぱっぱ ふっぱっぱ のーみそふっぱっぱー」とつい口ずさむわけですよ。

 さらに同時期に月刊少年チャンピオンで連載された『星のローカス』のおかげで、工業高専へのかっこいいイメージが強化されたほか、星座やギリシャ神話への興味を植え付けられたりもし。おかまにおわれてこんやもひとりなき。その後こじれた思春期を迎えたぼくは、週刊連載第2作『ぶるうピーター』の完結ののち、小山田作品を買い揃えることをやめました。学校生活の平凡さに慣れきったぼくにとって小山田作品の登場人物はすでに憧れの対象になりがたく、また彼らの感情表出がいかにも漫画的に強すぎるように思えていたのです。しかし今から見れば、知的に背伸びして大人に見られたいという思春期まっさかりのぼくは、まさに小山田作品で描かれていた若者たちの自意識とその不安をようやくわがものとして理解できるところまで接近していたのでしょう。だからこそぼくは作品を通して自らを省みることの恥ずかしさに耐えられなかったのかもしれません。

 

 ああ、いまこうやって綴っているこの文章ですら、おそらく小山田作品に込められた情感やその表現をぼくが学んだ結果と言えます。もちろん他のたくさんの表現者の方々からも多大な影響を受けてきたとはいえ、ぼくにとって『すくらっぷ・ブック』は自分の趣味人生を方向づけた、あるいはこういってよければ決定的に呪縛した、大恩ある作品だったのです。ファンとしては途中で離れてしまった以上、あの頃をあまり美化しすぎてもいけないのですけれど。それでも、心からそう思います。

 小山田いく先生、素晴らしい作品を読ませていただき、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

 

 なお、『すくらっぷ・ブック』連載時の週刊少年チャンピオンには、ぼくに多大な影響を及ぼしたもう2つの作品が掲載されていました。ひとつはとり・みきの初連載作品『るんるんカンパニー』で、小山田いくvsとり・みきの漫画内抗争は当時の名物でした。そしてもうひとつは内山亜紀『あんどろトリオ』。これら3作品からぼくは叙情性・コメディ・ロリコンをそれぞれ学びとったわけであり、その後の自分をみるにつけなんという運命的な出会いだったのかとあらためて衝撃を覚えます。

地味にコンテンツを作り続けることの幸せ

その他

 最近話題となっていたメディアクリエイターなるものについて。ウェブでコンテンツを作りたいとか、コンテンツが主役とかいう言葉を読むと、いったいどんなコンテンツを作ってくれるんだろう、と想像したくなります。コンテンツというのは、定義としては「意味あるまとまりを与えられた情報のかたまり」みたいなものだとして、では具体的にどういう意味をもちどういう中身のあるかたまりを作ってくれるのかな、と期待するわけです。一応は。

 

 そう感じるぼくも、サイトを立ち上げたときからずっと自前の(ただし商業作品ファンダムにおける二次産物としての)コンテンツの作成・発信に努めてきた、という自覚を持ってます。その具体的なかたちは、好きなアニメ作品などについてのSS・パロディなどの二次創作、ゲーム感想、そして作品考察など。今ではこの考察がぼくのサイトの主要コンテンツになってますけど、ホームページの並びが示すとおり考察は開設当初「その他」扱いだったんですよね。

 開設した頃といえば、サイトを開いたとお知らせする前にいくつかのゲーム感想を書き上げておき、閲覧者に日記以外の読み物も楽しんでいただけるように配慮した覚えがあります。うちに来るとこういうものが読めますよ、という自己紹介でもあり、「せっかくここに来ていただいたのだから、おもてなしをしなくては」という意識の表れでもありました。テキストサイト時代のあの雰囲気のなかで、うち独自の味をまずは一口試してもらい、それが気に入ったらまた足を運んでいただきたい、というわけです。(そういうある程度の分量のあるコンテンツをまとめようとすると、ブログなどでは文字数や形式の制約があって不便です。そこで、ぼくは今でもテキストサイト時代のままに、ページをそれぞれ切り出して書き綴っています。)

 それから間もなくアニメ版シスプリの考察を書き始めたところ、ありがたいことに多くの反響を頂戴できたため、その後のコンテンツ作成の方向性がだいたい決定することとなりました。とはいえ考察一辺倒でもなく、その考察作業中に得た作品の解釈視点や二次創作のヒントなどを活かしてパロディ(アニメシリーズ妄想)やSSをこしらえたりと、コンテンツ同士をつなげて広げていく楽しみにも目覚めました。

 

