『りゅうおうのおしごと!』第2巻メモ

 というわけで第1巻メモに引き続き、第2巻メモです。こちらで書いた感想に盛り込んだ分は、今回繰り返しません。

 

 p.9 「隣にちょこんと座って」、あいは八一とぴったりくっついてても詰将棋に集中できる。天衣はそうではない可能性大(p.155)。

 

 p.19 「何故か俺が彼氏と間違われて」、銀子がそう見えるようにストーカー等に対して振る舞っていた可能性。連盟内投票も参照(p.48)。

 

 p.25 「鬼沢談」、SM小説家・団鬼六(故人)。愛棋家としても有名で、若き日の行方八段など活きのいい若手の面倒をよくみていた。

 

 p.40 「思わずスマホを取り落とした」、ニコ生将棋タイトル戦中継にはよくゲスト棋士からの生電話がかかってきたりするが、解説役として出演していた羽生がスマホに何気なく出たら、相手が谷川会長(当時)だったため珍しく驚きを顕わにして慌てたことがある。

 

 p.42 「今の将棋界では師匠が弟子に直接稽古をつけることも一般的になっている」、森下九段が入門時の70年代末に師匠の故・花村九段にものすごい数の指導対局をしてもらった、というあたりが将棋雑誌などで知るかぎり最初期の事例。

 

 p.44 「将棋を指す」、より正確には「(八一と)将棋を指す」。

 

 p.47 「裏番長」、女流であだ名が番長といえば香川愛生女流三段だが、タイトル獲得実績もある現役。引退者では姉御肌の鹿野圭生女流二段などを思い出すが、会長の秘書などではないし趣がだいぶ違う。

 

 p.50 月光会長の元は明らかに谷川浩司九段(十七世名人資格保持者)、ただし盲目の棋士ではない。「光速流」の名で知られ、終盤の寄せの速度を革命的に進歩させて羽生世代にも多大な影響を及ぼした。矢倉はもちろんだが、何といっても「伝家の宝刀」角換わり腰掛け銀の名手。羽生との竜王戦での7七桂は伝説。p.239のタイトル履歴など完全に谷川。なお、盲目の棋士という設定は故・西本馨七段か(『将棋ペンクラブログ』の記事参照)。

 

 p.52 「護摩行」、久保王将の慣習。

 

 p.55 「双子の弟です」、将棋界には畠山成幸八段・畠山鎮七段という双子の棋士がおり、しかも三段リーグを揃って突破し同時に四段昇段したという。

 

 p.56  「陣太鼓」、あまりにも有名な陣屋事件については『将棋ペンクラブログ』のこちらの転載記事。またのこちらの対談記事も。

 

 p.67 「受け師」、柴田ヨクサルハチワンダイバー』のヒロイン・そよのあだ名「アキバの受け師」。その影響で木村一基九段が「千駄ヶ谷の受け師」と呼ばれる。近代将棋界最強の受け師といえば、故・大山十五世名人。

 

 p.74 「反社会的勢力と繋がりがあるわけがない」、米長会長時代の後半は怪しい雰囲気だった……。『将棋世界』で羽生がペテン師まがいと対談させられたり……。

 

 p.76 「姉弟子本来の美しさ」、八一も銀子のそういうとこは第1巻と同じく素直に評価してる。

 

 p.77 「持ち時間を二分しか使わず」、タイトル戦ではないが大平武洋六段は対局日に開催されていたZONE解散コンサートに行きたいがために持ち時間1分のみの消費で対局し勝利しコンサートにも間に合った。

 

 p.79 「研究勝負」、例えば名人戦でも、最新研究を知っていた森内が、まだ知らずにいた羽生を一方的に打ち負かしたことがある。また、故・米長九段が7度目の挑戦で中原十六世名人から名人を奪取したとき、本来終盤型だった米長が森下ら当時の気鋭の若手棋士達にお願いして研究会を開き、そこで磨いた最新の序盤戦術を武器に中原を圧倒し4連勝した。

 

 p.83 「駒に歯形」、幼い頃の谷川九段が兄に将棋で負けたとき、悔しさのあまり噛んだ駒には今なお歯形が残っているとかないとか。

 

 p.85 「銀子ちゃんがその子達を潰して回った」、銀子……あんたそんな頃から不器用な愛情表現を……。一方、これが初めて通用しなかったのが、あい。「女の敵はね。いつも女なのよ」(p.87)

 

 p.107 「もう誰も、おまえに勝てなくなる」、あいの「だれがいちばんですか?」(p.242)八一の「俺が一番大事に思っているのは、あいだから」(p.186)天衣の「誰が一番なの?」(p.282)などと対照すること。

 

 p.123 「『剃髪の一局』」、中原名人に森けい二九段(当時八段)が挑戦したときの第1局でのエピソード。

 

 p.128 「和服の襟を何度も整える」のは誰か知らないけど、「空咳が止まらなくなったりする」のは加藤一二三九段か佐藤康光九段か。

 

 p.128 「ありますよ」、盤上没我だったはずのあいは、八一の挙動不審に注意を集中しているうちに、対局中の対人観察能力までも向上させている。しかしこれは表裏一体のものとして、対局中に盤上のみならず対局相手(と自分との関係)まで考えてしまうという、不純さを獲得することでもある。その現れは、八一にとって自分が二番目なのかという不安から師匠のくれた扇子を握りしめながら(p.198)、天衣を「師匠が贔屓してるんだから勝てない」(p.230)と感じてしまうという姿。

 

 p.139 「雑誌に書い……噂で聞くし。」、銀子……年頃の乙女として甘味に興味あるだけでなく、こないだUSJに行けなかったことをひとり感想戦して遠くの娯楽施設に行くのはハードル高いので近辺のスイーツ処で日常デートはどうかと新たな銀子システム構築を試みたものの自分から言い出せる機会がなかったところで他ならぬ八一からまさかのお誘いが、と思いきや頓死しろ八一。

 

 p.141 清滝九段のプロフィール、関西棋士でこの性格でこの棋歴って誰なんだろ。タイトル獲得してないものの、A級8期のうち名人挑戦2回というのは結構すごい。しかも八一たちが弟子入りしてからの挑戦(「そこから頑張って」p.175)なので、40歳を過ぎてからということになる。なんとなくもう一花咲かせる気配あるけど、後の巻で竜王挑戦で師弟対決という展開はあるのか、それともあの「神」こと現名人が立ちふさがるのか。

 

 p.144 「お漏らしです。」、うむ。

 

 p.145 「また週刊●潮にあること無いこと」、●春もね。ちなみにこれを理由として両誌とも一生買わない。

 

 p.153 「うちの弟子と被る」、本当は天衣のほうがずっと前から八一の弟子になろうとしてきたのに、亡き父も2、3年前までそう言っていたのに(p.270)、なぜ後から弟子入りを志したあいのほうが「うちの弟子」と呼ばれ、自分が「被る」と言われてしまうのだろう。敵。よって潰す。

 

 p.161 「あなたも『あい』っていう名前なのね」、あなた「も」。まず天衣「が」、次にあい「も」。最初の弟子があいだという話を八一から聞いたばかりなのに、自分とあいの序列をたった一文字で無意味にしてしまう恐ろしい子。しかも、あいがこれに反発してあくまで順番にこだわるだろうと予測したうえで、続く「最初のあいちゃんに飽きちゃったのかな」でそっちの道も瞬時に閉ざすという、「敵の指したい手を事前に殺す勝負勘」(p.67)。

 

 p.165 「いえ出します」、「家」は小2で習う教育漢字だけど、あいが漢字苦手というよりも、ショックの凄まじさゆえ画数の多い漢字を書く余裕がなかったのでは、と推測。

 

 p.171 「序盤早々から飛車と角を交換する珍しい形」、まったく違うだろうけど2014年の第72期名人戦第1局を思い出す。あれほんと凄すぎて面白かった。

 

 p.176 「一緒に強くなれる相手」、師匠は銀子の才能の限界を察知しつつも、八一の才能を開花させたのが銀子である(そして銀子もまた八一によって)ということを理解している。

 

 p.181 「体育座り」、和服で頭を膝の間に埋める姿は記憶にないけど、渡辺棋王順位戦C級1組の最終局で敗れたとき、昇級絶望と思って体育座りして頭伏せてた写真があったような(ただし競争相手も敗れたため昇級できた)。タイトル戦だと竜王戦王位戦での挑戦者木村九段だろうか。

 

 p.188 「ところで姉弟子」、おーまーえーなー。あー。もー。うがー。

 

 p.189 晶の「好物」、よく読んだらやばない?

