『モディリアーニにお願い』感想

 購入して読んだのは昨年ですが、相澤いくえ『モディリアーニにお願い』(小学館 ビッグコミックス 現在2巻まで)がとてもよかったので感想。以下、長文ネタバレです。

 

 漫画家と編集者のあれこれがネットで何度目かの話題となっていたとき、その流れで作者ご本人のツイッターでの呟きや4コマ漫画を偶然拝見しまして。当時の担当編集者キリンさんたちとのやりとりがなんとも微笑ましく、しばらく日参してるうちにこういう方々が世に出された作品はどんなものか読んでみようかと思い立ち、近所の本屋に出かけたら単行本がない。それでも気に留めてたところ、ずいぶん経って既刊分をようやく購入できたという塩梅です。

 で、読んですぐはまる。

 作品の舞台は第1話のおそらく1年半前に震災があった東北の、偏差値的にはあまりよろしくない美大で、そこに通う三人の男子学生が主人公。被災の影は深く刻まれているけど、それで全てが包まれるというわけでもなく、つねに中心に据えられているのは彼らが創作すること=生きることにどのように向き合うのか、という問題です。

 

 千葉は考えるより行動しちゃうタイプに見えるけど、頭悪いなりに真面目に考えてます。小学生の時は図工でいつも褒められてて、そのまま努力もせずに画家になれるつもりでしたけど、大学に入ったら周囲の否定的反応からそうではないと気づきました(第1話)。もっとも大学入学後に初めてというわけでもなく、高校時代に幼馴染で同級生の藤本の情念に触れて、自分が「そこまでの温度」では頑張れていない、と親友を羨望したりもしています。そのときは(大学に行ったら、なれんのかなぁ…)と漠然とした期待を抱いてみるけど、でもいま負けたくないのに置いて行かれそうな焦燥感を抑えきれずにいました(第13話)。大学では壁画ゼミで出会った先輩や友人達に刺激を受けながら、不器用に貪欲に努力して突破口をぶち開いていきます。

 

 藤本は幼馴染の千葉に比べて内向的で、家庭の事情もありながら(第11話)、自分が西洋画の道を進んでいいのか、進めるだけの才能があるのか、とひたすら悩んでます。同じ道を志す彼女もできたのにこの野郎。でも、藤本はただただ好きな道を進みたいだけで、そのための力が自分にないではという不安とつねに向き合わざるを得なくて、しかもその不安は最も身近にいる千葉や本吉に対する劣等感によっていっそうかきたてられてしまう。しかもしかも、そんな劣等感を抱いてしまう自分や、同じ志を抱く友人知人達が評価されるたびに自分の至らなさを痛感してしまう自分、さらに彼らに妬み嫉みまで感じてしまう自分が、嫌で嫌でたまらない(第2話、第14話)。繊細で誠実で優しいからこそ陥るぐるぐる渦巻きにからめとられてもがくのが、この藤本です。そう、ちゃんともがく。創作はやめない。

 

 本吉はそんな同級生達から「才能がある」と羨望されるダブリの日本画生。自ら天才と公言するしそれだけの実績を誇るけど、彼の家族やかつての友人達は津波の犠牲となっています(第7話)。第2巻p.72の一番下のコマにいるのは、妹の凪さん(当時15歳)なんでしょうか。全てを消し去ってしまう力の前で、作品とはいったい何なんだろう。作品と自分のいったい何が残せるというのだろう。創作するという行為と自己存在の意味を呑み込んでしまうぽっかり開いた空虚の穴に、本吉はひきずりこまれかけます(第3話)。でも、と先生や仲間に支えられて、再び描き出す。どんなに巨大な穴が開いても、創作するし努力する。ところが、そうやって描くことで評価され、その評価が周囲の羨望や嫉妬を生み、どうせあの人は才能あるから、と周囲の者達が距離をとっていく(第10話)。被災による孤独と、その孤独を抱えてなお進むための創作によって立ち現れてしまう孤独。だけど千葉は、そして藤本は、そんな本吉から逃げずに、かといって境遇に同情もせず、負けずに並んで戦おうとするので、本吉は今日も圧倒的な実力を示しつつ笑って茶化して煽って感謝します。

 