 いま「楽しみ」と書きましたが、最初のアニプリ考察以来、ぼくはずっと「好きな作品について考えぬくこと」や「それについてじっくり書くこと」を楽しんできています。誰かに褒めてもらうことやアクセスを集めることもそれぞれ喜べることですけれど、何よりもまずこのコンテンツ作成過程そのものを楽しいと感じられるおかげで、ぼくは(休み休みしながら)今まで続けてこれました。

 そして、この考察というコンテンツを書き始める前と後を比べてみると、ぼくはその対象作品や登場人物や彼らの関わりあいというものを、もっと好きになることができてます。作品世界とそこに生きる人々の姿をもっと深く理解できたように思えて、作品享受に奥行きが出てきますし、登場人物をいっそう愛しく感じられるのです。この、対象作品に対する理解や愛好の深化は、ぼくのコンテンツ作成における第1の目標となっています。この目標をぶれずに置いたおかげか、ぼくのコンテンツはあくまで元の作品に対する二次的な内容にすぎないにもかかわらず、いろんな閲覧者の方から価値創出的(作品の新たな側面を浮かび上がらせるという意味で)との評価をいただいてきました。ほんと、身に余る光栄。

 しかもこの理解の深化は、コンテンツを積み重ねていくとそのぶん応用可能性を持ち始めるのですね。例えば、アニプリ考察で得た解釈視点のいくつかは、ハルヒネギまなど別作品の考察のさいにずいぶん役立ちました。また、現在書き続けているガルパン考察では戦車道の女子教育的意義や後進育成といった観点を掲げてますが、これらは「学校教育なんだから戦車道も当然そのための価値をもつはずだし、先輩後輩間での伝統の継承があるはず」という常識的判断に基づいています。この、一見異常な作品内描写も真正面から向き合ってみると意外な面白さや合理性・作品内原則を発見できるというのは、アニメ版シスプリでさんざん経験したことでした。

 もっとも、これは反面として、ぼくの作品解釈視点がパターン化・固定化するという危うさも持っています。ある程度やむを得ないことですけれど、なるべくそれを避けるために、ぼくは作品内描写をしっかり観る・聴くように心がけてます。きれいに整ったわかりやすい図式に、作品を無理矢理はめこまないように。作品内描写の細部を大切に、と。

 

 こういう考察執筆の意欲は、閲覧者の方々からの反応にも大きく支えられています。褒められたり賛同の声をいただいたりすれば「ああ、こう考えるのはぼくだけではなかった」と安心しますし、批判の言葉を頂戴すれば「なるほど修正しよう」とか「これは検討に値する批判だから反論を加筆しよう」となりますし、こいつ馬鹿だwと言われれば「わーいそのとおりー」と小躍りします。

  ただ、以前も書きましたがとびぬけて嬉しい反応といえば、ぼくのコンテンツを契機にその対象作品をもう一度観てみよう・読んでみようとされる方や、初めてその作品に手を伸ばしてみようとされる方の存在です。いやー。ほんと幸せ。ぼく自身その作品のことが好きで好きでたまらずに二次コンテンツを作り出しているわけですよ。そんなぼくのコンテンツを媒介として、誰かが作品に興味を抱いたり、作品愛を深めなおしてくれたりする。間接的に、作品への恩返しができる。この嬉しさったらもうたまらんですね。脳内麻薬がどばどば漏れだす感じ。

 正直、この快楽を知ってしまったらもう他所様のコンテンツのパクリなんてする気になりません。あるいはコストパフォーマンスからすれば(パクリは論外として)、ぼくのような長文を綴ってごくわずかな新規ファンを獲得するよりも、簡潔で印象的な宣伝ひとつで多くのアクセスや新規ファンを得るほうが効率的なのでしょう。それはそれで意味がある。でも、ぼくは自分のやり方しかできないし、こっちのほうがやりがいがあって楽しい。

 要するに、ぼくは「ガルパンはいいぞ」の根拠を何万字もかけて説明するタイプの人間なのです。実際すでに10万字書いた。でもシスプリのときは90万字を越えてた(吐血)。そして自分のその不器用さ愚直さを作品と閲覧者に向けて用いていくことは、持ち主であるぼくにしかできないんですよね。結局のところ、ここにぼくのなけなしのクリエイター魂があるのかもしれません。

 

 自分の作品解釈力が深まること、その作品の素晴らしさにもっと気づけてもっと好きになれること、閲覧者の方々が作品に触れる機会となった結果その人達が作品をもっと好きになり、そのうえぼくの気づかない新たな作品の姿を教えてくれること。これをぼくは、作品を中心とする相互贈与の循環として捉えてますが、その循環にわずかでも寄与できることが、作品ファンにとってのぼくの至福のときなのです。絵を描く人、感動を呟く人、批評する人、二次創作する人、それぞれがそれぞれの得意なやり方で迸らせた作品愛のかたちをありがたく拝見しながら、ぼくは自分のスタイルで今後も(休み休み)続けていこうと思います。