 

 p.195 「師匠なんてどうせ書類上」、そうね心の本籍は八一のとこだもんね。

 

 p199 「しがみついてきたり」、これ銀子だからたぶん演技ではないですね。

 

 p.202 「ならば次は」、このときの久留野の判断ってけっこう影響でかそう。

 

 p.209 「全く異なる思想」、例えば糸谷八段の著書『現代将棋の思想  ~一手損角換わり編~』(マイナビ将棋BOOKS 2013)第1章での説明を参照。

 

 p.229 「大粒の涙」、いつぞやの小学生名人戦準決勝で敗れた少年が、森内名人から詰み手順があったことを指摘された瞬間に「あっ!」と声をあげてぼろぼろ泣き始めた、という場面を思い出す。

 

 p.231 「もっと、強くなりたい」、この小説刊行後のつい最近に藤井六段がこの言葉を語り、中村太地王座も衝撃とともに初心に返れたなどの逸話あり。

 

 p.235 「仲直りの約束は、いつだって将棋だ」、八一と銀子もずっとそうだったはずで、その実感もこもっている。

 

 p.238 「白いドレス」、いやーんそれもうウェディングドレスじゃーん。と最初思ったけど、「お嬢様の洋服の匂い」好き(p.189)な晶としてはたんにお気に入りの匂いのする白いドレスを念頭に置いてるだけかもしれぬ。

 

 p.240 「えへー♡」 か わ い い。

 

 p.245 「小学生は」バスケがしたいです。

 

 p.246 「帝位リーグ」、おそらく元ネタは王位戦本戦リーグなので持ち時間それぞれ4時間。作品中では昼食休憩場面は省略されている。なおタイトル戦でもないのに棋士が和服を着てくることはあり、故・米長九段の引退直前の王将リーグでは佐藤康光九段たちが敬意を表して和服を着用し(最初スーツ姿だった米長もそれに応えて、午後開始までに和服を取り寄せて着替えたとか何とか)、また田丸九段が順位戦B級2組最終局で相手の昇級を阻止するため気合いを入れて和服で臨んだ(そして勝利して米長哲学を全うした)とか、いろいろ。

 

 p261 「5八金と受けていたら」、「3一角」で王手できる(しかも同玉で取れるので2二にいる)玉を、ずっと離れた場所にいる5八金で(詰めろ逃れの)「詰めろ」にできるということは、2二から4七あたりまで追って詰ませる順を、会長は指しながら読んでいたことになる。しかも、終局直後の疲弊しきった頭でありながら、八一はそれを聞いて「一瞬で評価を下し」て「……あっ!?」と叫んでいる。つまり瞬時に読めている。この恐るべき力こそ、銀子がまだ届かない高み。

 

 p.265 「欲しいものは全て、将棋で勝つ事でしか手に入らない世界で生きているから。」、はいこの文章を銀子の声で想像しましょう。

 

 p.266 「初めて経験した記録係」、奨励会6級で名人の(たとえアマ名人との記念対局だとしても)記録係を仰せつかったというのは、清滝九段から話を聞いていた月光名人の配慮によるものだろうか。

 

 とりあえず以上です。

『りゅうおうのおしごと!』第2巻感想と「感想戦」感想

 白鳥士郎りゅうおうのおしごと!』(GA文庫)第2巻の感想、と「感想戦」の感想です。以下ネタバレ。

 

 第1巻感想の末尾で、あいが対局時に盤面しか見つめていないことを指摘しましたが、まさしくその点でも対照的なライバルが登場しました。天衣。読み方はあいと同じ。これ第3巻から、どうやって呼び方に区別をつけるんでしょうか主人公。そこでひと騒動あるんですかね。

 

 天衣は性格や対人技能にくわえて勝負術、棋風などでもあいと好対照ですが、それと同時に、あいと銀子の間に位置づく存在でもあります。

 あいの側の、可愛い女子小学生・稀に見る棋才・可能性と表裏一体の未熟さ・やきもちやきなど。

 銀子の側の、人を遠ざけつつも人を見る能力・自分に将棋しかないことの自覚・大切な人から認めてもらえないことへの極度の恐れ・それゆえの力への依拠など。

 あいが銀子に挑むには、研修会員と女流タイトルホルダーにして奨励会二段の間にとてつもなく大きな溝があるがゆえに、だいぶ先の話になるのかなーと思っていたのですが。ここで身近な、しかもあらゆる面で対照的な天衣がいるおかげで、それより手前の段階での勝負(とそれを通じた成長)が可能となりました。物語を適度な緩急で進めるうえで、これはなるほどな展開です。

 

 そしてまた、天衣が銀子の役割の一部を引き受けることによって、銀子自身の物語はますます遅延可能となりました。

 銀子は八一より2週間早く弟子入りし、研修会に入って女流棋士として11歳でタイトル戦に登場してますが、この第2巻で明らかにされたとおり、奨励会に入ったのは八一が奨励会が入会した翌年(p.37)。これを八一は「姉弟子の才能ならプロ棋士になれると師匠が判断したからだと思ってた」わけですが、その師匠はというと「女流棋士ならかなりのところまで行くと思った。生意気で、根性があったでな」(p.172)。つまり、師匠は八一の棋才を手放しで認めている一方、銀子にはあくまで「根性」についての評価であり、とうてい八一と並ぶ可能性を見出していません。たぶん、奨励会の二段として戦っている銀子自身にも、そのことは分かっています。しかし、分かってはいるが分かるわけにはいかん(島本和彦無謀キャプテン』)。八一と「同じ土俵で戦いたい」「ただそれだけのために」(p.37)、銀子は根性で女流棋士奨励会を掛け持ち続けます。

 ところが、その片側の女流タイトル戦が、すんごいぬるい。第1局など情報戦のレベルで片付いてしまう。銀子はたしかに八一の想像通り「欲求不満」(p.81)でとんぼ帰りしたのかもだけど、不満とともに、こんな対局やってて八一に追いつけるのかという不安をも抱いたのではないでしょうか。だから真っ先に八一の部屋に飛び込んだ。なのにそこにいたのはあい。邪魔の限り。なで斬り。

 八一が見る銀子は(過去の記憶も加味して)すんごい強いし、実際それだけの力を持っているのでしょうが、しかし客観的に見れば奨励会二段にすぎません。このあと三段に上がり、三段リーグの上位2人に入れて、初めてプロ四段として八一と対等な立場で対局できます。もっとも女流枠ですでに竜王戦予選6組などに出場してるんでしょうけれど、それは本意ではない。あの頃と同じように、八一と対局し、八一が自分だけに向き合ってくれるようになるためには、もうプロ棋士になるほかないのです。もともと銀子自身がそれを目指していたのでもあり、それが二人の夢なのでもあり。