 三者三様の悩みを抱えてもがいているんですが、その三人が美的創作という同じ道を進もうとするからこそ、互いに張り合いながら支え合うことができる。そばにいるから辛いこともあるけど、だからといってやめるわけにはいかないし、やめたくない。優れた作品とその作者しか食べていけない、名前が伝わらない美術の世界で、同じ星を目指しながら相争い、同じ星を目指すことで敬意を抱きあい贈与しあう主人公達。これ三人が例えば全員日本画ゼミとかだったらもっと逃げ場のない話になってたかもしれませんが、そこは異なる分野のおかげで適度な距離感を保ちつつ、それでも分かってしまう才能や実績の差に傷つく姿が、そこからまた一歩踏み出す姿とともに毎回突き刺さります。

 

 いや、突き刺さると言ってもぼくは画家でも美大出身者でもないわけですけれども。

 この作品を読むとき、ぼくは(好きな作品の前でいつもそうであるように)何も考えずその世界に浸ったうえで、少し間を置いてから2つの視点で振り返っているように感じます。

 1つは、創作者とその作品に向き合う自分として。つまり、創作者ならざる自分として。ぼくは好きな作品の考察などで「表現」こそしてますけど、「創作」をしてるつもりはありませんし、またその能力もないと自覚しています。何か新しい作品を自分の中から生み出したことがない。あくまでも元作品に対するファンとしての二次創作にすぎず、ぼくのコンテンツに面白いものがあるとすればそれは全て元作品がぼくに与えてくれたものです。そういう喜びをくれた作品とその創作者への感謝・敬意をいつも忘れないようにしたいし、そのぼくなりの表現が考察や二次創作というわけです。

 しかし逆にみれば、ぼくが何も感じない作品も世の中にはありまして。鑑賞しても、何も書く気にならない。しばらくすれば忘れてしまう。あるいは、これはぼくには合わない、とだけ記憶に残す。それは受容者・消費者としては当たり前の態度かもしれませんし、作品との相性は人それぞれと言うほかありません。でもこれ、創作する側からすると本当に残酷なことですよね。そんなものだと分かってはいても、誰かに届くかどうかは決定的な重さを持っている。どんなに心血を注ぎ込んだ作品であろうとも、誰にも届かずに世の中から忘れられてしまうことが、ある。それは、自分そのものを否定されることに等しい。ぼくは自分の好きな作品への否定や嘲笑が拡散するようなときに考察などで全力反撃するタイプのファンですが、そのときの激しい感情を思い出してみても、創作者ご当人はそれどころのレベルではないと想像できますから、その過酷さが突き刺さります。だからといって、ぼくが享受した全ての作品から何かを受け止めることなんてできません。なのでせめて、届いたときにはその届いたということを言葉にして、これからも自分なりに表現していければと思います。その言葉が別の誰かに届くかどうかは分かりませんが、少なくともその作品と創作者に向き合う自分がいるということは、示せるので。(ファンレターなどを送る方が直接的でいいんでしょうけど。)

 もう1つは、おっさん目線で。いや、主人公たちの教師にあたる年齢なわけですから、この作品を読みながら(あー若いっていいなー)だの(ぼくにもこんな純粋な時期があったなー)(いや……なかった……)だのと若き日を思い出して自滅エンドにひた走る手もありますし、あるいは(こういう若者たちをちゃんと支えていけるように大人として頑張らねば)と奮起する手もあるんですが、どちらかというと年甲斐もなく(ぼくももう少し頑張るか)と思ってしまうのでした。なんとかの冷や水。でも、そう思わせてくれる台詞がこの作品の中にありまして。第2巻まででいちばん好きな箇所なので抜き書きさせていただきます。

 

 生まれてくる時からずっと、生まれてくる時代を間違えたと思った。

 やりたいことはもう誰かがやってて、あこがれはすぐ過去になる。

 

 何をしたってもう古いんだよ。

 新しいことって結局、忘れられた古いことなんだ。

 同じことを人間はずっとくり返してる。

 

 だから俺は古いことをやる。

 

 古いことのなかに「誰もやらなかったこと」を見つけられたら、

 

 古いことは新しくなる。

 

 (相澤いくえ『モディリアーニにお願い』第2巻 小学館ビッグコミックス 2016 p.134-5)

 

 これを読んだとき、ちょうどぼく自身が加齢による思考の硬直化などで袋小路に入りかけていまして。そうか、後ろを真剣に見直すことは前に進むことなんだな、と気づかされ、背中を押してもらえた気がしたのです。まだやりようはいくらでもある。たぶん。うん。

 

 もうじき第3巻も発売されるということで、楽しみです。