ガルパン劇場版の感想

アニメ

 劇場版『ガールズ&パンツァー』を年末に観てきました。以下ネタバレです。

 

 あちこちで流行ってたように、とりあえず「ガルパンはいいぞ」と言える内容ではありました。いつもの賑やかで可憐な少女たち、そして画面狭しと活躍する戦車の勇姿。あっという間の2時間は、とても楽しく充実したものでした。
 しかし、ぼくが期待していたとおりの内容だったかというと、少々もにょります。もちろん期待以上の興奮を得られてもいますから、作品を否定するつもりは毛頭ないのですけど、それでもちょっと。ドーラの運用に隊員どんだけ要るのかとか、テーマパークという舞台を活かすとはいえ曲芸しすぎとか、そういうのはともかくとして。

 

 まずつまづいたのが、大洗女子の廃校問題を引っ張ったこと。これは、言われてみれば確かにテレビシリーズ最終話で取り消しと決まったわけではなかったのでして、なるほどこうきたか、と納得はできます。劇場版で描くほどの大問題として、そして他校の精鋭がわざわざ集結するためのフックとして、相応しいものでもあります。ドリームチーム結成に、思わず小さく歓声をあげてしまいました。
 ただしその一方で、「えーまたこの問題を蒸し返すの?」と感じてしまったことも事実。テレビシリーズ最終話で桃が流した涙を、踏みにじられたような気分。それでもいきなり崩れることなく懸命に背筋を伸ばす桃を観て、この子への思慕を新たにしたり、その信頼にちゃんと応えて手を打っていく杏の知略に、さすがは会長と畏怖の念を強めたりと、この展開ならではのポイントもたくさんあります。けれど、ぼくにはこの廃校問題よりももっと観たかった主題があり、微妙な気持ちになってしまったのです。
 劇場版の主題はもう一つあり、それは大会後の西住親子の姿。まほ・みほ姉妹の過去と現在、母娘のほぐれつつある関係などが、テレビシリーズの延長上で語られていました。これもまた間違いなく作品の軸であり、実際に見どころの多いものでしたが、姉妹について正面から描くのならそこにもう一人関わらせてくれてもいいのに、と隔靴掻痒の念を抱かざるをえません。

 

 つまりですね、エリカの描写がもったいなく感じたのですよ。彼女は確かに副隊長として未熟なのだとしても、あの決勝戦で彼女なりに何事かを学んだはずだとすれば、それをこの戦いで実地に試してみてもよかったのではないでしょうか。あるいは、みほのライバルとして向き合いたいのであれば、戦術・指揮の面では西住姉妹に従いつつも、二人の危機をケーニヒス・ティーガーで庇って倒れるくらいの見せ場や、劣勢のみほに「こんなところで負けるつもりなの? あなたを倒すのは私なんだから!」と叱咤するなどの副隊長らしさを示す場面を、与えられてもよかったのではないでしょうか。
 でも、自己犠牲の場面はノンナたちが、再戦を期する叱咤応援はアリサが、それぞれ担当しちゃってるんですよね……。それはそれで適役だとしても、エリカがあまりにもせつない。試合直前の作戦会議で、エリカの発言をまほにスルーされた後エリカがしょぼくれてるのを見て、ぼくは胸が痛みました。と同時に、これは試合中に発奮するための前フリなのだろうと想像もしたわけですよ。そしたら実際には、まほに盾となるよう指示されたことに喜び勇んで従うだけ。違うだろ。エリカはそれで満足するような副隊長じゃないだろ。

 

 そういう人物描写への違和感は、プラウダのメンバーについても抱きました。
 例えばカチューシャはお子様な面を強調されていましたが、それはそれで準決勝の敗戦後に彼女の背伸びしない素直な部分が出やすくなった証とも受け取れます(KV2の乗員たちが語っていたように)。しかし、カチューシャを守るためにノンナたちが身を挺して犠牲となっていったのであれば(そのさいノンナがカチューシャをここからの戦いに必要な人だと告げた以上なおさら)、その後にカチューシャが天才的な構想力を存分に活かす場面や、チームのために我を抑えて勝機をつかむ場面が、もう少し明確に欲しかったように思います。しかし、西住姉妹の才覚と被らないようにするためか、そのへんあまり強調されずに終わっており、やや肩透かしな印象。