 その道のりを描く作品内の時間的余裕は、第1巻の時点で相当に長く確保されていました。奨励会は20歳までに初段にならないと退会しなければなりませんが、初段に上がったなら(降段さえしなければ)25歳あたりまで留まれます。四段になるのか、それとも強制退会となるのかは、銀子の場合あと10年以上も先まで不確定であり得るのです。しかし、物語の展開を考えると、あいがすくすく育っていく一方で、その最後の(八一を除けばですが)戦いの相手となるはずの銀子もまた、どのような道を進むのかをある程度描かざるを得ないのではないか。その道行きがあいの先を進みながらも、あいと対照をなしていくことになるのではないか。ぼくはそう想像していたのです。

 しかし、第2巻で天衣が登場したことで、あいの道行きには豊かなふくらみが生まれた(そして天衣もまた同じ)と同時に、銀子の道行きはそれほど重要な意味を持たなくなる可能性が生まれました。銀子の要素を天衣もだいぶ共有してますので、あい・天衣を軸に物語が進んでかまわないわけですよ。これは、銀子にだいぶ肩入れしているぼくとしては、あくまで予測にすぎないにせよ、だいぶ痛手でありました。

 とはいえ、天衣とあいのやりとりを通して八一が銀子を再発見することも、けっして想像できないわけではなく。とくに天衣vs銀子というのはなかなかの血戦になりそうですので、そこでどんなことが起きてしまうのかはこれからの楽しみとなりそうです。

 

 と、思っていたんですけどね。

 

 第2巻末には、作者あとがきに続いて「感想戦」と題する短編が掲載されています。第1巻と同じく女流棋士のトップ達と八一の一幕、今回はタイトル戦で鎧袖一触された月夜見坂燎のその後の姿も描かれました。

 供御飯万智の運転する車で夜のドライブ、そこでの話の流れで将棋盤に星が打たれているかないかの議論から勢い女流二人の賭けとなり、銀子に電話確認させられる八一。銀子の返事を伝えたところ、タイトル戦の怒りもあって「銀子の時代も終わったな!」と叫ぶ月夜見坂。じつにテンポいい収束でした、さすがは先崎学九段

 

 

 この「感想戦」後半で描かれた星のある・ない論争の顛末は、『将棋ペンクラブログ』のこちらに部分転載されていますとおり、1998年の『将棋世界』で先崎六段(当時)の連載記事に書かれていた文章に、酷似しています。

 これは、第1巻でも第2巻でも多用されている将棋界ネタのパロディや翻案とは、ちょっと、いやだいぶ意味合いが異なります。実際に文章を比べてみてください。

 棋士女流棋士)同士がある・ないで議論し、それがだんだん加熱する。あると主張する側が、むやみな賭けを提案する。同席していた主人公が、すでに寝ている第三者のすごく強い若手に電話させられ、適当な態度であるんじゃないのと返事される。そのことを報告すると、ないと主張していた側がその若手の「時代」が「終わった」と断言する。そして筆者は読者に対して、ご自分で確かめていただきたい、と一言添える。

 もう、表現も組み立てもまんまですよね。というのが、ぼくの判断です。

 

 例えば第1巻で米長放尿事件をネタに用いたときは、敗北の衝撃を個性的かつ大迷惑に表現という事件の特徴をそのままにしつつも、師匠と弟子の初対局という独自の要素を取り入れることでまったく異なる意味づけができていましたし、台詞回しも独特の喜劇的なものでした。そういうのは全くアリです。元ネタを消化して作品の一部にちゃんと位置付けているわけですし、またそのことによって登場人物の人となりや人物同士の間柄が描かれているのですから。

 ところが、この「感想戦」後半ははっきり違う。現実のエピソードを、そしてそれをエッセイに仕立てた先崎九段の文章表現と組み立てを、ほぼそのまんま流用しているだけです。

 たしかに厳密に確認すれば、月夜見坂が売られたケンカを買うときの威勢のよさあたりは、作品独自の部分であり、登場人物の個性を描くことに寄与していると言えます。「銀子の時代も終わったな!」の一言も、中村修現九段・羽生現竜王の関係と月夜見坂・銀子の関係に違いがある以上、先崎エッセイでの台詞とは異なる意味合いを持ちえているのでしょう。しかし、ここで月夜見坂の人となりを凝縮して伝えるには、この台詞はあまりにも借り物すぎやしませんか。

 また、最後の「答えはぜひ、皆さまの目でご確認いただきたい。」の一文も、先行の「あるかないかは皆さんの盤で確かめて頂きたい。」とそっくりです。その直後に正解を言う・言わないの差がありますが、地の文章でここまで似ているというのは、プロの作家としてどうなんでしょう。つまりは表現と組み立ての両面で人真似の文章を、単行本に収録してるわけですよね。コピー将棋について作品中で言及してるけど、小説はかまわないんでしょうか。あとがきにも先崎エッセイへの言及ないし、これ第3巻以降で何か補足されてるんですかね。

 

 ここでぼくは、剽窃かどうかを客観的に判定したいわけではありません。できるわけでもないし。ただ、以上のようにぼくが感じ考えた結果として、これから本作品に対する態度をどうしたものか、ずいぶん悩みました。せっかく出会えた面白そうな作品なのに、もうその物語に浸ることはできなくなっています。これから登場する人物も含めて、彼らが語る言葉や地の文章で綴られる表現が、作者のもの(少なくとも、作品のために作者の工夫を相当に入れたもの)とは信じ切れないからです。そしてそのことは、ぼくが今後の道行きを固唾をのんで見守りたい銀子についても、当てはまってしまうのです。

 いやもう、ほんとつらい。『知らない。ついてるんじゃないの?』の台詞を読んだ瞬間、羽生じゃーん! と思ったわけですよ。もちろん寝ぼけているにせよ銀子は、八一が真夜中に女流棋士二人とドライブなぞに繰り出していることを聞いてしまったのですから、八一に答える前に『……』と無言のあれこれが生じています。たぶん月夜見坂も供御飯も、銀子の絶対許さないリストにあらためて加えられたことでしょう。でもね、元ネタをアレンジする度合いがそれでもまだずいぶんと小さいと感じるのです。そして銀子が『……頓死しろ』と言わなかったのは何故。この元ネタの流れに乗らないからですか。今後の巻でも銀子は借り物の台詞を借り物の組み立ての中で語らせられるんでしょうか。そんな銀子の姿は見たくない。

 ただし、もしかするとこの作者、素材(元ネタ)に最小限の手を入れて新たな味を引き出す、という手法を好むのかもしれません。ほとんど借り物だからこそ、少しの違いやほんの一言の挿入が大きな意味を持って現れる。例えば銀子の『……』もそういう最小限の手にあたるかもしれない。ぼくもパロディとしてはそういうの好きですし、よくやります。だけど、プロの作家による作品として受け止めようとするとき、ぼくはプロの技を別の方面で期待してしまいます。そして、この作者の文章はぼくにとってその期待から外れます。素材といっても、それはすでに先崎九段の手を尽くした料理ですからね。

 というわけで、ぼくという読者の勝手な結論として、次の第3巻までは読みます。次巻が「最も書きたかったテーマ」(p.290)だそうなので、そこまでは読むのが礼儀かと思ったもので。

『りゅうおうのおしごと!』第1巻メモ

 『りゅうおうのおしごと!』第1巻についての色々メモ。記憶で書いてる部分には誤りがあり得ます。実在棋士の段位・タイトルはこの文章執筆時点のものです。

 

(追記:いちばん大事なこと書き忘れてた。内弟子姉弟弟子といえば、故米長九段の家に住み込みで内弟子時代を過ごした林葉直子元女流五段・先崎学九段が有名。ただし銀子・八一と異なり、林葉が先崎より年長。林葉は女流タイトル計15期を誇る。)

 

 p.9 八一の昇段履歴、奨励会入会から四段まで6年1ヶ月。三段リーグ開始以降では相当早い。例えば渡辺棋王や菅井王位、中村王座も6年くらい。順位戦1期目は昇級できず。

 

 p.10 放尿、故米長九段が敗れたときの所業。弟子の先崎九段が師匠の後ろから胴体と愚息を支えざるをえなかった、みたいなことを先崎九段のエッセイで読んだような。

 

 p.12「若々しさを解き放」つ、谷川九段を紹介した新聞か雑誌の記事のキャプション。

 

 p.15 「将棋雑誌」、昔は『近代将棋』とか『将棋ジャーナル』とか『週刊将棋』とか……(涙)。

 

 p.16 「美しい少女」、これは八一による評価でもあると受けとってよさそう。ただしその外面的な美しさに八一が惑わされる時期は内弟子時代に滅んでる。

 

 p.17 「謎の雄叫び」、加藤九段が中原十六世名人から名人位を奪取する直前、相手玉の詰みを発見したときの奇声と伝えられるものと似てる。

 

(追記:p.17 「おおーっ!」「やった!」、NHK杯トーナメントで18歳の羽生五段(当時)が大山・加藤・谷川・中原と名人経験者4名を破って優勝したとき、その加藤戦で有名な5二銀を打った瞬間に解説の米長九段が叫んだ台詞、と似てる。つまりこの場面を現実の棋界ネタ元に置き換えると、放尿事件の当事者が放尿に喝采していることになる。)

 

 p.19 「タイトルくらい私も持ってるし」、八一からすれば姉弟子の保持数が自分より多いという劣位の痛感。しかし奨励会員の銀子からすれば、あくまでも女流タイトルだけど、という言外の留保があったものか。おそらく銀子は女流棋士界を見下しているわけではなく女流タイトルにも誇りを抱いているだろうが、両方に関わっていることによる揺れはあると予想。

 

 p.21 異名、それぞれ佐藤康光九段・田中寅彦九段・森けい二九段・中村修九段・山口恵梨子女流二段・長沼洋七段・所司和晴七段・故佐藤大五郎九段か。

 

 p.24 「えっ!?」、さすがの八一も動揺する模様。

 

 p.33 「なぜ姉弟子の希望が」、最初から入り浸る予定なので自分の気に入る部屋かどうかは大事だったということか。あるいは「ワンルーム」だと将棋を指す部屋にベッドも置かれるかもしれないなどの理由で2DKを選ばせたのか。

 

  p.37 「手が震えて」、羽生竜王の有名な癖。他の棋士も終盤はえずきが止まらないなどあり。

 

 p.65 「一人暮らしをするときの練習」、じつは二人暮らしの練習だったりしないか。手料理を食べさせようとするのは桂香を見習いつつの対抗意識か。なお致命的に料理下手なのは、あいが料理はもとより家事全般に長けている(p.59)のと好対照。

 

 p.75 『……八一に嫌われたかと思ったから』、八一は胸熱だがしかし銀子に「嫌われたかと思」うような心当たりがあるのだろうか。予想は2つ。まず、自分が八一のVSの相手としてふさわしくない程度の実力だと見なされてしまったのではないか。しかしその場合は「嫌われた」という表現はしっくりこないかもしれない。次に、前日の出来事が直接影響している可能性。これは、師匠の尿まみれズボンが二人の関係を壊すほどの凶器だったのでは、と銀子が想像しているという場合と、ズボンを我慢してでも持ち帰ってきちんとクリーニングしてくるという女子力を自分が持ち合わせていないという事実に八一がうんざりしたかもしれない、と銀子が懸念しているという場合がある。

 

 p.76 「カップ麺を食べても竜王の味」、橋本八段がA級昇級したときのツイッターポストのパロディ。

 

  p.77 「そうじゃなくて――」、に続く言葉は後に八一自身が気づくように「俺は俺の将棋を指す」ということが(タイトル保持者の責任に振り回されて)できずにいるためということだろう。ただし直前の「八一は弱くなんかないよ」という一言は、八一を励ますとともに、八一と競い合ってきた銀子自身への、まだ奨励会を抜け出せない焦燥感を押さえつけるための言葉でもあるかもしれない。

 

 p.82 「いつのまにそんな普及に熱心になったの?」、日頃(人見知りなのにp.212)イベントにかり出されつつ普及に努めている(p.109, 309)女流タイトル保持者としては、竜王なのにそんなにお呼びもかからず研究時間が確保できてる八一を羨ましく思いつつ、そんな気持ちを抱く自分を戒めていたかもしれない。あいへの対抗意識はさておき。

 もう一つ、「半分は事実」(p.76)としてもごまかしのために将棋を言い訳に用いたのは、銀子としては許せなかったのかもしれない。「将棋盤の前では」(p.83)。

 

 p.86 「ここまで感情を顕わにするのも珍しい」、銀子にとってそれほどまでにこの親密圏にあいが乱入してきたことが許せなかった、あるいはまた、あいが銀子の素の感情を向けられる相手になり得ることの示唆。

 

 p.87 「指を折ってカウント」、そういう所作は「よく見て」るのに肝心なところで朴念仁だよね八一くん。もっとも、指の動きは対局中でも相手の心中を察するために確認してるのかもしれない。姉弟子と学んできた「盤外戦術」の手がかり。

 

 p.88 「百折不撓」、木村一基九段の揮毫扇子だっけ。

 

 p.90 「姉弟子は気合いとか根性とか大好き」、重要な指摘。たぶん奨励会と女流棋戦を掛け持ちする決意の背後にも銀子自身のこれがある。「『空銀子を潰す会』」(p.193)などに立ち向かってきたという現実もある。というか重度の人見知りで家事も不得手な銀子には将棋しかないし、将棋で一緒に向き合ってきた八一しかいない。

 

 p.91 「二人で取り合っていたのだ」、最初のうちは銀子も本当に桂香を八一と「取り合っていた」のだろうが、いつの頃からか八一が「桂香さんをお嫁さんにしてあげる」と言うたびになぜ自分をお嫁さんにしないのかという嫉妬心で弟弟子を蹴ってたりしてなかったか。

 

 p.97 「プロ棋士女流棋士の違いもわかってない」、これ銀子からすると許しがたいよね。ただし、ここでの銀子はあいとまだ対局してない、つまり盤を挟んであいの本気を直に知る前の段階。

 

 p.101 「姉弟子の動機は『復讐』」、勝つまでは負けない根性の銀子の奨励会の戦績はいまいかほどだろうか。

 

 p.104 「効き手の側にだけ、皺が寄っていた」、これ後に八一が少女たちの恋愛方面での煩悶によるスカートの皺を将棋方面でのそれと誤解する展開? それとも「効き手」じゃない側に皺が寄る展開?