 カチューシャにしろエリカにしろ、ぼくはテレビシリーズの大洗女子との戦いを経て彼女たちがどのように反省し思い悩みどのように成長を遂げようとするのか、その姿を様々に想像してきました。公式のドラマCDでもそのへんが描かれてもいましたし。とくにエリカは、黒森峰を離れたみほへの愛憎入り交じった屈託や、自分を認めてくれないまほへの焦りに満ちた思慕などを、かつてとはやや異なるかたちで抱いているはずで、そこを劇場版では何がしか描き出してくれるのではないか、と期待していたのです。
 しかし劇場版で西住姉妹が焦点化されたとき、そこにはエリカが関わる余地が直接には存在しなかったのです。ラストのツェッペリン内で会話するまほとエリカの姿には、いくぶん打ち解けた様子も見られはするのですが、ぼくはもっとこの目で、試合の中でそういうのを確認したかった。そして、あの決勝戦ではエリカはまほの元に間に合わなかったからこそ、この劇場版の試合では間に合ってほしかった。西住姉妹の以心伝心ぶりの凄まじさには魅入られたけど、愛里寿との対決で絶体絶命のとき間に割り込むのがあのボコじゃなくてエリカだったら、と思わずにはいられないのです。まぁあのボコはあれで愛里寿側のこだわりも分かるし面白かったわけですが。
 劇場版のスケールを確保しながら、大洗女子チーム内部と西住親子にそれぞれ傾斜をかけるという本作品の方向性は、そりゃ納得のいくものですし成功してると思います。ただ、ぼくは、大洗女子チームと西住姉妹の両方に対してエリカが関わる未来の余地は、それほど小さなものではないと信じるのです。そして、劇場版ではまほとみほの関係を姉妹の視点から描いていましたが、黒森峰での二人の姿もエリカ視点の想起で示してくれたら、姉妹間の情愛の深さも立体的に表現することになったんじゃないでしょうか。
 吉田玲子脚本なんだから、彼女たちの機微にもう少し深く切り込めたはず……と感じちゃうんですが、冒頭と後半の戦車道試合場面がメインとなってるのだとすると、時間的にもドラマ的にもそこまで複雑な仕掛けは盛り込めなかったんでしょうかね。ノンナたちの自己犠牲の場面は何となく勢いで突っ込まれてる気がして、ぼくはふと劇場版『ストライクウィッチーズ』で芳佳の魔力が復活する光景を思い出しました。もしかして、試合シーンでは軍事系スタッフがノリで台詞を決めてる? とさえ感じたり。

 

 なお補足しておくと、ノンナにとってあそこで身を挺した理由は明白です。カチューシャを生き残らせることが試合の鍵になると確信していたことに加えて、ノンナがいなくなってしまった後でもカチューシャが隊長としての務めを果たせるように、その練習を(試合を利用して)行っているわけです。

 これはたんに戦車道の試合だけの話ではなく、卒業後をも見通してのことではないか。つまり、ノンナが3年生でカチューシャが2年生とすれば、ノンナ卒業後のカチューシャを想定しての予行演習ということになります。そしてこのとき、カチューシャはノンナ卒業後のチーム指揮について自覚的に準備していくことになるとともに、ノンナがいなくなっちゃうことに気づくことで、卒業までの残り半年の学園生活でノンナにいっそう甘えてしまいやすくなることにもなります。隊長・副隊長としてはより距離を保つようになるからこそ、チームの外では今まで以上につい甘えてしまうもの。そこまで見通してのノンナの策略だったとすれば、しかもクラーラの自発的犠牲という偶然の機会にとっさの判断をしたのだとすれば、まさに恐るべしであります。

 

 ああいっそのこと、みほまほエリカの三人を中心に据えた劇場版が観たかった。みほとエリカがそれぞれ選抜チームの一員として対決するという展開。他校メンバーはどちらかのチームに属するわけで、つまり実際の劇場版冒頭でやってた試合に近い形式なのですが、みほに対抗し得ないと自覚したエリカが他校隊長たちに教えを請うとか、そこで島田流と出会うとか、そうしてまほを追いかけながらまほとは少し違う自分の戦車道を見つけていき、そうしてみほと肩を並べるようになっていくという、そういうの観たかった。ついでながら、西隊長率いる知波単がサンダースと対決するという硫黄島的シチュエーションもあり得たかもしれず。

 あるいは、大洗女子じゃなくて黒森峰の戦車道チームが解散の危機に陥り、他校が助っ人に来るという展開。この場合、たとえ方便とはいえみほが黒森峰に一時転校できるのか、あの制服を再び着用できるのか、という葛藤が生まれます。みほ自身にもためらいがあるだろうし、エリカが簡単には許さんだろうし。その壁をどう乗り越えるのかを、試合を通じてのみほ・エリカの相互支援によって描き出すとか。
 まぁ今回の劇場版に求められる派手さやオールスター感からすれば、それらのアイディアではちょっと物足りなくなるんでしょうけれど。そんなわけで、OVAか劇場版の次回作を激しく希望です。