 

 p.106 「ソースで真っ黒」、銀子があい手製の金沢カレーを食べるときどうなるんだろう。

 

 p.107 銀子の女流棋界の情報だけなので、奨励会入会がいつなのかをあえて明記していない。

 

 p.117 「年下にはこれっぽっちも」、銀子は「姉」弟子であると同時に年下という絶妙なポジション。

 

 p.131 「貴族趣味」、佐藤天彦名人は貴族趣味だけどさすがにこうではない。

 

 p.133 「専用の空気清浄機」、窪田七段だろうか。

 

 p.135 「自分にとって」、有名な米長哲学。

 

 p.136以下 さすがに現在こんな会話は対局中やらないけど、昔の棋士はタイトル戦でも午前中などのんびり世間話していたそうで。

 

 p.141 「外へ食べに」、現在は禁止されちゃいましたね。

 

 p.152 「『神鍋? 強いよね』」、NHK杯トーナメントの対局前インタビューで佐藤紳哉七段が対局相手の豊島八段について語った迷台詞のパロディ。

 

 p.163 「俺の視線に気づく素振りすら見せず」、あいは盤面だけを見つめて八一の勝つ手順を探し続けてる。つまりあいはまだ盤外戦術を使える段階にないとも言えるし、八一の顔を見て応援するのではなくあくまで手順を探究するという将棋指しとしてのあいの素質を示しているとも言える。

 

 p.167 「(鵠)」、そうそう新聞の将棋欄にはこういう署名があるよね、と爆笑しました。

 

 p.172 「戦後のプロ公式戦で最長手数」、ついこないだの2月27日の竜王戦ランキング戦2組で牧野光則五段と中尾敏之五段が420手(持将棋)で記録更新しました。

 

 p.175 「いつも日が暮れるまで」、八一が銀子について語るとき、内弟子時代が長いから当然なんだけど、過去の回想が多い。それだけ二人の関係が深く八一に銀子が及ぼした影響が大きい一方、姉弟子の過去の姿にとらわれすぎて現在の銀子の変化を見逃しがちになる原因ともなっている。基本的に、八一は銀子と自分の関係を、これからもずっと変わらないものとして無自覚に信じている。しかし銀子は、棋士としても思春期の男女としても変わっていかざるをえない自分達に(揺れながら)向き合おうとする。この両者のずれが、すでに第1巻でも各所で描かれている。

 

 p.182 「終盤でひっくり返せば……」、この台詞を八一はどういうつもりで言ったの? 桂香のアドバイスに対するまぜっかえし程度のつもりか。さきほど記したように、八一は銀子との関係を弟子同士の確固たるものとして認識してるので、「女心」をそこまで深刻な・恋愛的なものとしては受け止めていなさそう。「姉弟子の事は俺が一番よくわかってる」(p.183)もそのへんの自信の表れであり、また将来の大きな過失をもたらすであろう錯覚。

 

 p.185 「本場の金沢カレー」、アニメ版で描かれた真っ黒なルーを見て、原作を読まない段階のぼくも「ゴーゴーカレー?」と呟きました。「麻薬でも」(p.192)は『庖丁人味平』のブラックカレーネタか。

 

 p.197 「かおってゅんだよー」、超かわいい。

 

 p.202 「師匠が横にいる事もあってか」、こういうのと同じような八一の誤解が銀子について大きな過失を生むはず。

 

 p.203 「澪ちゃんも綾乃ちゃんも楽しそうだね?」、日本将棋連盟モバイルCMの矢内女流五段「綾ちゃんも恵梨子ちゃんも楽しそうだね」より。タノシソウダネ。

 

 p.212 「根性鍛え直す」、銀子の焼き餅と対抗意識でもある。

 

 p.214 「USJに新しいアトラクションができたんだって」、銀子が八一を露骨に日曜デートに誘っている……! しかし八一は「リズムを取るために喋ってるだけ」と聞き流してしまっている。お互いの読みがまったく合わない。その理由は八一が「俺も姉弟子もそんな場所に行くくらいなら」と過去の自分達の傾向をもとに判断してるから。たしかに内弟子時代はそうだったかもしれないが、いまはなー。お前なー。もっとも、女流タイトル戦や奨励会や普及活動で大忙しのはずの姉弟子が「そんな」ことにかまけるはずもないだろう、と考えてしまうのは無理ないかもしれない。

 

 p.220 「全裸」、たしか王将戦でタイトル奪取した故米長九段が喜びのあまり全裸、弟子の先崎九段も命じられて一緒に裸踊り、みたいなエピソードがあったような。

 

 p.239 「絶対王者」、羽生竜王が20代の七冠独占前後の頃に将棋を「人間力」の勝負から純粋な論理ゲームへと解放した。もっとも羽生竜王の勝負術は以下略。

 

 p.243 「あの子にそんな面があったなんて……」、「強情な子」であることはたぶん両親とも分かっていた(明らかに母親似の性格だし)が、あくまでそれは家族の中だけのものと思っていたのかも。旅館のお客さん相手には、しつけられたとおり愛想良く振る舞ってきてたのだろうし。

 

(追記:p.244 「対局七つ道具」、窪田七段ですかね。)

 

p.254 「女性で奨励会入品」、里見香奈女流五冠(元奨励会三段)や西山朋佳奨励会三段、加藤桃子女王(現奨励会初段)と、ほんと増えましたよね。

 

(追記:p.266 「だから親しい友人も恋人も必要ない。」、そう思ってる八一こそが銀子にとっての、な? お前、な?)

 

(追記:どこかで「と断言」というフレーズを目にした覚えがあるけど見つからない。対局ネット中継の検討室コメントで「行方八段は誰々勝勢と断言」したのにそのあと逆転してしまったことに由来するネットジャーゴン。)

 

 とりあえず以上です。

『りゅうおうのおしごと!』第1巻感想

 白鳥士郎りゅうおうのおしごと!』(GA文庫)第1巻の感想です。以下ネタバレ。

 

 こないだアニメ版が終了した本作品ですが、ぼくは全話録画しておきながらも加齢による気力減退によりいっこうに再生せずにいました。それがつい先日、容量が限界に近づいてるので少し消化するかな、と重い腰を上げて第1話を視聴したところ、あいの入浴シーンが流れて何故みんなもっと早く教えてくれなかったんだ(いつものパターン)。するとネットご近所から原作をまず読んでみてはとのご助言をいただき、翌日には本屋の平棚に第1巻と第2巻が1冊ずつだけ残ってたのを購入。アニメ版視聴もいったん第2話までで止めて、そこに対応する原作第1巻を読むことにしました。
 もっとも、アニメ版第1話でひっかかったのはそういうシーンだけでなく、冒頭の竜王戦終局直前の場面であいが八一に水を飲ませてあげてるとき、コップを持っていない方の手でハンカチを八一の顎の下に添えてますでしょ。あとで原作を確認したらハンカチについての叙述はないのでアニメ版独自の描写なんですが、水差しではなくコップなので飲ませづらいため水が和服にこぼれないようにハンカチを添えるというこの細やかな心遣いが、少女の人となりを、あるいは(これもぼくは後に知ることですが)老舗の旅館の一人娘として教育されてきた過去の蓄積を、この一描写だけで伝えてくれたのですね。こういうこと丁寧に表現する作品は、わりと信頼できる。そういう勘が働いたことも後押しとなりました。

 

 さて原作第1巻。
 ぼくはほぼ四半世紀にわたって『将棋世界』を購読している、しかし自分で将棋を指すことはめったにないという、いわゆる“観る将”の典型です。棋力はないに等しいのですが、棋士女流棋士の戦いぶり、それにまつわるエピソード、勝負師としての生き様などにずっと惹かれてきています。将棋関係の書籍もたまに買いますし、NHK杯もネット中継も観戦してます。

 そういう人間がこの第1巻を読めば、各所にちりばめられた将棋界ネタにそりゃもうくすぐられるわけですよ。プロローグはさておき、敗れて放尿(米長永世棋聖の奇行)、カップ麺の味(橋本八段がA級昇級したときのツイッターポスト)、空気清浄機(窪田七段の儀式)など、将棋ファンが知る様々なエピソード。将棋盤の裏側の「血溜まり」(アニメ版で銀子が盤を裏返せと命令した瞬間に気づいて爆笑しました)。そういうくすぐりを入れながら、将棋界や棋士将棋会館などの説明と描写。タイトルを奪取することの、奪取してからのとてつもない重圧。自分には消化試合だが相手にとっては大切な対局こそ全力を尽くせという米長哲学。『将棋図巧』を解くということのとてつもない凄さ。といった現実の棋界に即した情報が、作品世界を裏付けていきます。

 

 その裏付けの最も根底にある、最も重たいものが、奨励会と研修会の描写。プロの棋士女流棋士になるための狭き門。
 年齢差のある教育的バディものってわりと好物なんですが、一方の主人公の八一はすでにプロの棋士であり、竜王という最高タイトルを手にしており、物語の開始時点で相当苦悩しているものの、棋士の中ではこの若さで棋史に名を刻んでいるトップ中のトップです。自身では無知ゆえの一発と謙遜してますが、勢いで一発入れられるだけでもう図抜けてる。名人位が実力制になって以来、将棋タイトルを獲得できた棋士は40人に満たないんですよ。これを多いとみる人もいるかもですが、大多数の棋士はタイトルに挑戦するまでに至らず、挑戦してもあと1勝が届かない。とくにこの20年ばかりは羽生世代の分厚い壁に阻まれて、上の世代も下の世代もずいぶん割を食ってきました。もっとも羽生世代の棋士達も羽生永世七冠のおかげで以下略。タイトル以外の棋戦優勝だって大変なことです。そういう世界でタイトルを、しかも竜王を、しかも中学生で棋士になった者が獲得したというのは、藤井六段以前の中学生棋士がみな名人か竜王になっていることもあり、さらなる将来が約束されたも同然なのです。
 だけど、そういう周囲の評価はともかく、八一自身はどん底にいる。それはもう作中でこれでもかと述べられているとおりで、その辛さをぼくも否定するものではありません。そして、その闇から抜け出せずにいる中で、あいが自分の言葉をきっかけに勇気をもって来てくれたことが、そしてひたむきに将棋に打ち込むその姿、師匠の勝利を信じて読みに没頭するその姿が、彼を立ち直らせていくこともまた素晴らしいことであり、読みながらおじさん泣いちゃった。
 ただ、やっぱり八一はそれよりも前に、深い闇のトンネルをくぐり抜けてきているのです。本人に自覚がないのか第1巻ではまだ不明ですが。おそらく彼は、奨励会を、三段リーグをすんなりと突破してきている。四段に昇段してプロの棋士となるための、半年に2人しか突破できない狭き門を、中学生のうちにまたぎ越している。それは現実の棋界でも、加藤・谷川・羽生・渡辺・藤井というわずか5名のとんでもない棋士達だけが成し得たことです(追記・最初は中原十六世名人も含めてましたが勘違いでした)。多くの棋士達が、これまで一番嬉しかったことは四段になれた時だったと答えています。三段リーグには絶対に戻りたくないと語る者もいます。素晴らしい才能がありながら、たった1勝の差でそこから抜け出せずに年齢制限で退会する若者が、毎年何人もいます。その残酷さはp.259に記されたとおりなのです、が、ここの描写にご注目ください。完全に叙述トリックですので。

 

 p.259の3行目の地の文章は、八一の独白です。「姉弟子」という表現からそれと分かります。そのまま6行目まで、この八一視点の叙述は続いています。
 しかし、奨励会員の台詞をはさんだ8行目、「観戦する奨励会員の囁きが聞こえた。」の一文は、じつは八一視点ではない第三者視点の可能性があります。少なくとも、ここでは「姉弟子」など彼固有の表現が用いられていませんよね。
 そこから続く9行目以降、このページ末尾までの叙述にも、八一自身の言葉と分かる箇所はひとつもありません。つまりこの9行目以降は、作者が棋界の常識として説明している文章なんです。
 ところが、ページをめくってp.260を見て下さい。銀子の無言の台詞を置いた直後の2行目です。ほら、「姉弟子」という文字が復活してるでしょ。
 この部分が、第1巻の肝です。
 p.259をするっと読むと、過酷な奨励会で自らも苦しんだ八一が、その過去を振り返りながら独白しているかのように理解できます。しかし、そうじゃないのです。「姉弟子」という文字を含まない9行目から最終行までは、作者による説明にすぎません。つまり、八一は、奨励会で苦労した記憶がないのです。そのことは、この観戦中であるp.267にはっきり彼の独白として表現されています。「正直、奨励会に入ったとき温いとさえ感じた。」そして事実、八一は「温い」奨励会を難なく突破し、中学生にして棋士となり、その実力どおりに若くしてタイトルを奪取したのです。(追記:p.259の後ろから3-2行目には「十年以上一緒に研鑽してきた」とありますが、p.9によると八一は6年で奨励会を駆け抜けてますね。これも根拠のひとつになります。)

 

 だから、この奨励会についての叙述は、八一に関わるものではありません。では誰にか。いま懸命に戦っているあいのためか。もちろん違います。それは、あいの対戦相手である銀子のためのものです。
 銀子についての描写を最初から確認していけば、まず彼女は八一を同じ内弟子として家族の一員のように思っていますし、おそらく最近になってからでしょうが一人の異性として意識しはじめています。それは、人見知りな彼女にとって甘えられる弟分であることから始まり、しだいに「嫌われた」くない存在として意識されてきているのでしょう(p.75)。それゆえに、八一にべたべたするあいの存在を疎ましく思い、苛立ちもするわけです。
 でも、そこにはさらに、将棋のプロを目指すものとしての屈折があります。かつて同じ尊敬する師匠のもとで内弟子を経験し、幼少期を一緒に生活してきた銀子と八一。しかし、いま奨励会を突破してプロとなっているのは八一だけです。姉弟子の銀子は、まだ二段(p.253)。三段リーグにさえ参加できていない。たとえ女流棋戦でタイトル2つを獲得していようとも、女流棋士に一度も敗れていないのだとしても、同じ釜の飯を食ったはずの姉弟の差は、途方もなく開いてしまっています。五万局もの戦いを重ね、「もう一人の俺」(p.267)とまで八一が認めるにもかかわらず、銀子はいつの間にか八一のずっと後方にいるのです。もはや、弟の背中も見えないくらいに。
 それでも銀子は、自分の精一杯の努力を続けてきました。女流棋戦に参加することは、自分の棋譜奨励会のライバル達に知られてしまうというリスクを伴います。でも銀子はあえて参加し、実績を出しています。ただし女流タイトル初獲得は2013年度(p.107)。八一の四段昇段は2015年度(p.9)。このとき銀子が奨励会のみに集中せず女流棋戦に参加したことを後悔した可能性はあるかもしれません。いや、そういう後悔を絶対に自分に許さない子という印象はありますけれど。そうやって胸を張って気弱さを封じ込めて生きているからこそ、ほかならぬ弟弟子には甘え放題ですよね。というか、八一だけにしかそんな面を一部たりとも曝け出せない。だけど/だからこそ、八一には、自分の将棋指しとしての弱さを見せてはならない。

 

「おしっこ漏らすくらい、将棋負けるのに比べたら何でもないでしょ?」
「だって将棋ってのは命のやり取りでしょ? 殺し合いでしょ? 殺し合いの最中におしっこが漏れるとか漏れないとか気にする余裕なんてある方がおかしいし」(p.23)

 

 この一連の台詞に八一は半分ヒきながら敬意を新たにしていますが、この銀子の台詞が奨励会二段でもがく彼女の本心とすれば、どうでしょうか。おしっこ漏らして四段になれるのなら喜んで失禁する、という段階すら通り越して、銀子はただひたすらに棋士になるため勝ちたいのです。
 だから八一とVSもする。それは内弟子時代からの習慣であるとともに、自分よりも先に行ってしまった八一から教わる貴重な機会でもあり、また遠く離れていきそうな八一を引き寄せる唯一の手段でもあります。不器用な彼女は、盤を挟んでしか八一と素のまま向き合えないのですから。盤を挟んでしか、VSを通じてでしか「棋は対話」を通じた全面受容関係の維持確認ができないのですから。そしてそこからはみ出てしまう想いや言い訳が、手料理という試みに具体化され、八一は鈍ちんなのでもうまったくもう。
 銀子にしてみれば、可愛い弟分がいつの間にか猛スピードで遠い先へ行ってしまい、自分だけ取り残された気分です。それを払拭するには、将棋の実力で追いすがるしかない。もしも銀子がそのことを諦めたのなら、奨励会を退会してたでしょう。でもそうじゃない。銀子は決して諦めない。諦めてしまったら、それはあの内弟子の日々を、八一と分かち合った日々を否定することにもなるからです。
 そして八一も、銀子のことを心底信じています。そのうち奨励会を突破して四段になるのだと、おそらく確信してる。そうでなければ、研修会の話などを姉弟子にするときにもう少し屈託があるはず。いや、もしかするとそこでの疑念を無自覚に封じ込めてるだけかもしれないけど、いずれにしても「史上最強」の姉弟子への信頼感は、女流タイトルや全勝という客観的事実だけでなく、銀子とのあの「五万局」の日々に裏打ちされています。姉弟子まだ中学生だし。俺と同じ年齢までに四段になるでしょ当然。みたいな感じかもしれません。だから先ほどの奨励会についての叙述でも、八一は奨励会員としての銀子について一言も語りません。語る必要ないから。それほどお互いを認め合えばこそ、なのです。銀子だってそれに一日でも早く応えたい。

 

 ああ、なのに。それなのに八一は、どこぞの小童を下宿に引き入れ、あまつさえ弟子として受け入れてしまうとは……。
 もうこれについては言葉を費やす必要はないでしょう。銀子にとってあいは二重三重に敵対すべき相手です。と同時に、将棋という同じ夢を見てしまった者同士の共感も抱いています。連帯感をもちながらお互いを蹴落とすという奨励会員のありようがここに見出せるわけですが、まだ銀子とあいは同じ土俵にはいません。あいは研修会、つまり女流棋士になる方の道をいまは選ぼうとしています。それはたしかに、勝ち上がることで銀子の持つタイトルに挑むことになりはするのですが、真の対決は銀子の本筋で行われるのではないでしょうか。それは、あいが八一の後を追いかけて奨励会に入り、女流棋士ではなく棋士を目指そうとすることで、現実のものとなります。そしてこの対決は、半年にたった2人だけの四段昇段をめぐる、八一と向かい合うたった1つだけの場所をめぐる、壮絶な戦いとなるはずです。
 とはいえ、そんな先の想像をめぐらすのはだいぶ手順前後な気もします。最初にスルーしたプロローグをもう一度読んでみましょう。完全ギャグなやりとりですが、あいは(八一との初対局以来そうですが)八一の表情を読みながら自分の指し手を考えてはいません。あくまでも盤面没我、局面だけに意識を集中してひたすら読み耽り、論理ゲームとしての将棋に専念しています。ということは、八一が歩夢戦で解説していたような盤外戦術を自分でも使ってみるまでにはまだ至らないということです(あの表面的えっち台詞もそういう技術とは無関係でしょう)。盤を挟んでも八一の顔を見ることはない。銀子との差はおそらくそこにもあるでしょう。そしてやがて手を読み、顔を読み、心を読み始めるとき、あいは自分自身の心をも読み始めねばならないでしょう。そのとき銀子はどうするのか。どうなってるのか。今後の展開を、観る将として固唾をのんで見守りたいと思います。

べびプリ麗考察を9年近くぶりに公開しました

 昨24日の『Baby Princess』(べびプリ)10周年記念には間に合わなかったのですが。九女の麗に焦点を当てた考察「間に合わない妹、間に合う長男 ~きょうだい関係にみるべびプリの可能性~」を公開しました。

 このテキストは最近書き上げたものではなく、クインテッサさんと26さんのサークル緋燕白昼夢企画による2009年2月11日刊行の同人誌『うらプリ』に寄稿させていただいたものを、およそ9年近く経ったいま自サイトへの転載許可を得て公開するものです。

 『うらプリ』はその名のとおり麗メインの合同誌で中身がものすごく濃く、参加メンバー発表時にはその面子のすさまじさに当時のぼくはおののきつつも気合いを入れ直して執筆した覚えがあります。過去日記ではこのあたりに記されてますね、いやーほんと楽しく熱い冬でした……。声をかけていただけただけでも嬉しかったし……。

 こんな素晴らしい企画の末席に連ねていただき、クインテッサさん・26さんにはあらためて感謝申し上げますとともに、サークルのますますのご発展をお祈りいたします。なお冬コミC93では金曜東ヨ34bにて新刊ご予定とのことです、詳細は26さんのこちらのついーとをご覧下さい。

アニメ版シスプリ再放送で初心に帰る

 昨年末から今年の秋にかけて、『アニメ シスター・プリンセス』と『アニメ シスター・プリンセスRe Pure』が再放送されていまして。その期間ぼくは、これも昨年発売された両作品Blue-Rayソフトを放送時間にあわせて再生し、Twitterで視聴実況しておりました。いやー面白かった。シスプリ大好き。

 第1作(いわゆるアニプリ)の本放送といえば2001年の上半期、今から16年も前のことです。あの頃を知る方々、あの頃にファンサイトを開かれていた方々の実況感想も、拝見させていただきつつ。ぼくは当時のことを懐かしく思い出しながらも、しかしいくぶんかの屈託を抱きました。

 

 そもそもあの第1作の本放送、ぼくの当時の住居環境では直接視聴できなかったのです。友人に録画してもらったビデオテープで飛び飛びに観てはいましたが、DVDを購入して全話を視聴できたのは翌2002年の夏。つまり考察を書き始めたあとで、ぼくはアニプリをちゃんと知ったというわけです。リピュアも同じくテレビ視聴できなかったため、やはりビデオテープを送ってもらって週遅れでの鑑賞(いやほんと世話してもらってありがとう>某氏)。

 なので、これまでずっとぼくは、間に合っていないファンという意識を持ち続けてきました。シスプリにはまったのもアニメ版からなのでずいぶん遅れて参入したわけですが、それに加えてアニメ版についても、本放送を同じ時間に鑑賞しサイトや掲示板などで感想を伝え合うなどといった場の共有を、得られないままに来たのです。

 ところが今回の再放送では、ソフト同時再生によって疑似的にではありますが、他のファンの方々と同時に鑑賞することができました。Twitterを通じて同時に感想を述べ合うことができました。あのときできなかったことをこうして体験できたというのは、何というか、青春の忘れ物がいま届いたような気分でした。

 

 しかし反面この体験は、あの頃と自分がどれほど離れているかについても気づかされるものでした。まぁ加齢の影響はもちろんなんですが、作品鑑賞の点で。

 さっき記した遅参ファンという意識ですが、そう自覚する当時のぼくは先達の方々に敬意と気後れを抱いてきましたし、逆に新参者ならではの怖いもの知らずというか開き直りで、いろいろ思い付きのままに行動できたとも言えます。ぼくの一連のアニメ版シスプリ考察も、そういう勢いなしには完成しなかったでしょう。

 それらの考察を書くにあたって、ぼくはアニプリとリピュアの各話を何度も繰り返し視聴しながら、そこに込められているはずの意味をくまなく見出そうと努めました。それは、遅れて来たがゆえに先行解釈とは異なる独自のアニメ版シスプリ像を形作らなければならないというような、差異化ゲームとしての切迫感とは無縁だったと思います。ぼくの解釈は最初から珍奇な少数派でしたので、差異化を図るまでもなかったし。それよりも、自分が大好きな作品を自分の視点で丹念に見つめ続けていくうちに、様々な描写をたえず新たな意味をもつものとして再発見し、作品全体をもっと素晴らしいものとして把握でき、そうして自分の作品愛がいっそう深まっていく……そういう過程を毎回楽しんでいたように感じます。

 だから、あの頃アニメ版の各話を視聴することは、そのつど何かに気づくことでした。この作品にはまだまだ隠された何かがある。それらを見つければ、この兄妹たちをもっともっと好きになれるはず。そういう高揚した飢えのような好奇心が、当時のぼくを突き動かしていたのでしょう。プラトンの『饗宴』でも、ソクラテスが「愛」をそんなものとして論じていたように思います。

 

 ところが今回視聴実況したとき、ぼくはあの頃と同じ姿勢をとったつもりで画面に向かったつもりだったにもかかわらず、ぼくの実況に繰り返し登場していたのは、過去に自分が書いた考察の引用でした。作品を鑑賞しながらぼくの脳裏には、当時のぼくがたどり着いた解釈がたえず浮かび上がっていたのです。あるいは、考察での解釈というフィルター越しにしか作品を観ることができなくなっていた、と言いますか。

 もちろん、あれだけ真剣に積み重ねた考察がぼくのその後のアニメ鑑賞姿勢をおおよそ定めてもいますから、その内容を一切忘れて作品に向き合うことは不可能です。自分の考察内容をだいぶ忘れてるので読み返すと、よくこんな解釈思いつくなーと呆れつつ感心することもありましたし。しかしそれでも、ぼくが今回鑑賞したのは作品そのものではなく自分自身の作品解釈だったのではないか、という問いは、ここに留めておこうと思います。

 まぁ実際のところ、この機会に過去の考察をみなさんに読み返してもらいたいというスケベ根性があったことも、非常によろしくないわけでして。以前にも同じ罠にはまりましたが、こういうときに大切なのは、作品に誠実に向き合うこと。謙虚な挑戦者として作品に臨むこと。過去の考察時に気づけなかったことを、今回の視聴時にふと発見できたりもしましたから、またしばらく経って再鑑賞すればきっと新しい何かに出会えるはず。そうやって作品はぼくの前に、いつも・いつまでも開かれているのだと信じます。

ガルパン最終章第1話感想

 ようやく第1話を映画館で観てこれました。以下ネタバレ感想です。

 

 まず、45分にあれだけの新キャラを盛り込んで全員きっちり印象づけるあたり、さすがだと思いました。短い放映時間ながらじつに濃厚で、しかしだからこそもう少し長めの映画として鑑賞したかったというか。これ6話続けるんでしたっけ……? 今回なかなか暇がとれず、もう観に行けないかとあきらめかけてたほどなので、続編をこまめに追っかけていけるか心配でなりません。

 とはいえ、ぼくが相当に浮き足立ってわくわくしてることも事実です。これは。ずっと観たかったものが、最終章を通じてついに観られるのではないか。

 

 さて第1話の中身について。

 BC自由学園の戦力にびっくり。ええーARL44って……。ヴィシーと自由フランスの混成ということからM4シャーマンは装備してそうと予想してましたが、こうきたか。まぁ貴族やブルジョワのお嬢様が中高一貫で学んでるらしいので、財政的には恵まれているのでしょう。

 隊長・副隊長は明らかに美しく咲いている方々のアレですが、フランス革命ネタを用いて優香里の偵察行動を逆利用するという策略はお見事でした。カウンターインテリジェンスというんでしょうか、全国大会の対サンダース戦でみほが試合中に臨機応変に行った欺瞞情報発信を計画的に行ってるわけですね。これによる一気呵成な勝利が得られなかったため、次の手をどう用意しているかが楽しみです。

 相手の作戦に今回もみほはその場のアイディアで対応しましたけど、まさか追加戦車がMk.Ⅳだとは思いませんでした。でかいわりに装甲が薄すぎるのでは。ただ、新たなメンバーたちが海賊モチーフであり、この世界初の実用戦車シリーズでランドシップと呼ばれていたものもあったような記憶もあるのでそのへんも被せてたんですかね。塹壕を越えるための全長や形状をうまく用いての脱出劇、大会決勝戦のようにヘッツァーが犠牲になるなどせずに安心しました。

 この搭乗員であるサメさんチーム、あれだけの集中砲撃を浴びながら隊長をはじめ車外にためらいなく飛び降りてますよね。最初の登場場面で示した度胸が見せかけのものでないことや、それだけ桃への報恩の念が強いことなどを伺わせています。

 

 そう、今回の戦いの目的は、桃を立派に進学させること。

 いろいろいじられやすい彼女ですし、本人にもその原因が間違いなくあるのですが、しかし彼女が生徒会の一員として、学園生徒の一人として、大洗女子学園の存続のため全身全霊で頑張ってきたことは疑いようもありません。ウサギさんチームの1年生たちが劇場版冒頭のエキジビジョン試合で応援していたように、なんだかんだで尊敬され愛されてる先輩だと思います。

 その先輩が受験で失敗しそうというニュースを聞いて、すわ、と立ち上がる隊員一同。学園存亡とはレベルが異なりながら、これはこれでけっこう重大です。無理せず浪人すればいいんじゃないの、とも思いますけど、自分達の学園を守ってくれた、そしてこの戦車道チームという素晴らしい居場所を作ってくれた先輩の一人に、みんなの感謝の心をこめた恩返しをしたい。それは共に学び生活する者同士の誠意であり、先輩のおかげで後輩達が成長できた姿を示すことでもあります。

 はい、ぼくがわくわくしてる理由はもうお分かりですね。後継者育成。ぼくが聖グロ考察に始まる一連のテキストで扱ってきた主題が、このたび前面に描かれる気配が強いのです。しかもしかも、海外留学するまほに黒森峰チームを託されたエリカの不安な横顔が登場したことで、大洗女子だけを対象とするものでないことが分かります。やった……とうとうエリカの戦いが描かれる……。劇場版での不満を解消するときが来る……。

 もうね、ほんと嬉しい予感に小躍りしてるんですよ。しかも桃がどう成長するか(あるいは彼女の毅然たる本領を発揮するか)まで期待できそうですし。そして第6話で、またはディスクおまけ映像で、他校チーム3年生の卒業場面などが描かれた日にはあなた。ねえ。どうしますか。

 

 まぁ、勝手に期待して勝手に裏切られる可能性もあるわけですが。今はとにかく楽しみにしております。